未来史シリーズ-③flower~閉ざされた都市で、人形は扉を開ける鍵を探す

江戸川ばた散歩

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76.「十年前の夏。この都市が切り離されて閉じてしまった記念日」

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 低音の男は、のそのそと、だけどわざわざチケットを出して開場開演時間を指でしめす。彼女はそりゃそうだけどさあ、と腰に手を当てながら、

「だって放っておいたら、パンフとか買えなくなっちゃうじゃないの。あたしそーゆうのやだからね」

 彼女の後ろに控えていた二人は顔を見合わせ、苦笑いする。

「ま、とにかくそれでも開場時間前に来たんだから、文句はないだろ?で、余ってた一枚だけどな」
「誰かに売れたの?」

 そうは言いつつも、彼女はどうも低音の男の周りに居るものに目線が行く。

「特に見つからなかったからな、俺がも一枚引き取ることにしたわ。でこいつを連れてきたから」
「それってお前の言ってた」

 後ろの二人のうち、彼女の彼氏らしい男が口をはさむ。

「そ。電話したら隣の県から、とことこと一人で来やがった。いい根性してるよ。弟だ」
「それは兄貴の悪い影響じゃねーのか?」

 にたにたと、後ろの一人が腕組しながら笑いを飛ばす。「兄貴」は自分の腰程度の身長の弟の頭をわしづかみすると、ほれお前ちゃんと挨拶しろ、と頭を無理矢理下げさせようとする。

「なんすんだよっ!」

 まだほんの少年の声が周囲に飛んだ。

「初対面の人には挨拶! それが礼儀とゆーものだっ!」
「てめえっ無理矢理押さえつけるのは礼儀に反しねえのかっ!」

 そう言って「弟」は必死で「兄貴」の力に抵抗して首に力を込めて下げようとしない。

「あ、そ。じゃ」

 ぱっと手を放す。いきなりすこん、と上からかかる力が取れたので、「弟」はげ、と声を立ててそっくりかえりそうになる。おっと、と「兄貴」はそれを支える。
 気がつくと、友人達は声は立てないが腹を抱えて笑っていた。特に彼女は、顔を真っ赤にして、目に涙をためている程だった。

「……馬鹿あ…… 化粧が落ちたらどうするのよっ!」
「お前の面の皮厚いから大丈夫だろ?」
「化粧ってのは厚い面の皮の上に塗るんだよ、馬鹿」
「あんたらねーっ!」

 まあまあ、そろそろ行こう、と彼女の彼氏が全員の肩をぽんぽんと交互に叩く。伸びかけた髪を首の所でくくっている彼は、「弟」の目線と同じ位置にくるようにかがみ、ぐしゃぐしゃとまだ荒れてない髪をかきまわす。

「けっこう今日のバンドいいからな、しっーかり聞いてくんだぞ」

 優しい笑顔だった。
 うん、と「弟」はうなづく。
 そして五人は横並びになって会場に入っていく。
 それと同時に音はすうっと消えていった。耳なりだけがひどく高い音で安岐の中に残った。
 陽も沈みかけていたまま動きを止める。風も止まる。

 安岐はため息をつく。見覚えのある光景だった。だがずっと忘れていた光景だった。
 忘れていた。本当に忘れていたのだ。
 だが彼の知っている光景は、カメラアングルが違う。少なくとも、安岐は、あの「弟」の姿を見たことがなかった。いや手はある。足はある。だけど顔と背中を見たことはない。何故なら。

 あれは俺だ。

「……ふうん…… そんなことがあったの」

 心臓が止まるかと思った。相変わらず音はしないのだ。なのに声はちゃんと聞こえる。

「あんまり安岐とここで会いたくはなかったな」
「HAL…… さん」

 安岐は目を疑った。HALがいつの間にかそこに居た。噴水のへりの、自分の左隣にいつの間にか座っていた。
 ふっと手元が明るくなる。
 振り向くと、噴水塔の外側に取り付けられた小さなライトが点いていた。オレンジと白の混ざったような色の光は、上からこぼれ落ちてくる水を照らし出す。
 白いぴったりしたニットのHALもその光に、オレンジ色に染まっていた。
 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。街灯の冷えた色の光と、噴水塔の暖かい色の光が、どちらも綺麗に安岐の目の前に浮かび上がっていた。

「……何で……」
「ん?」
「何でHALさんここに居るの? 俺は川に落ちた筈だろ?」
「そうだね…… 君は川に落ちたよ。それは事実。実際ここにいるんだから」

 何か、違う、と安岐は思う。いつもの彼とは何処かが違っていた。座りながら片方の足だけを立てて抱えている。
 そして顔からいつものくすくす笑いが消えている。

「HALさんも川に落ちたの?」
「俺?」

 形の良い唇の端がきゅっと上がる。

「俺は違うよ。前、君に言わなかった? 俺はここに居られるの」
「いつも? だってこれは川の底じゃないの?」
「川の底にこんな街があるってのも妙だよね。水もないし」

 それはそうだけど。嫌な奴だな、と安岐はつぶやく。

「あの時、君と朱夏をさらっただろ? あれと同じ空間だよ」
「違う空間? でもそれが…… どういう意味か、俺にはにはよく判らないよ」

 まあそうだよね、とHALはつぶやいた。

「ところで、さっき君、どっかで見た人達を見なかった?」
「見た」

 確かにあれは、見たことがある。兄貴。自分。兄貴の友達の…… 壱岐と…… 東風…… 「タカトウ」と夏南子。

「だけどあれは」
「そ。あれは十年前」
「十年前」
「十年前の夏。七月二十三日。この都市が切り離されて閉じてしまった記念日」

 ああそうだ、と安岐は思った。確かにその日だったんだ。
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