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4.香からの「方違え」の際の手紙―――姉?

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 出仕の前に、梛は香に文を出した。
 その時「形代の姫君」についての感想も書きおいた。
 香は梛の身辺がどうあろうと、返事の有無に関わらず、文をぞくぞくと送って来る。正直、そんな彼女の言葉の海に梛はどう返していいのか判らなくなっていた。
 だからこの時の様にきちんとした用件があることはありがたかった。
 ちなみに彼女からの文の中には、彼女の身辺にあったのだろう恋愛沙汰のことも書いてあった。



「先日、方違えに男のかたがいらしたのです。
 若い方と乳母が言ったので、私は姉と一緒に御簾ごしに眺めたり声を聞いたりしながら、品定めしていました。
 無論父には内緒です。男の品定めなどはしたない、と常々私を教え諭してます。父はこういうことを私達がするのが大嫌いなのです。既に婚期は逃している娘なので、はしたないことをして恥の上塗りをするな、と言わんばかりに! 本当に適当な縁談が無いなら一生独身でいろ、とばかりに。
 一方、乳母や野依は仕方がないわね、と言いたげに私達を見ていました。
 ああでも私、決して父のことが嫌いな訳ではないのですよ。むしろ大好きです。私に漢文の読み方を教えて下さったのも父だし、何かと誉めて下さったこともあるし。
 ただいつも『お前が男だったらなあ』と言わなければ最高なのてすけどね。私はそれを言われるのが大嫌いなのです。本当に嫌いなのです。だってそうでしょう? 私が男でないことは私のせいじゃあありませんもの。そんなこと私に言われても困ります。困るんですよ。
 だけどお父様ですもの。面と向かってそう言い返すこともできないし。それにお父様だって悪気があって言ってるんじゃないんです。だから余計に嫌なんですけど。でも、だったら初めから漢文とか教えなければ良かったのに、と思います。思いませんか?
 母が居たら、きっとお父様には『女の子に余計な知識なぞ教えないで下さい』とでも言ったと思うのですよ。弟の出来が決して良くない以上、母が居たら、絶対私をそういう風には育てなかったと思うのですよ。違いますか?
 そういうことって梛さまはございませんでした? そちらのお父上は有名な歌詠みで。
 ああ、不躾なことを聞いてしまいました。書いてしまったから仕方が無いですが…… それはまあ、とりあえずどちらでもいいことですよね。
 そうそう、方違えにきたひとなのですが、私と姉が対に住んでいることはご存知だったのでしょうね。その夜、いらしたのですよ。
 私達はもう寝入ってしまっていました。先に簀子のほうの物音や薫りに目覚めたのは私のほうです。姉は身体が弱いので、一度寝付くとそうそう物音くらいでは起きません。私は軽く揺すって彼女を起こしました。半分眠った頭で、それでも誰かが外に居ることを知ると、彼女は怯えました。私はと言えば、怖さもありましたが、それより期待の方が大きかったです。もしかしたら、物語にあるような『恋』が始まるかもしれない、と。
 私も姉ももう相当な歳です。耳年増にもなっています。何かあったらあったで構わない、と覚悟を決めていました。何って向こうが言って来るのか、想像して、受け答えする心を決めていました。だって男なんて、誰でもそう変わらないのでしょう?
 ところが私と姉が一緒に寝ていることを知ると、そのひとの動きが止まりました。迷っていらっしゃる、と私達は囁きあいました。そしてそのかたは、あれこれ迷った結果、とうとう入って来なかったのです。
 姉はほっとして、再び安らかな眠りにつきました。
 しかし私は胸にもやもやとした気持ちが残り、なかなか寝つけませんでした。
 翌朝早く、そのひとに私は咲いたばかりの朝顔と共に、『本気でいらしたのですか? それともただの気まぐれですか?』という意味の歌を送ってやりました。本当には『意気地なし』とののしってやりたかったのですけどね」



「居ませんよ」
 松野は不思議そうな顔で梛を見た。
「前式部丞の一番上は香さまですよ」
「それ本当なの?」
「松野が梛さまに嘘ついてどうするんですか」

 彼女はむっとして答える。確かにそうだ。
 だったら彼女が言う「姉」とは誰だろう。

「じゃあ、誰かあねいもうとの縁を結んだひとが居るのかしら」

 そういうことはよくあることだ。実の妹を亡くしたひとと姉を亡くしたひとが仮の縁を結ぶとか。仲の良い女友達の中でも特にそれは親密なものだ。

「あの姫君にそこまで親しいひとが居るとも思いにくいですよ」
「私もよ」

 梛はつぶやく。
 だがそうと言い切ることができる訳でもない。梛に宛てるような、あんな手紙を熱烈に送られたら、中には絆される女性の一人も居てもおかしくはない。特にこれと言ってすることの無い姫君だったら。



「これは申し上げていいことかどうか判らなかったので」

 出仕のための衣装の準備をしながら、ある日松野はぼそぼそと口にした。

「向こうの姫君は、よく自分にはお姉様が居る、居るはずよ、見えないの、とおっしゃっていた様です」
「……何それ」
「だから申し上げにくいと」
「嘘をついていた」
「のではなく」

 手は止めない。

「姫君には本当に『お姉様』が見えていたかの様です」

 それには梛は何も言えなかった。
 現在は中務なかつかさの宮・具平親王の元に仕えているらしい。果たしてそんな彼女がちゃんと宮仕えができるのか、やや不安になった。
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