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第35話 皇帝は皇后をその名においてそそのかす
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一方の皇后アリカは。
帝国最大の蔵書を誇ると言うその場所に籠もり、出るまでにかなり苛立ちを抱え込んでいた。
「ご存知ですか、陛下?」
時々窓からやって来る皇帝に彼女は言った。
「何をだ」
「書庫の冊子達です」
皇帝カヤは黙って訝しげに彼女を見た。
「使えるものも確かに多いのですが、そうでないものも多すぎます」
「ふぅん?」
「どうしてそれを明らかにしないのですか。陛下はご存知でしょう」
まあな、と皇帝はうなづいた。
「それは俺も思ったことがある」
皇帝は窓辺に座ってつぶやいた。
光溢れる外には緑がきらめいていた。
穏やかな午後だった。サボンが茶を用意して来る間のことだった。
「だが過去の賢人の書を、間違いだと言える者がどれだけ居る?」
アリカは口ごもった。眉を寄せた。彼女を一番良く知るサボンですら珍しいと評するだろう表情だった。
「判っているだろうが」
皇帝は目を伏せた。
「宮中で、―――いや、この帝国において、現在世に出回っている究理について、間違いを間違いだと断言できるのは、俺とあなただけだ」
アリカは黙った。確かに皇帝の言う通りなのだ。
「それは…… 機が熟さないということですか」
そうだ、と彼はうなづいた。
「それがたとえ皇帝である俺であったとしても、駄目だ」
「しかし陛下が受け継いだ知識は確かに」
「そう、確かに父帝より知識は受け継いだ。だが、その知識はあくまで知識に過ぎない」
「……」
アリカの眉間のしわはますます深くなった。
「正直、俺からしてみれば、その知識にしても、実感の伴わない、そう、何処かの遠いおとぎ話の様にしか感じられない」
「それは私も同様です。……ですが」
「あなたは承知できないのだな」
皇帝はふっ、と笑った。
「何故だろうな。あなたは今まで、どんな生活も受け入れてきたのだろうに」
皇帝の視線はアリカの下腹部へと移る。
「それとも今あなたの中で育っている子は、あなたをも変えてしまうのだろうか」
「いいえ陛下」
アリカは顔を上げた。
「私は何処であろうと、私に変わりはありません。立場が変わろうと名前が変わろうと」
使用人のサボンが皇后アリカになった。ただそれだけのことなのだ。
「何処であれ、何であれ、私はその場その場で納得の行くことをしたいだけなのです」
サヘ将軍家の使用人であるなら、使用人なりに納得の行くことを。
皇后という今の立場なら、その立場で納得の行くことを。
「ただその立場が変わった。それだけなのです」
「あなたは強いな」
皇帝は身体を乗り出す。
「強くはありません。考え方に柔軟さが無いのです」
「柔軟さ、か?」
「私はその時その時の立場でできる限りのことをしたい――― ただそう思うだけ、なのです。それを止める術を考えることの方が、できる限りのことをしない様にすることの方が、私には難しいのです」
皇帝は暫し考える。
「つまり、前しか向けない。そういうことかな」
「判りません。陛下の御目にはそう映りますか?」
「ああ。俺の目には、あなたはそう映る」
そして彼は、そうだな、と顎をしゃくる。
「そう、あなたの側についている彼女がはらはらしている姿も見える」
ぐっ、とアリカは詰まる。
「あなたは上に立ったことが無いだろうから下の者を気遣う気持ちがまだよくは判らないだろう」
はい、とアリカは素直にうなづく。
「だが今の立場は、一つの動きがそのまま下へと伝わる。あなたが何かしようとすれば、あなたにそうしてもらうために、おそらくはあなたが思っている以上の下の者が動くのだ」
「……はい」
「ただ」
皇帝は彼女の顎を持ち上げる。視線が絡む。
「彼等はあなたの命令を聞くために居る。そのあたりを上手く掴むと良い」
「え」
「現在の書物に納得がいかない。ならあなたはその間違いは間違い、正しいものを正しいと実証する様な者を集めればいい。あなたの名において」
「そんなことが」
皇帝はにやり、と笑う。
「あなたは俺よりおそらく賢い」
「そんな」
「俺は所詮『宿屋の倅』だ。それ以上でもそれ以下でもない。母が昔言った。お前には野心が無い、と」
母。それは話に聞く風夏太后、今も行方が知れない皇太后のことだろう。
「俺には野心は無い。確かに無い。興味も無い。だがあなたにはあるだろう?」
「それは」
「既に野心ではないのか? その立場で納得のできることを、というのは」
野心――― 野心だろうか。アリカはその言葉に戸惑う。それは危険な言葉だった。それまで彼女は思いついたことの無い言葉だった。
「あなたは野心を持てば良い」
皇帝はあっさりと言った。
「俺の持てない分だけ持てばいい」
「そんな」
「あなたの言葉は俺の言葉として受け取る様、民に号令を出せば済むことだ」
「そんな、おそれ多い」
「民を苦しめなければ、それでいい。ただ」
「―――お茶をお持ちしました」
戸口からサボンの声。耳に届く。
「またいずれ」
唇を軽く、かすめる感触。戸が開く。アリカは視線を移す。
「……どうしました?」
振り向いた時、皇帝の姿は既にそこには無かった。
帝国最大の蔵書を誇ると言うその場所に籠もり、出るまでにかなり苛立ちを抱え込んでいた。
「ご存知ですか、陛下?」
時々窓からやって来る皇帝に彼女は言った。
「何をだ」
「書庫の冊子達です」
皇帝カヤは黙って訝しげに彼女を見た。
「使えるものも確かに多いのですが、そうでないものも多すぎます」
「ふぅん?」
「どうしてそれを明らかにしないのですか。陛下はご存知でしょう」
まあな、と皇帝はうなづいた。
「それは俺も思ったことがある」
皇帝は窓辺に座ってつぶやいた。
光溢れる外には緑がきらめいていた。
穏やかな午後だった。サボンが茶を用意して来る間のことだった。
「だが過去の賢人の書を、間違いだと言える者がどれだけ居る?」
アリカは口ごもった。眉を寄せた。彼女を一番良く知るサボンですら珍しいと評するだろう表情だった。
「判っているだろうが」
皇帝は目を伏せた。
「宮中で、―――いや、この帝国において、現在世に出回っている究理について、間違いを間違いだと断言できるのは、俺とあなただけだ」
アリカは黙った。確かに皇帝の言う通りなのだ。
「それは…… 機が熟さないということですか」
そうだ、と彼はうなづいた。
「それがたとえ皇帝である俺であったとしても、駄目だ」
「しかし陛下が受け継いだ知識は確かに」
「そう、確かに父帝より知識は受け継いだ。だが、その知識はあくまで知識に過ぎない」
「……」
アリカの眉間のしわはますます深くなった。
「正直、俺からしてみれば、その知識にしても、実感の伴わない、そう、何処かの遠いおとぎ話の様にしか感じられない」
「それは私も同様です。……ですが」
「あなたは承知できないのだな」
皇帝はふっ、と笑った。
「何故だろうな。あなたは今まで、どんな生活も受け入れてきたのだろうに」
皇帝の視線はアリカの下腹部へと移る。
「それとも今あなたの中で育っている子は、あなたをも変えてしまうのだろうか」
「いいえ陛下」
アリカは顔を上げた。
「私は何処であろうと、私に変わりはありません。立場が変わろうと名前が変わろうと」
使用人のサボンが皇后アリカになった。ただそれだけのことなのだ。
「何処であれ、何であれ、私はその場その場で納得の行くことをしたいだけなのです」
サヘ将軍家の使用人であるなら、使用人なりに納得の行くことを。
皇后という今の立場なら、その立場で納得の行くことを。
「ただその立場が変わった。それだけなのです」
「あなたは強いな」
皇帝は身体を乗り出す。
「強くはありません。考え方に柔軟さが無いのです」
「柔軟さ、か?」
「私はその時その時の立場でできる限りのことをしたい――― ただそう思うだけ、なのです。それを止める術を考えることの方が、できる限りのことをしない様にすることの方が、私には難しいのです」
皇帝は暫し考える。
「つまり、前しか向けない。そういうことかな」
「判りません。陛下の御目にはそう映りますか?」
「ああ。俺の目には、あなたはそう映る」
そして彼は、そうだな、と顎をしゃくる。
「そう、あなたの側についている彼女がはらはらしている姿も見える」
ぐっ、とアリカは詰まる。
「あなたは上に立ったことが無いだろうから下の者を気遣う気持ちがまだよくは判らないだろう」
はい、とアリカは素直にうなづく。
「だが今の立場は、一つの動きがそのまま下へと伝わる。あなたが何かしようとすれば、あなたにそうしてもらうために、おそらくはあなたが思っている以上の下の者が動くのだ」
「……はい」
「ただ」
皇帝は彼女の顎を持ち上げる。視線が絡む。
「彼等はあなたの命令を聞くために居る。そのあたりを上手く掴むと良い」
「え」
「現在の書物に納得がいかない。ならあなたはその間違いは間違い、正しいものを正しいと実証する様な者を集めればいい。あなたの名において」
「そんなことが」
皇帝はにやり、と笑う。
「あなたは俺よりおそらく賢い」
「そんな」
「俺は所詮『宿屋の倅』だ。それ以上でもそれ以下でもない。母が昔言った。お前には野心が無い、と」
母。それは話に聞く風夏太后、今も行方が知れない皇太后のことだろう。
「俺には野心は無い。確かに無い。興味も無い。だがあなたにはあるだろう?」
「それは」
「既に野心ではないのか? その立場で納得のできることを、というのは」
野心――― 野心だろうか。アリカはその言葉に戸惑う。それは危険な言葉だった。それまで彼女は思いついたことの無い言葉だった。
「あなたは野心を持てば良い」
皇帝はあっさりと言った。
「俺の持てない分だけ持てばいい」
「そんな」
「あなたの言葉は俺の言葉として受け取る様、民に号令を出せば済むことだ」
「そんな、おそれ多い」
「民を苦しめなければ、それでいい。ただ」
「―――お茶をお持ちしました」
戸口からサボンの声。耳に届く。
「またいずれ」
唇を軽く、かすめる感触。戸が開く。アリカは視線を移す。
「……どうしました?」
振り向いた時、皇帝の姿は既にそこには無かった。
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