四代目は身代わりの皇后①発端

江戸川ばた散歩

文字の大きさ
35 / 38

第35話 皇帝は皇后をその名においてそそのかす

しおりを挟む
 一方の皇后アリカは。
 帝国最大の蔵書を誇ると言うその場所に籠もり、出るまでにかなり苛立ちを抱え込んでいた。

「ご存知ですか、陛下?」

 時々窓からやって来る皇帝に彼女は言った。

「何をだ」
「書庫の冊子達です」

 皇帝カヤは黙って訝しげに彼女を見た。

「使えるものも確かに多いのですが、そうでないものも多すぎます」
「ふぅん?」
「どうしてそれを明らかにしないのですか。陛下はご存知でしょう」

 まあな、と皇帝はうなづいた。 

「それは俺も思ったことがある」

 皇帝は窓辺に座ってつぶやいた。
 光溢れる外には緑がきらめいていた。
 穏やかな午後だった。サボンが茶を用意して来る間のことだった。

「だが過去の賢人の書を、間違いだと言える者がどれだけ居る?」

 アリカは口ごもった。眉を寄せた。彼女を一番良く知るサボンですら珍しいと評するだろう表情だった。

「判っているだろうが」

 皇帝は目を伏せた。

「宮中で、―――いや、この帝国において、現在世に出回っている究理について、間違いを間違いだと断言できるのは、俺とあなただけだ」

 アリカは黙った。確かに皇帝の言う通りなのだ。

「それは…… 機が熟さないということですか」

 そうだ、と彼はうなづいた。

「それがたとえ皇帝である俺であったとしても、駄目だ」
「しかし陛下が受け継いだ知識は確かに」
「そう、確かに父帝より知識は受け継いだ。だが、その知識はあくまで知識に過ぎない」
「……」

 アリカの眉間のしわはますます深くなった。

「正直、俺からしてみれば、その知識にしても、実感の伴わない、そう、何処かの遠いおとぎ話の様にしか感じられない」
「それは私も同様です。……ですが」
「あなたは承知できないのだな」

 皇帝はふっ、と笑った。

「何故だろうな。あなたは今まで、どんな生活も受け入れてきたのだろうに」

 皇帝の視線はアリカの下腹部へと移る。

「それとも今あなたの中で育っている子は、あなたをも変えてしまうのだろうか」
「いいえ陛下」

 アリカは顔を上げた。

「私は何処であろうと、私に変わりはありません。立場が変わろうと名前が変わろうと」

 使用人のサボンが皇后アリカになった。ただそれだけのことなのだ。

「何処であれ、何であれ、私はその場その場で納得の行くことをしたいだけなのです」

 サヘ将軍家の使用人であるなら、使用人なりに納得の行くことを。
 皇后という今の立場なら、その立場で納得の行くことを。

「ただその立場が変わった。それだけなのです」
「あなたは強いな」

 皇帝は身体を乗り出す。

「強くはありません。考え方に柔軟さが無いのです」
「柔軟さ、か?」
「私はその時その時の立場でできる限りのことをしたい――― ただそう思うだけ、なのです。それを止める術を考えることの方が、できる限りのことをしない様にすることの方が、私には難しいのです」

 皇帝は暫し考える。

「つまり、前しか向けない。そういうことかな」
「判りません。陛下の御目にはそう映りますか?」
「ああ。俺の目には、あなたはそう映る」

 そして彼は、そうだな、と顎をしゃくる。

「そう、あなたの側についている彼女がはらはらしている姿も見える」

 ぐっ、とアリカは詰まる。

「あなたは上に立ったことが無いだろうから下の者を気遣う気持ちがまだよくは判らないだろう」

 はい、とアリカは素直にうなづく。

「だが今の立場は、一つの動きがそのまま下へと伝わる。あなたが何かしようとすれば、あなたにそうしてもらうために、おそらくはあなたが思っている以上の下の者が動くのだ」
「……はい」
「ただ」

 皇帝は彼女の顎を持ち上げる。視線が絡む。

「彼等はあなたの命令を聞くために居る。そのあたりを上手く掴むと良い」
「え」
「現在の書物に納得がいかない。ならあなたはその間違いは間違い、正しいものを正しいと実証する様な者を集めればいい。あなたの名において」
「そんなことが」

 皇帝はにやり、と笑う。

「あなたは俺よりおそらく賢い」
「そんな」
「俺は所詮『宿屋の倅』だ。それ以上でもそれ以下でもない。母が昔言った。お前には野心が無い、と」

 母。それは話に聞く風夏太后、今も行方が知れない皇太后のことだろう。

「俺には野心は無い。確かに無い。興味も無い。だがあなたにはあるだろう?」
「それは」
「既に野心ではないのか? その立場で納得のできることを、というのは」

 野心――― 野心だろうか。アリカはその言葉に戸惑う。それは危険な言葉だった。それまで彼女は思いついたことの無い言葉だった。

「あなたは野心を持てば良い」

 皇帝はあっさりと言った。

「俺の持てない分だけ持てばいい」
「そんな」
「あなたの言葉は俺の言葉として受け取る様、民に号令を出せば済むことだ」
「そんな、おそれ多い」
「民を苦しめなければ、それでいい。ただ」
「―――お茶をお持ちしました」

 戸口からサボンの声。耳に届く。

「またいずれ」

 唇を軽く、かすめる感触。戸が開く。アリカは視線を移す。

「……どうしました?」

 振り向いた時、皇帝の姿は既にそこには無かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。

灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。 彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。 タイトル通りのおっさんコメディーです。

おばさんは、ひっそり暮らしたい

蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

処理中です...