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第1話 十年一昔というが
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経ってしまうと案外早い。
―――というのは大人の話だ。
子供、特に生まれてからの十年なんていうのは、目の前に起こる一つ一つが不思議に満ち満ちている。
「だからどうして僕はわざわざ母様と離れて暮らさないといけないんだよ!?」
少年の中にそんな疑問が湧いても仕方がないというものだ。
「仕方ないだろう? 君の御母君は、誰よりも大事なお仕事があるのだし」
「だったら兄さんの母さんは何だよ。エガナは僕の乳母だけど、お前とも今は暮らせてるじゃないか……」
「言っとくけどラテ、俺は母さんが君に乳をやっていた時には離れて暮らさなくてはならなかったよ」
「そうなんだよ! だからそこでまずおかしいじゃないか! 僕はそもそも何で帝都で過ごして、今になって副帝都で暮らさないといけないんだよ!」
「だからそれも君が皇太子だからだろう? 十六歳にもならずに帝都で暮らせたのは」
「だったら初めから副帝都で母様と暮らせた方が良かった」
「だけどそれには御母君の」
―――堂々巡りである。
*
さてここで毛を逆立てた仔猫の様に怒っているのはムギム・カジャラーテ・クアツ。現在の「帝国」の皇太子である。齢十歳。
二年前から副帝都の一つの屋敷に乳母とその息子と共に移り住み、素性を隠して学問所へと通う。
とりあえずここでは、ラテという通り名を元に変名のラテ・タバイを使っている。
そして彼に対して少し視線を落として相対しているのはその乳母の息子―――ラテ皇子の乳母子だった。
生まれたのが先ということで、乳母子は普段はこう呼ばれている。「フェルリ兄さん」と。
本名はメラ・ラニフェルリエ・トバーシュ。だが彼自身も、フェルリ・タバイと呼ばれていた。
トバーシュという父姓が判れば、そこから「皇太子の乳母」メラ・フリエガナ・トバーシュの存在が明らかになってしまう。
彼女もまた、ここではただのメラ・エガナだった。「一つ違いの二人の息子」を持ち、夫は遠くの任地に居るために一人副帝都の家を守っている、ということになっていた。
皇太子が学問所に入ることができると判断された時、副帝都に移り、それなりの教育を他者と関わりながら身につけさせる様に、と指示されていたのだ。
二人をさして区別することなく育てる様に、できれば逞しく、と。
そして一月に一度、皇后とその側近の女官が副帝都をエガナの友人という名目で訪れる。
その母君を少し前に見送って。
「だけどそこまで君が御母君のことを好いていたとは知らなかったな」
乳母子の言葉は厳しい。
そうあるべし、と彼は彼で上から叩き込まれているのだ。
いつかは常に敬語を使い、恭しく仕えることになるにしても、今はできるだけただのきょうだいの様に過ごせと。
そんな訳で、初めて会った時から口げんかばかりである。
同じくらいの子供と遊ぶ機会が殆どなかったラテは面食らった。
後宮では十六歳の新入り女官が一番若い。自分と同じくらいの少年など、それこそ母親の側近女官と共にお忍びで市場に出かけた時くらいしか見たことがなかった。
見ることはあっても、実際に話したり、ましてや殴り合いのケンカなど。
現在は散々しているのだが。
そして現在もまた、堂々巡りの口げんかをしている。
いや、口げんかのうちにも入らない。ラテは何かしら言葉にすることはできないが、苛立ち、それを「兄」にぶつけているだけなのだ。
本当に怒っているのは、兄の言葉にではない。少し前にこの家に二日程滞在し、またすぐに発っていった実の母親に対して。遠くに用事があるから来月は来られないと平気な顔で言った彼女に対してなのだ。
「でもだからと言って、君があの方をそんなに好きだとも思えないのだけど。それに俺が母さんから聞いた話では、向こうに居た時も君はそんなに懐いていたとは聞いてないぞ」
「そりゃそうだよ。あのひとはいつもサボンと一緒に仕事仕事仕事だもの。顔だって忘れかけてたってエガナに言われたよ。覚えてないけど」
「だったらいいじゃないか。そういう御母君なんだっていうことで」
「だけど」
「こら! そんなびっくりする様な大声で怒鳴り合ってるのは誰!」
そのフェルリの母、ラテの乳母であるエガナの声が二人を合わせた程の大きさで二人に刺さる。
「家の中だからってそう大声で言うものじゃないの!」
「ごめん」
フェルリはぱっと母親の方を向いて謝った。
「ラテ様はどうしたの!? 何をそんなに苛立ってるの?」
「いつもの奴だよ、母さん」
「それはねえ……」
ふう、とエガナはラテをそっと抱きしめる。
どうしようもないことなのだ。彼女は良く知っている。無論上つ方に乳母が要るということは良く知っている。だがここまで母親が何もしない―――いや、関心が―――無い訳ではないが、その種類が。
エガナ自身が宮中で見てきたこの子供の母親の「らしく無さ」が、他の貴族だの大商家だのと比べて奇妙であることに気付いていた。
ただそれが何処から来るのか、この母性豊かな女性にはよく判らなかった。ただ、「だからこそ」自分に育てることを任せたのだろう、ということだけは理解できた。
十年は一昔。大人にとってはあっと言う間であるかもしれない。
だが子供と、その子供に関わってきた大人にとっては決して短い時間ではなかった。
―――というのは大人の話だ。
子供、特に生まれてからの十年なんていうのは、目の前に起こる一つ一つが不思議に満ち満ちている。
「だからどうして僕はわざわざ母様と離れて暮らさないといけないんだよ!?」
少年の中にそんな疑問が湧いても仕方がないというものだ。
「仕方ないだろう? 君の御母君は、誰よりも大事なお仕事があるのだし」
「だったら兄さんの母さんは何だよ。エガナは僕の乳母だけど、お前とも今は暮らせてるじゃないか……」
「言っとくけどラテ、俺は母さんが君に乳をやっていた時には離れて暮らさなくてはならなかったよ」
「そうなんだよ! だからそこでまずおかしいじゃないか! 僕はそもそも何で帝都で過ごして、今になって副帝都で暮らさないといけないんだよ!」
「だからそれも君が皇太子だからだろう? 十六歳にもならずに帝都で暮らせたのは」
「だったら初めから副帝都で母様と暮らせた方が良かった」
「だけどそれには御母君の」
―――堂々巡りである。
*
さてここで毛を逆立てた仔猫の様に怒っているのはムギム・カジャラーテ・クアツ。現在の「帝国」の皇太子である。齢十歳。
二年前から副帝都の一つの屋敷に乳母とその息子と共に移り住み、素性を隠して学問所へと通う。
とりあえずここでは、ラテという通り名を元に変名のラテ・タバイを使っている。
そして彼に対して少し視線を落として相対しているのはその乳母の息子―――ラテ皇子の乳母子だった。
生まれたのが先ということで、乳母子は普段はこう呼ばれている。「フェルリ兄さん」と。
本名はメラ・ラニフェルリエ・トバーシュ。だが彼自身も、フェルリ・タバイと呼ばれていた。
トバーシュという父姓が判れば、そこから「皇太子の乳母」メラ・フリエガナ・トバーシュの存在が明らかになってしまう。
彼女もまた、ここではただのメラ・エガナだった。「一つ違いの二人の息子」を持ち、夫は遠くの任地に居るために一人副帝都の家を守っている、ということになっていた。
皇太子が学問所に入ることができると判断された時、副帝都に移り、それなりの教育を他者と関わりながら身につけさせる様に、と指示されていたのだ。
二人をさして区別することなく育てる様に、できれば逞しく、と。
そして一月に一度、皇后とその側近の女官が副帝都をエガナの友人という名目で訪れる。
その母君を少し前に見送って。
「だけどそこまで君が御母君のことを好いていたとは知らなかったな」
乳母子の言葉は厳しい。
そうあるべし、と彼は彼で上から叩き込まれているのだ。
いつかは常に敬語を使い、恭しく仕えることになるにしても、今はできるだけただのきょうだいの様に過ごせと。
そんな訳で、初めて会った時から口げんかばかりである。
同じくらいの子供と遊ぶ機会が殆どなかったラテは面食らった。
後宮では十六歳の新入り女官が一番若い。自分と同じくらいの少年など、それこそ母親の側近女官と共にお忍びで市場に出かけた時くらいしか見たことがなかった。
見ることはあっても、実際に話したり、ましてや殴り合いのケンカなど。
現在は散々しているのだが。
そして現在もまた、堂々巡りの口げんかをしている。
いや、口げんかのうちにも入らない。ラテは何かしら言葉にすることはできないが、苛立ち、それを「兄」にぶつけているだけなのだ。
本当に怒っているのは、兄の言葉にではない。少し前にこの家に二日程滞在し、またすぐに発っていった実の母親に対して。遠くに用事があるから来月は来られないと平気な顔で言った彼女に対してなのだ。
「でもだからと言って、君があの方をそんなに好きだとも思えないのだけど。それに俺が母さんから聞いた話では、向こうに居た時も君はそんなに懐いていたとは聞いてないぞ」
「そりゃそうだよ。あのひとはいつもサボンと一緒に仕事仕事仕事だもの。顔だって忘れかけてたってエガナに言われたよ。覚えてないけど」
「だったらいいじゃないか。そういう御母君なんだっていうことで」
「だけど」
「こら! そんなびっくりする様な大声で怒鳴り合ってるのは誰!」
そのフェルリの母、ラテの乳母であるエガナの声が二人を合わせた程の大きさで二人に刺さる。
「家の中だからってそう大声で言うものじゃないの!」
「ごめん」
フェルリはぱっと母親の方を向いて謝った。
「ラテ様はどうしたの!? 何をそんなに苛立ってるの?」
「いつもの奴だよ、母さん」
「それはねえ……」
ふう、とエガナはラテをそっと抱きしめる。
どうしようもないことなのだ。彼女は良く知っている。無論上つ方に乳母が要るということは良く知っている。だがここまで母親が何もしない―――いや、関心が―――無い訳ではないが、その種類が。
エガナ自身が宮中で見てきたこの子供の母親の「らしく無さ」が、他の貴族だの大商家だのと比べて奇妙であることに気付いていた。
ただそれが何処から来るのか、この母性豊かな女性にはよく判らなかった。ただ、「だからこそ」自分に育てることを任せたのだろう、ということだけは理解できた。
十年は一昔。大人にとってはあっと言う間であるかもしれない。
だが子供と、その子供に関わってきた大人にとっては決して短い時間ではなかった。
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