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7.ペロンの女帝「エピータ」

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 実際腕は確かなようだった。何はともあれ、その店の料理が彼の口に合ったのは事実だった。結局Gがその店に通うようになったのは、それが原因だったのだ。
 彼はあまり食事に頓着しないので、ある程度美味い店と思うと、面倒なので通い付けにしてしまえ、というクセがあった。それに、ある程度通い付けの店を作っておくと、そこから情報が系統だって受け取れるという利点は確かにあったのだ。
 昼の定食を食べながら、ちょうど客の少ない時間帯、カウンター席に陣取った彼は、もう結構前からこの人工惑星の店で働いているというイェ・ホウから情報を収集し始めていた。
 この店自体は決して大きくない。昼のピーク時に、七つあるテーブルの、それぞれに四つついた椅子と、カウンターの七席が埋まってしまう程度だった。だがそれは相席もあり、なおかつその空き時間が来るまで、ひっきりなしに客が来るという事態を考えると、やっぱりちゃんと流行っているということだろうな、と彼は考える。

「中華は、この惑星では人気あるの?」
「という訳じゃないでしょ。だいたいこの惑星自体、結構広いんだよ?」
「広いかなあ」
「そらまあ、本当のそのへんの惑星に比べれば、ずいぶん小さいけどさ、海とか無い分、人が住める部分はずいぶん多いね」

 そう言えばそうだね、と彼はうなづき、れんげでスープを口に含む。皿の上の酢豚に箸を動かす。

「でも階層が上になるほど、狭くなるんじゃないかなあ」
「いんや。結局広さあたりの人数じゃない?」
「人数?」
「だってさ、結局第一層なんて、我らが女帝陛下、エビータとその時の愛人がたしかいないじゃない。使用人は殆どいないようなものだし」
「いないの?」

 彼はふと眉を寄せた。

「……いや、それほど俺だって知ってる訳じゃないけどさ」
「こらホウ!無駄なこと言ってるんじゃないよっ!」

 奥の女性がイェ・ホウに向かって声を飛ばした。

「いいじゃんユエメイ。そんなことくらい、言って減るもんじゃなし」
「あんたの口があんまり軽いと、後で変な噂立てられたりして、うちのひとが困るじゃないか」
「うちのひと?」
「ん? いや、この店の店主。あのひとは店主の奥さんなの」

 ホウはそう言ってユエメイを指さす。

「奥さん」
「でも調理はこのひとの方が上手いんでさ、厨房はこのひとが担当で、店主はいつも外回りって訳」

 はあ、と彼は答えた。そういう店の事情にはさほど彼が興味無かったのは言うまでもない。
 さし当たり彼が知りたかったのは、ここの住人にとっての「エビータ」だった。
 エビータ。
 ある種の言語における、イヴ、もしくはエバという名の愛称。現在では、愛称であった過去を忘れ、それ自体が一つの名として成立している。
 現在の帝国の共通語は、アングロサクソン系の一言語だが、それはかつて地球に人々が居た頃のものとはかなり異なっている。
 近くにあったラテン系やゲルマン系、スラブ系の言語や、ロマンシュ系の言語と言ったもの、それに他のアジア系の言語と、とにかく当初の進出時に意気が盛んだった国々の言語が、単語といい文法といい、混じり合ってしまっていることは間違いない。
 無論その中で、消え去っていった言語もあるのだ。
 まあそのことはここでは問題にはしまい。それはまた別の話なのだ。
 さてそのとある種の言語を使っていた国で、その女性の名は、とある歴史の一時期、まるで「女帝」のように使われた。それが、この名前の、現在の裏意味となる訳である。
 Gはそのあたりまでは知っていた。つまり、エビータという名は、そもそもこのペロン財団の最初の女帝陛下がそうだった訳ではなく、最初の女帝陛下はその名を自分に課したのだ、ということなのだ。
 そしてそれは、彼女の死後、一種の称号となる。何故か女性名だったそれは、男性が後継者となった時にでも同じなのだ。だが一世二世と続けることはない。エビータは常に一人なのだ。

「もう今のエビータって長いのかなあ」

 彼は何気なく口に出してみる。ホウは首をひねる。

「どうかなあ…… 俺が越してきた時から別段変わったことはないけど。ねえ」
「そうだよねえ…… そりゃあまあ、私が若い頃には一度代替わりがあったけどさ」
「あったんですか?」

 彼は身を乗り出してみせる。
 ユエメイはその彼の視線に軽く肩をすくめた。そして食事の終わった彼の皿を片づけると、その代わりに、真っ白なティーポットと湯呑みを置き、一杯注いだ。花の香りが混じった香ばしい香りが漂った。

「ま、あったとこで、別段私らにどうってことはないんだがね」

 見たところ、ユエメイは四十代か、それより少し上、というところである。
 調理人であるせいか、化粧気はない。まくった袖から見える浅黒い皮膚は、既に張りもつやも無い。だが、それは決して彼の目には醜悪には見えなかった。むしろそのたくましい、筋肉と、油の飛沫で所々火傷の跡があるその腕は、賞賛に値するものだ、と彼は思った。
 傷は、残るものだ。残って、その存在から、警告と次への道筋を教えるものなのだ。
 したことが全てスイッチ一つで消えるヴァーチャル・ゲームのようものだったら、どんなに楽だろう?
 だが彼はその楽さをよしとしない。
 ふと自分の、むき出しにした手首を見る。
 傷一つなく綺麗なそれは、自分自身の正体を時々思い知らせるのだ。傷はついた。だがそれは自分の身体には残らない。それが致命傷であろうが、そう簡単に自分は死なない。傷跡は、いつか消える。残る程のことは、まずない。

「どうしたの?」

 青年が訊ねたので、Gははっとして顔を上げた。

「いや、別に……」
「ふーん。考え事している顔もいいけど」

 呆れた、というようにユエメイは両手を上げた。

「で、その前のエビータってのはどういう方だったんですか?」
「見たかってこと?」
「や、見てなくてもいいです。現在の方のことだったら、他の人にも聞き易いんですが、前の方だと……」
「年の功ってかい」

 げらげら、と彼女は笑った。そしてたくましい腕を胸の前で組む。

「前の方は、女性だったね。決して美人ではなかったけれど、実に有能な方だったよ。だからこの惑星内も実に意気揚々だったのに、騒動らしい騒動も起こっていなかった」
「やはりそれでも第一層に呼ばれるひとは居たのでしょう?」
「そらねえ」

 当然というように、彼女はうなづく。

「ここはそのための惑星なんだからさ。それは当然だろう。あれだけのことをしているひとだったんだから、気に入ったひとはそれだけのことをしなくちゃあならないよ」

 なるほど、と彼は思った。そういう感覚か。

「あたし達は、エビータのおかげで、ここに住まいを店を構えて、食っていけるんだ。外でどんだけ大きなことをしているのかはよく判らないけど、とにかくあの方のおかげで、死なずに生きてる。それだけは忘れちゃならないんだよ?判ってるかい? イェ・ホウ」
「判ってますよーっ」

 へらへら、とホウは笑った。

「けどユエメイ、確かに最近、あまり『お召し』はないらしいねえ」
「ああ、そう言えばそうだねえ」
「『お召し』?」
「知らない?」

 ホウは訊ねる。彼は首を横に振った。何の意味だか、無論彼が判らない訳がない。

「それは不意打ちのようなものだけどさ」

 イェ・ホウは説明を始める。無論彼は知っているのだ。

「ある日いきなり、第一層の管理人からの呼び出しが来るんだ。第一層に住むように、と。まあだいたい、君らの住む第二層の人間がそう呼ばれることが多いね」
「そうなの?」

 彼は素知らぬ顔で問い返す。

「知らなかったの?」
「全く、じゃないけど……」

 彼は曖昧に答える。ふふん、とホウはカウンターの方へとぐっと身を乗り出す。

「拒否権はない。そしてその夜は、エビータのお相手をする。無論夜のね。それで気に入られたら、そのまましばらくその第一層に住まわされる」
「……気に入られなかったら?」
「それで終わり」

 彼は思わず眉をひそめていた。

「終わり、って?」
「だから、終わり、だよ」

 ホウは首の前で手をすっと動かす。

「殺されるんだ」

 それは初耳だった。
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