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17.自分の顔を正面で見たことなんて、誰も無いのだから。

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 何が、と彼は訊ねた。さんざん、舞台の上で絡んだ後だったので、部屋に戻ってまで何かしらしようという気は起きなかった。身体も疲れていたし、一緒のベッドに潜り込んだとしても、それだけだった。
 そしてそのベッドの中で、寝ころんだまま、見えるか見えないか程度の灯りの中で、連絡員は、口だけを動かした。音声は立てない。
 何が、と彼は訊ねた。

「気持ちよさそうだったじゃない」

 ああ、と彼はうなづいた。
 それなりに彼は彼でその舞台の上で楽しんでいたのは事実だ。この意外と曲者の連絡員が上手かったというのも確かにあるが、奇妙に、衆人環視の中で演じる濡れ場という奴につきまとう、集中した視線にさらされている、さらし者になっているという感覚は、彼に自虐的な快感を覚えさせたのだ。
 無論それに味をしめる訳ではないが、自分にそういう面があったことを思い出したのは事実だった。

「俺はさ、お前はこういうことは好きじゃあないと思ってた」
「何で?」
「だってお前、俺と再会した頃は、全然熱くならなかったじゃない。この間までそうだったじゃない。それなのに何よ」

 それなのに何よ、と言われても。
 実際、自分でも判らないのだ。

「そんなに俺、熱くなっていた?」
「……んじゃないの?」
「かもしれない」
「自分のことなのに、何だよ」

 そう言って、スイッチを切ったように、連絡員は寝入ってしまった。そして彼は残される。

 俺は、変わったんだろうか?

 盟友は、その晩は泊まったが、次の日にはもう自分の仕事へと戻って行った。彼は木曜日を、一人で過ごした。
 ハウスキーパーのエルディは来なかった。キャサリンは居たが、ひどく不機嫌な表情に、彼はやや自分から近づこうという気を無くした。クローバアの姿は無かった。

「……んでもびっくりしたあ」

 小楽団の小柄な打楽器奏者のニイは、ばんばん、と彼の背中をはたいた。

「びっくりしたよ俺。でも聞いたよ。知り合いの女の子の代わりだったって?」
「まあね」
「身代わりなんだって? 凄いなあ。俺絶対できない」
「しなくたっていいよ、あんなことは」

 彼は苦笑を返す。だがその単純な明るさは何となく嬉しいものがあった。
 だが。

「けど」

 その時、聞き覚えの無い声が、彼の耳に飛び込んできた。声の方には、オリイが居た。長い髪のせいか、その表情は見えない。

「気をつけた方が、いい」

 それはひどくたどたどしい言葉に感じた。あれ、とそれを聞いたニイは目を丸くする。

「珍しいね、オリイが人に話しかけるのなんて」
「俺なんか、半年ぶりに聞いたぜっ!」

 ジョーは腰に両手を当ててあきれ果てた顔で言った。するとオリイは顔を上げた。長い前髪が、ざらりと揺れた。ややその動きに不自然なものを感じたが、彼はその時は気がつかなかった。
 そしていつものように、退けた後、第三層へと向かった。もうあまり時間が無い、と思うと、妙に彼はあの調理人に会いたい、と思ったのだ。
 それは単純な感覚だった。確かにあの旧友と似た所はあるんだが、それだけでなく、何かイェ・ホウには、また会いたいと思わせる何かがあったのだ。
 それが何だろう、と彼は道々考えてみる。
 惹かれている、というのはたぶん間違いないとは思う。だがそれは、強烈な気持ちではない。少なくとも、自分があの盟主に感じる……感じずにはいられない、あの気持ちとは別のものだ。
 だが、あの旧友とも違う。好かれるのは楽しい。心地よい。だがそれだけだった旧友とは。それ以上になることを無意識にお互いに拒んでいただろう、あの声を持つ男とは、また別のものが、感じられるのだ。
 何だろう、と彼は思う。考えて答えの出るものではないとしたら、身体が知っているのだろうか。
 盟友は言った。お前変わったよ。

 俺は変わったのだろうか。

 何となく、そのまま中華料理店へ行くより、彼は歩いていたかった。賑やかな街をふらふら、と彼の足はさまよっていた。この街は、特有のにおいがする。濃い、それは、何処か懐かしさを感じさせるものだ。決してそれが自分の育ってきた文化圏には無いというのに、彼にとって、そのざわめきは、懐かしいものに感じられた。
 幾つかの角を曲がり、幾つかの小径を入った。

 その時だった。
 彼は、自分の目を疑った。

 足が、地面に縫いつけられたように、動かない。逆に、手が、指が、宙に何かを掴もうと、自分の意志に反したように動く。

 相手は、綺麗な目をしていた。

 見覚えのある目だ。だがこの顔を直接見たことは、一度もない。それはそうだ、と彼は思う。

 自分の顔を正面で見たことなんて、誰も無いのだから。

 相手の綺麗な目は、自分を見て、大きく見開かれていた。髪は自分より少しだけ長かったような気がする。白いシャツを着て、黒い細身のズボンを履いていた。
 そして、彼は逃げたのだ。それも、ひどく無様にも、背中を向け、体勢を崩しながら、段差やちょっとした道路のくぼみにつまづきそうになりながら。
 罠かもしれない、ということは頭からすっかり消えていた。とにかく、自分の姿が正面に居る、という事態を信じたくなかった。何故なら、それが自分であるということだけは、彼はどうしようもなく、納得できたのだ。自分であるからこそ、自分の姿が、本物であると。
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