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28.工作員発見
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はい、と彼は答えて、声の方へと進む。するとふっと足が止まる。バランスを崩し、彼は白い雲の上に、倒れ込んだ。
何故転んだのだろう、とGは思った。何かの気配が、消えたのだ。隣に居たはずのオリイの姿が、あの視線が、消えている。
どうなっているんだろう、と彼は思いながらも、身体を起こそうとする。だがそれはできなかった。反転させられ、肩を布の雲の上に押し付けられる。雲の上だから、痛くはない。
「なるほど、確かに希に見る者だな」
「……お誉めに預かって恐縮……」
襟元に手をかけられ、目を半分伏せる。連絡員にも度々注意されたが、そこで観察する視線になってはいけないのだ。自分の視線が、どれだけ時には強烈なものになるのか、彼はよく知っていた。そしてそこに、決して情動に溺れていないことが見えてしまうことも。
だが相手の姿は、思っていた以上に、ありふれた男のものだったのに、彼はやや落胆を覚えなくはない。これが、「エビータ」なのか?
やや苦笑したくなる。何か自分は期待していたというのか。
開きやすい前開きの服は簡単に、彼の身体を露わにしていく。彼はつい、天井に視線をやる。光は一体何処から来るのだろう。上にも布はあちこちに張られ、それ自体が天蓋のようだった。そしてその布を通しても、光が降りてくる。
彼はふと、触れられていない側の自分の腕に目をやる。磨かれたせいなのか、いつもより妙に白く見える。
……影は?
ふと、彼は手を動かしてみる。
影は何処にあるのだろう。
上から光が降りてくるなら、手の下に、影ができていいはずだ。だがそれが見あたらない。全方位から、柔らかだが、光が当てられているのだ。
これはこいつの趣味だというのだろうか? 彼は自分の上に居る男にちら、と視線を移す。
ありふれた男だ、と彼は再び思う。回される腕の感触、乾いた唇、固い髪、年の頃は、中年にはなるかならずか。その割には筋肉の衰えはさほどに無い。
そういったものが、彼に「学生」をやらせていた頃の記憶を思い起こさせる。
相手が身にまとっているものは、色こそ違うが、彼が着せられたものに近い。着ているもので判断はできない。だが彼の知っているありふれた男、というのは、決して特権階級のものではない。
彼はもどかしげに身体を動かす。腕を回そうとする。すると相手はそれをどう取ったのか、その腕を取って、手を握りしめようとした。
相手の、やや汗ばんだ手が、彼の手を。
……!
相手の身体が離れたのを彼は気付いた。
「どうしたの?」
乱れた髪をかき上げながら、彼は穏やかに笑った。
「それ以上続けなくて、いいの?」
「あなたは」
なるほど、と彼は思った。目の前に居る男は、急に体勢を崩したせいか、ひどく情けない格好になっている。彼はそれを見て、ひどくおかしくなった。こうなると、もう止まらない。彼は自分の顔が化粧のせいで、どれだけ強烈な印象を残すか、気付いていた。
重ねた手から、信号が感じられた。
相手の顔から、脂汗がだらだらと流れるのが目に映る。なるほど、「入れ替わり」ね。彼はオリイが何気なく言った言葉を思い返す。
「『エビータ』が我らが組織に与しているとは知らなかったがな。何故貴様はここに居る。答えろ」
彼は凶悪な程の笑みを浮かべ、はだけた服のまま、目の前で萎縮する相手を見据える。口調はあくまで穏やか。だがそれが一層に、相手の恐怖心を刺激する。
「重ねて問う。答えろ」
「……わ、私は……」
「連絡員の部下だな。奴の命令も無視して、貴様はこんなところで何をしている!」
「……わ…… わかりません……」
「判らない?」
「……私もまた、『お召し』にあったのです。そしてここに連れてこられ…… ですが、やはり、そこに居たのは、違うのです」
「違う」
続けろ、と彼は短く命じた。
「そこに居たのは、その時は女でした。しかしやはり私のような、何処かの組織の構成員でした」
「ふん。それで気に入られたというのか」
「……いいえ、そうではありません。女は、逃げたい、と言ったのです」
「……逃げたい?何故だ。そもそも何故、その女はそこに居たのだ?」
「我々は、本物の『エビータ』に見られるためにここに連れて来られたのです。今この様子も、見られているはずです」
なるほど、と彼は思った。合点がいく。このふんだんな灯りは、舞台の照明なのだ。
「それで女はどうした。何故お前がその女に変わって、こんなところに居る」
「女は、逃げられなかったのです」
「逃げられなかった?」
つん、と鼻を木の香りが強く刺激した。
「……そう…… 逃げられない……」
男はそうつぶやくと、自身の喉と胸を強く押さえた。はっ、と彼は顔を上げる。濃度が、上がっているのだ。
うぉぉぉぉぉ、と男は喉の奥から突き上げるような声を発して、彼に掴みかかってきた。彼は一瞬早く横に避ける。だが、雲の上は、ひどく頼りなく、避けた身体をも柔らかく抱き込んでしまう。
彼は慣れない場所に、体勢を崩した。立て直そうとしたが、今度は一瞬、彼の方が遅かった。相手の手が、自分の首にかかるのを感じる。彼は引き離そうと、手首を掴むと、思い切り力を込めた。なのに、その手はびくともしない。普通の力ではない。
薬を使われている、と彼は気付いた。この中に漂っている匂い。これを長い間、この男は吸わされてきたのだろう。おそらくは、何処かから命令が、男に飛んでいるはずだ。それを突き止めなくては……
だが、力が入らなくなってくるのを彼は感じる。空気を、新鮮な空気を。
視界が、赤くなってくる。
天使種も、こんな所に弱点があるんだな、とその一方で、冷静に考えている自分が居る。
何故転んだのだろう、とGは思った。何かの気配が、消えたのだ。隣に居たはずのオリイの姿が、あの視線が、消えている。
どうなっているんだろう、と彼は思いながらも、身体を起こそうとする。だがそれはできなかった。反転させられ、肩を布の雲の上に押し付けられる。雲の上だから、痛くはない。
「なるほど、確かに希に見る者だな」
「……お誉めに預かって恐縮……」
襟元に手をかけられ、目を半分伏せる。連絡員にも度々注意されたが、そこで観察する視線になってはいけないのだ。自分の視線が、どれだけ時には強烈なものになるのか、彼はよく知っていた。そしてそこに、決して情動に溺れていないことが見えてしまうことも。
だが相手の姿は、思っていた以上に、ありふれた男のものだったのに、彼はやや落胆を覚えなくはない。これが、「エビータ」なのか?
やや苦笑したくなる。何か自分は期待していたというのか。
開きやすい前開きの服は簡単に、彼の身体を露わにしていく。彼はつい、天井に視線をやる。光は一体何処から来るのだろう。上にも布はあちこちに張られ、それ自体が天蓋のようだった。そしてその布を通しても、光が降りてくる。
彼はふと、触れられていない側の自分の腕に目をやる。磨かれたせいなのか、いつもより妙に白く見える。
……影は?
ふと、彼は手を動かしてみる。
影は何処にあるのだろう。
上から光が降りてくるなら、手の下に、影ができていいはずだ。だがそれが見あたらない。全方位から、柔らかだが、光が当てられているのだ。
これはこいつの趣味だというのだろうか? 彼は自分の上に居る男にちら、と視線を移す。
ありふれた男だ、と彼は再び思う。回される腕の感触、乾いた唇、固い髪、年の頃は、中年にはなるかならずか。その割には筋肉の衰えはさほどに無い。
そういったものが、彼に「学生」をやらせていた頃の記憶を思い起こさせる。
相手が身にまとっているものは、色こそ違うが、彼が着せられたものに近い。着ているもので判断はできない。だが彼の知っているありふれた男、というのは、決して特権階級のものではない。
彼はもどかしげに身体を動かす。腕を回そうとする。すると相手はそれをどう取ったのか、その腕を取って、手を握りしめようとした。
相手の、やや汗ばんだ手が、彼の手を。
……!
相手の身体が離れたのを彼は気付いた。
「どうしたの?」
乱れた髪をかき上げながら、彼は穏やかに笑った。
「それ以上続けなくて、いいの?」
「あなたは」
なるほど、と彼は思った。目の前に居る男は、急に体勢を崩したせいか、ひどく情けない格好になっている。彼はそれを見て、ひどくおかしくなった。こうなると、もう止まらない。彼は自分の顔が化粧のせいで、どれだけ強烈な印象を残すか、気付いていた。
重ねた手から、信号が感じられた。
相手の顔から、脂汗がだらだらと流れるのが目に映る。なるほど、「入れ替わり」ね。彼はオリイが何気なく言った言葉を思い返す。
「『エビータ』が我らが組織に与しているとは知らなかったがな。何故貴様はここに居る。答えろ」
彼は凶悪な程の笑みを浮かべ、はだけた服のまま、目の前で萎縮する相手を見据える。口調はあくまで穏やか。だがそれが一層に、相手の恐怖心を刺激する。
「重ねて問う。答えろ」
「……わ、私は……」
「連絡員の部下だな。奴の命令も無視して、貴様はこんなところで何をしている!」
「……わ…… わかりません……」
「判らない?」
「……私もまた、『お召し』にあったのです。そしてここに連れてこられ…… ですが、やはり、そこに居たのは、違うのです」
「違う」
続けろ、と彼は短く命じた。
「そこに居たのは、その時は女でした。しかしやはり私のような、何処かの組織の構成員でした」
「ふん。それで気に入られたというのか」
「……いいえ、そうではありません。女は、逃げたい、と言ったのです」
「……逃げたい?何故だ。そもそも何故、その女はそこに居たのだ?」
「我々は、本物の『エビータ』に見られるためにここに連れて来られたのです。今この様子も、見られているはずです」
なるほど、と彼は思った。合点がいく。このふんだんな灯りは、舞台の照明なのだ。
「それで女はどうした。何故お前がその女に変わって、こんなところに居る」
「女は、逃げられなかったのです」
「逃げられなかった?」
つん、と鼻を木の香りが強く刺激した。
「……そう…… 逃げられない……」
男はそうつぶやくと、自身の喉と胸を強く押さえた。はっ、と彼は顔を上げる。濃度が、上がっているのだ。
うぉぉぉぉぉ、と男は喉の奥から突き上げるような声を発して、彼に掴みかかってきた。彼は一瞬早く横に避ける。だが、雲の上は、ひどく頼りなく、避けた身体をも柔らかく抱き込んでしまう。
彼は慣れない場所に、体勢を崩した。立て直そうとしたが、今度は一瞬、彼の方が遅かった。相手の手が、自分の首にかかるのを感じる。彼は引き離そうと、手首を掴むと、思い切り力を込めた。なのに、その手はびくともしない。普通の力ではない。
薬を使われている、と彼は気付いた。この中に漂っている匂い。これを長い間、この男は吸わされてきたのだろう。おそらくは、何処かから命令が、男に飛んでいるはずだ。それを突き止めなくては……
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