その貴なる姫君

江戸川ばた散歩

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2 仲純くんのある意味の変人ぶり、そして実家の羽振り

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「正直、あの年はおかしなことばかりが起こった」

 東宮は当時を振り返り、遠い目をする。

「寺社仏閣に、祈願とやらで金銀や御灯みあかしの油を寄進する者が無闇に増えましたな」
「そんなこともあったな。おかげで寺からは実に有り難い有り難いという声が上がったというが… あと、将来を嘱望されていた青年に限って、原因不明の病に倒れたり、……おお、そうそう、仲純はそれだったな」
 はい、と祐純は目を伏せる。

   *

 祐純にとっては最も仲の良い弟、仲純の調子がおかしくなったのは、数年前のことだった。
 それまで彼は、侍従として帝に仕え、東宮の元にも出入りが自由となっていた。
 「侍従」は、帝の側に仕え、過ちがあったらそれを諫め、帝の直接の手足となって働く役である。
 身分の上では五位であるが、時には中納言や参議と言った者でもつくことがあるという。
 実際、その頃の彼の寵愛ぶりは周囲のこの評からも伺い知ることができる。

「源仲純、藤原仲忠なかただ、源仲頼なかよりの『良き仲』三人と『行い正しき』良峯行正の四人が帝に奏上して叶わないことはない」

 この四人は楽の達人としても良く知られていた。
 特に仲純の箏、仲頼の笛、それに行正の琵琶に関しては、東宮の師として遇せられる程であった。
 出世街道順風満帆、父正頼も、兄弟の中で自分の後を継がせるなら仲純を、と考えていた様だった。
 祐純や他の息子達は、いざとなったら婿取られた側の援助を受け、独立させれば良いと考えていたふしがある。
 ちなみに祐純自身は、父とおなじく先の帝の皇女を娶っている。
 ただ皇女と言っても更衣腹である。女一宮だった母を娶った父との待遇の差は歴然としていた。
 とは言え、彼は与えられたこの妻に充分満足し、二人の男の子を儲け、それなりに幸せに暮らしている。
 それだけに、ある程度の歳になっても浮いた噂の一つも無い弟のことを、祐純は心配していた。
 両親も同様だった。
 彼に関しては、あちこちから「婿になって欲しい」という申し込みが来ていた。
 だが彼はそのどれにもまるで見向きもしなかった。

「一体どういうことだろう」

 両親は首を傾げたものである。

「そなたの婚儀の時には、何はともあれ皇女が降嫁されるということで、それまでの女関係を全て精算しなくてはならない程だったではないか」

 祐純も父にそう言われると二の句が次げなかった。

「いやお前だけではない。その上二人の時も、相手が一世源氏の姫だったり、平中納言の姫だったり、何かともめ事は避けたいところだったから、大変だったんだぞ。彼奴らときたら、召人達に一体何人手をつけていたやら」

 そう言えば子供も居た様な。祐純は兄達の時の騒ぎを思い出していた。
 次男の兄など、召人腹の息子を一人、後で引き取って正妻のところで育てさせているという。

「だったらいいではないですか。仲純はどんな方とでも身一つ綺麗なままで婿として迎えられるでしょう」

 能天気に祐純はそう父に意見した。
 すると。

「馬鹿。多少ならそれは構わないのだ。何ごとも経験だ」

 そう言うと父はやや複雑な表情になった。正頼には遊ぶ間も無く、二人の妻が与えられてしまった。

「経験も無しに女を相手にすると、後で痛い目に遭うこともある。多少のことは身につけた上で、それなりの相手と結ばれる。それが一番なのだ」

 奇妙な実感の籠もった言葉に、祐純は神妙にうなづいたものである。
 その上で彼は父に言った。

「でもまあ、仲純についてはそっとしておいた方がいいのではないですか?」
「何故そう思うのだ」
「あれは真面目な奴ですから」

 確かに、と父も大きくうなづいた。

「それに最近、侍従仲間の仲忠と兄弟の契りを結んだそうですし」
「おお、彼とか」

 父の顔が急にほころんだ。その青年の姿を思い出したらしい。

「まあ、あれ程の美しい青年が側に居るなら、とりあえず女はどちらでもいい、という気分になってもおかしくはないだろうな」
「ええ全くです。私も仲純が羨ましい程です」

 ははは、と親子は笑い合う。だがすぐに祐純は真面目な表情に変わった。

「それに仲純に負けず劣らず…… いや、彼は仲純以上の楽の奏者です」
「確かに。わしもあれに琴(きん)の琴を演奏させるために何度嘘をついたことか」

 おかげで信用されなくなってしまった、と正頼は肩を落とした。

「それこそ下手な約束を軽くするからですよ。ともかくやはり才能を持つ同士が知り合ったことで、今はまだ夢中なのではないでしょうか」
「成る程な」

 その時はそれで納得したものだった。
 そう、確かあの頃だ。
 祐純は思い返す。

「仲忠と兄弟の契りを交わした頃から、次第に食事もあまり摂らなくなり、やつれてきた様に思います」
「おお」

 ぽん、と東宮は脇息を打つ。

「そう言えば確かに当時の彼奴は、何処か病み窶れた美しさが漂っていたな」
「実際病み窶れていた訳ですが」

 東宮は口を尖らせる。

「だとしたら、仲忠もその辺りのことは良く知っているかもしれないな」
「ああ!」

 今度は祐純が笏と手をぱちんと打ち合わせる。そうだそうだ、と大きくうなづく。
 東宮はそんな彼の様子を一通り眺めてから、再び口を開いた。

「ともかく、あの頃の仲純に関する状況を一通り調べて欲しいのだ」
「藤壺の御方のために、ですか?」
「そうだ。何故藤壺があれ程兄の死に悲しんでいるのか、わしには判らないのだ」
「それは…」
「わしには兄弟を思う気持ちというものが判らぬ」

 はっ、と祐純は息を呑む。

「わしにとって、兄弟はまず『政敵』だった」
「何をおっしゃいます!」

 慌てて口を挟む。

「東宮さまと張り合うことが出来る方がこの宮中の何処にいらっしゃいましたか」

 そう、確かにこの目の前の東宮に叶う者は居ない。
 彼は現在の帝の中宮腹の一宮である。中宮は太政大臣の娘である。
 他にも女御更衣、その生んだ皇子は沢山居るが、彼の優位は疑い様の無いものだった。

「は。そなたがそれを言うか?」

 東宮は口の端を軽く上げ、笑う。

「そなたの姉、仁寿殿女御が男皇子を生んだ時には、我が母はずいぶんと心騒いだと聞くぞ」

 う、と祐純は黙った。
 内裏の後宮において、現在最も力を持っているのは中宮である。
 だが最も帝の寵愛深いのは、仁寿殿女御――― 正頼の大姫である。
 彼女は現在、弾正台尹の役にある三宮を始め、四、六、八、十宮、それに女一宮、二宮、四宮と総勢八人の子沢山である。
 皇子達は傑出したところこそないが、健やかに成長し、皇女達は美しいと評判になっている。
 対して中宮は、東宮こそその位につけることはできたが、二宮は病弱ですぐに僧籍に入り、五宮は性状があまり宜しく無いという評判である。
 皇女も一人居るが、女御腹の宮程の噂は立たない。

「弾正尹宮が生まれた時には、本当に母上はわしに繰り返し繰り返し、兄弟といえども油断はならぬ、と言い聞かせたものだ」
「……そんな」
「それ故、わしには兄弟に対する情というものが良く判らぬ」
「東宮さま」
「だからせめて、仲純が息を引き取るまでの状況が少しでも判れば、あれを慰めるすべも多少なりとも見つかるかも、と思うのだ」
「それ程までに我が妹を…」

 思わず祐純の目に熱いものが滲んだ。
 すかさずそれを東宮の扇が指す。

「そう、それだ。それがわしには無い」

 は、と祐純は慌てて目を拭う。

「頼むぞ。わしは藤壺にどうしようもなく弱いのだ」

 そう言って東宮は苦笑する。
 必ずや、と祐純は深く深く頭を下げるのだった。



 とは言え。
 帰り道の車の中から既に祐純は悩んでいた。
 既に二年も昔のことである。
 仲純の死は、貴宮入内からさほど時間が経っていない。
 一体どの辺りから探ったものか、と彼は考える。
 着きましたよ、という従者の声ではっと我に帰ったくらいだ。

 現右大臣、源正頼の屋敷は広い。
 京の都の一条殿より南、四条より北、壬生二条より東、京極より西には他人の家は無いと言われている。
 その広大な屋敷は四つの町に分かれ、正頼夫妻、息子達とその妻子、娘とその婿達、それに女御の生んだ宮、その婿、更にはそれぞれの使用人などで人が溢れかえっている状態である。
 戻ると子供達が父の姿に気付くがはや、祐純の表着に飛びついて来る。

「父上、お帰りなさいませ」
「東宮さまの急のごようじって何だったんですか?」
「これこれ、そうまとわりつくものではない、宮はた。そなたは今日は宿直の日だろう。弟君も母上の言うことを良く聞いて勉強したのか?」

 殿上童となっている上の子ははきはきと笑顔を返す。

「はい父上、これから向かうところです。出掛ける前に父上にお会いできて嬉しゅうございました」
「うむ、ではしっかりとお勤めを果たして来いよ」

 はい、と元気な返事をして、少年は祐純が退出してきた内裏へと出掛けて行く。

「あなた、お帰りなさいませ」
 おっとりと妻も彼を迎えた。
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