七代目は「帝国」最後の皇后

江戸川ばた散歩

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第54話 辺境学生狩り

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 ティファンは正直言って、そのあたりの様子を詳しく話すのはややためらわれたのだ。
 あの朝は、薬の臭いで目が覚めた。
 つんとする薬の臭い。冷たい布が自分の鼻と口を覆っていた。慌てて手を伸ばし、侵入者の手首を掴み、一気に起きあがった。
 割合相手には力がなかった。だがやや薬を吸い込んでしまったらしく、おまけに寝起きだったので、やや意識ももうろうとしていた。新鮮な空気が吸いたかった。
 ティファンはまだ薄暗い廊下に出た。北向きの窓がずらりと並ぶ廊下は、夜明け前の微かな光で満ちていた。
 だが相手は音もさせず扉を開け、廊下にまで彼女を追ってきた。心当たりは、無くは無かった。だがその話を聞いたのは、つい前日である。前日、同郷のよしみで、時々話をする、バルクム・クシュと話した際初めて「辺境学生狩り」のことを聞いた。
 それがいきなり自分に襲いかかってくるとは。この甘ったれた少女の園の中で、勘が鈍りかけていた自分にティファンは気付いた。
 相手は武器を持っていた。ナイフだ、と気付くのに時間は要らなかった。まだ弱い光を刃はぎらりと反射する。柔らかい靴をはいているのか、それとも裸足なのか、足音がしない。
 と、すっと相手が動いた。ティファンは身をかわす。だがやや反応が遅れたのか、左の腕に微かに痛みが走った。まずい、と思った。
 確かに薬がやや効いているのだ。いまいち自分の思うように身体が動かない。
 相手が何かは判らないが、着ているのは寝間着だった。そして振り向くと、再びふわりと袖が揺れる。ティファンは今度は見逃さなかった。相手右腕向かって蹴り上げる。
 こん、と軽い音が耳に届いた。上手くナイフは落ちたのだ。
 だがどうやら、それが向こうの狙い目だったらしい。相手はその瞬間、ナイフを捨てたのだ。
 しまった。
 ティファンは足を振り上げた不安定さを付かれた。さほど大きくはない身体がふっと動いて、両手を彼女に突き出した。ティファンはバランスを失って背中から倒れそうになった。
 だが倒れなかった。腰がまともに何かにぶつかった。
 窓のせり出し! 倒れかけた身体。二つに分けた長い長い三つ編みが鞭のようにうねる。そして視線は窓越しの明るくなりかけた空に飛んでいた。
 ぐい、と身体を押されるのが判る。何て力! ぶつかった腰がずい、と押されて後ろへ進んでいくのが判る。
 窓は大きく、高かった。せり出しはちょっとした休憩場になるくらい低いのに、窓自体は天井まで延々続く高さである。下の部分の窓は、転落の危険があったので、開けられることはなかった。開けられるのは風を入れるための上の窓だけだった。
 だがその下の窓にティファンは自分が押しつけられているのが判る。しかも片手で。何でこんな力が、というくらい、身体は動かない。ではもう片方は何処に? ティファンは視線を動かす。片方の手は、鍵を開けようとしていた。

 ……落とすつもりだ!

 ティファンは一瞬さっと寒気が走るのを感じた。頭に一瞬にして血が上った。

 これはまずい。

 彼女にとって、他人に殺されることは、自殺の次に困ることだった。
 生命は天から与えられたものだから、自然のままにその寿命を全うする以外の方法で死ぬことは許されないことだった。
 カラ・ハンの者は優れた戦士が多いが、むげに戦争を引き起こさないのは、その信仰に近いもののためである。
 彼らは信仰と名にはしていない。言い伝えだのきまりだの、曖昧な言葉にその信念を置き換えている。だが名はともかく、それがカラ・ハンの者の生き方の中心になっていることは事実だった。
 したがって、カラ・ハンの少女であるティファンもここでむざむざ殺される訳にはいなかった。死ぬならめいっぱい年老いてから草原の空の下。こんな街中で、中等学校生のままで死ぬのはごめんだった。

 ……そうだ。

 ティファンは片手が留守になった相手の襟首を掴んだ。まだいまいち身体が本調子ではない。だが、だんだん明るくなってきた。それがティファンを勇気づける。
 相手の身体がびくんと動いた。
 だが相手に次の行動を取らせる前に、ティファンは相手の身体を膝で持ち上げた。相手の足がぶらぶらと宙を舞うのが判る。すねを蹴ろうとしているのが判る。だがそこで止める訳にはいかない。
 ぐ、と掴んだ襟を引き寄せた。う、と相手の声が洩れた。ティファンは首をすくめた。
 そして勢いよく足を振り上げた。……相手の身体を乗せたまま。
 彼女はこの技には自信があった。組み合っても、幼なじみのエカムすらその時には飛ばされるのだ。
 ティファンは次の事態を素早く予想して、目を閉じた。聞いたことのないような音がして…… 次の瞬間、風が一気に吹き込んできた。 
 ティファンはゆっくりと身体を起こした。
 目を閉じて、ぱらぱらと降りかかるガラスの破片を彼女は払う。髪にそれが絡まる。取ろうとして手に小さな傷がつく。

「……痛」

 何とかしないと、と考えた時だった。ゆっくりと目を開けたティファンは、心臓が飛び出すかと思った。
 そこには、見物客が居たのである。

「な、ナギ……」
「こっち!」

 だがその見物客の反応は、予想とは全く違っていた。
 ナギはさっと落ちていたナイフを拾うと、ティファンの手を引いた。そしてそのまま、彼女をひっぱると、音もさせずに自分の部屋へ入った。

「……見たの?」

 し、とナギは唇に手を当て、顔を横に振った。階段を上る音、廊下を走る音が聞こえる。窓が割れた音に、舎監達が駆けつけてくるのだ。
 ナギは近くの紙に書き付ける。

『髪を切って』

 え、とティファンは目を広げた。うなづきも首ふりもない。ナギは構わずに彼女の三つ編みの先を掴んだ。そして先ほどの相手が持っていたナイフで、それをいきなり切った。

「何を……!」

 ぱっと口を塞ぐ。そしてナギはもう片方の手で切った髪を彼女の目の前にかざす。ガラスの破片が絡みついていた。
 考えてみれば、その時ナギは素手だった。だがティファンはその白い手に傷を見たような記憶はない。
 髪を机の上に乗せると、ナギは続けて何やら書く。

『盗聴機が働いているかもしれない』
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