七代目は「帝国」最後の皇后

江戸川ばた散歩

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第57話 薄荷煙草の軽い香り

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 少し時間は遡る。



 教室棟と宿舎棟をつなぐ廊下は、歩くたびにぎしぎしと音がする。
 この学校の歴史は古かった。何せこの帝国で最初に作られた女子中等教育機関なのだという。正式名称を東海華皇立第一中等学校という。同じ名前の男子中等もあったが、ここは女子中等だった。
 今でこそ、東海管区と青海管区の二つの管区に、「研究教育都市」として指定されている「学都」は十を越えているが、この東海華はその一番最初の学都だった。
 女子中等は、先代の皇帝陛下がずいぶんと開明的な方であったために、その設置が許されたのだという。その程度はシラも知っている。

 ぎしぎし、ぎしぎし。

 シラは確かに動揺していたが、それは校長の期待とは全く別の所にあった。
 渡り廊下棟を抜けると、寄宿舎棟がある。寄宿舎棟は、五階建ての建物である。授業を行う校舎同様、この建物も古い。シラはその最上階にある自分の部屋へと向かう。
 何となく胸の中にもやもやもやもやしたものが溜まっているような気がする。それを早く吐き出してしまいたい。一刻も早く。シラは早足になる。だけど走る訳にはいかない。
 このかぶった猫を維持するためには。
 もう少しだった。もう少しで自分と相棒の部屋だ。誰もいないはず。盗聴器のある位置から一番遠い所を選んで。
 そうしたら思いっきり笑ってやる。
 そう思っていた。だが。ガチャ。扉を開ける音。薄荷煙草の軽い香り。

 …薄荷煙草?

 彼女は目を疑った。一人の女性が居た。一瞬自分がその女性に目を奪われていたことにシラは気付く。

「…あなたは、どなたですか?」

 最初に相棒に出会った時も、似たようなことを口走った記憶がシラにはある。だがその印象は、現在彼女の目の前に居る人物とは全く逆と言っていい。

「ごきげんよう」

 目の前の人物は、アルトの声でそう言った。相棒より低い声。知らない。この人物に会ったことはない。どう言った対応が妥当か? シラは頭の回転を一気に速める。
 とりあえずはこう言っておけば間違いない。

「ごきげんよう。はじめましてというべきでしょうか?」

 室内に居た人物が、例えば物取りだったり、部屋を抜き打ち検査する舎監だったりすれば話は別だ。その時にはその時の対応の仕方というものがある。
 だがこういう場合については教則本がない。
 侵入者の女性は、半分開けた窓に軽く腰掛け、シラが入ってくるまで外の景色を楽しんでいたようだった。
 短い、きついウェーヴのかかった黒髪。それは副帝都の流行の最先端と言っていい。
 濃い黒い眉とその下の大きな黒い目。彫りの深い顔立ちなので、やや濃いめのシャドーがずいぶんと似合っている。そして肌の色自体は白いから、余計にそれは引き立つ。
 上は飾りとしてしか役立たないだろう小さな帽子から、上着から長いスカート、そしてストッキングに靴に至るまで、黒・黒・黒。
 薄荷煙草をふかす煙管すらも黒のつや消しのものである。ずいぶん高級なものなのだろう。見えるか見えないかという程度の模様がぼんやりと浮かび上がって見える。
 そしてその煙管を持つ手には黒のレースの手袋が。

「あなたをお迎えに来たのよ」

 やや気怠げな声がシラの耳に届く。

「それはありがとうございます。ですが貴女様がどなたであるか判らないうちは、ここを動く訳には参りません」
「でしょうね」

 くす、と彼女は笑った。窓から降り、煙管を持っていないほうの手を腰に当て、まだ入り口を閉めないシラの方へとゆっくりと近付いてくる。

「むやみに貴族令嬢たる者が侵入者に気を許してはいけないわね。アヤカ・シラ・ホロベシ男爵令嬢?」
「いったい貴女は、どなたですか?」

 シラは続けて問う。

「私? 私はラキ・セイカ・ミナセイと言う者よ。夫はミナセイ侯爵…ご存知ない?」
「…黒夫人!」

 反射的にその通り名がシラの口から洩れた。ラキ・セイカ・ミナセイは、やや薄い笑いを浮かべ、満足そうにうなづいた。

「知っていて下すって何より。何だったら皇宮の通門証でも見せましょうか?」
「いいえ、結構です」
「あらそう。ならいいわ。ねえせっかく忙しいのを割いてやってきたのよ。あなた早く支度なさいな」
「支度?」
「帰るのに決まっているでしょう?」
「迎えの方がどうの、と… 貴女がそうなんですか?」
「あら、言わなかったかしら?」

 聞いていない、とシラは思う。

「…何やらずいぶん警戒されたようね…」

 当然だ、とシラは思う。
 黒夫人と言えば。
 黒夫人と言えば、帝都の社交界でも、最高の有名人である。皇族の縁戚である公爵家の次に格の高い侯爵家、その中でも筆頭、公爵家とほとんど格が違わないというミナセイ侯爵の夫人。
 最も彼女が社交界の中心人物である理由は、家格だけではない。
 社交性だけでもない。
 知性・教養と言った中身の面も含め、彼女には何やら人を引きつけるものが天性で備わっていた。時には傲慢とまで言われるその振る舞いも、その物腰やら何やらというフィルターを通すと、それは魅力というものに変わるらしい。
 その傲慢と言われても仕方がないのが、彼女のまとう「色」である。
 黒夫人、と言われるだけあって、彼女の身体はいつも黒の衣装でくるまれていた。微妙の色あいの差こそあれ、黒は黒である。
 黒は、帝国では伝統的に、高貴な人か、何かに秀でた人にしかまとうことを許されない色である。さすがにこの現代では「禁止」されてはいないが、まずたいていの人間は大量にまとうことを避ける色である。
 ところがこの夫人ときたら。
 それ以外の色を身につけた彼女を見かけた者はここ十数年ないという。
 もちろんそれまでも、黒を含めた強い色が好きだったのは事実だが、それまでは、深い赤だの、沈みそうな程の青だの藍だの、それなりにとりどりの色を着こなしていたのである。
 ところがある時点から、ぷっつりと彼女は黒しか着なくなった…
 シラは寄宿舎の少女達の愛読する月刊誌「女子学生通信」の記事を必死で頭の奥から引っぱり出していた。
 その雑誌は、教科書程度の大きさ厚さなので、教室に持ち込んでもそう判らない、という利点もあり、少女達の愛読書となっていた。
 だがやはりシラは警戒の念を隠せない。戸口につっ立ったまま、じっと夫人をにらみ据えている。

「じゃあこう言ったらどうかしら?」

 シラは扉に手をかける。

「私はあなたのお母様とお友達だったのよ」
「母と」
「ええ。それもとっても仲の良い」

 ぴりぴりした気分が半分薄れる。だがその言葉はまた一つ別のぴりぴりを生み出すのだ。

「とっても?」
「ええ、とっても」

 夫人は軽く目を細めて、薄荷煙草の煙を軽く吐き出した。

「あなたが同室のお友達と仲の良いくらいに仲良し」

 シラは後ろ手に扉を閉めた。そして奥歯をぎっと噛みしめた。
 仲良し、と言えば、自分と相棒は確かにそれこそ「仲良し」だろう。
 ではどのくらい仲良しか。それを口にはそうそう出す訳にはいかない。少なくともこの寄宿舎の外の世界では。
 おそらく夫人の言うところの「仲良し」は自分と相棒のそれと同じ類のものだろう、と思われる。彼女が自分の母親と少女の頃同じ学校に通っていたとすれば。
 それに心当たりがない訳ではない。

「盗聴を気にしている? だったら平気よ」
「…」
「私も昔はこの学校に居たのよ。そして物騒な生徒だったの」

 だからと言って安心できる訳がないじゃないの!
 シラは内心怒鳴った。



 相棒の名はイラ・ナギマエナ・ミナミと言う。
 何となく覚えにくいというか、アンバランスな名だ、とシラは最初聞いた時に思った。まあ上はいい。彼女はナギマエナという名を嫌って、シラにはナギとだけ呼んでくれ、と最初から言ったものである。
 シラが彼女に初めて会ったのは、一昨年の春だった。
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