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第18話 ただ消しただけ。台帳に二重線を引く程度に。
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目覚めたとき、そこが光に満ちていたので、びっくりした。薄い色のカーテンが、開け放した大きな窓にはたはたとたなびいている。
―――ではここは家ではないんだ。
自分が誰とか、家があったのか、とかいう事がぐるぐると頭の中を駆け巡るのと平行して、目は耳は、肌はそんなまわりの現実をとらえていた。
そして、人の気配。見たことのない人が、いた。
その人は背が高くて、すらっとした身体つきで、長い髪をしている。あまり目立つところはないけれど、整った顔をしている。でも、見覚えがない。
ぼんやりとした頭の中でそんな目の前の現実をとらえていると、急に過去の映像が勝手に浮かび上がる。そして彼女は震える。震えずにはいられない。
目の前の人は、そんな彼女をなだめるように、そっと肩に触れ、大丈夫大丈夫と呪文のように繰り返す。彼女はその温みに安堵する。ここは大丈夫だ、と。何の根拠もないのだが。ここには自分をおびえさせる物は何もないのだ、と。
そう。怖いものなんて、ない。
あのサカイだって、怖くはないのよ。怖いのは、あのひとだけだわ。彼女は思う。……ううん、それでも違う。
怖いのは、「あのひと」じゃなく、「あのひとの中にあたしが生きていなかったこと」なのよ。
だから、いくらサカイがあたしを殺す予感があったとしても、彼のことは怖くなかったのよ。
彼はあたしを殺そうとしたけれど、殺そうとしたってことは、彼はあたしが生きていることを承知していたのだから。
あのひとは違ったわ。
あのひとが彼に命令したのは、自分の間違いを訂正することなのよ。
あのひとがどうこうしたかったのは、自分の過去のあやまちだけなのよ。
そこにあるのが、自分の子供だという意識なんて何もなかったのよ。
あたしはあのひとがあたしを「殺したかった」のだったら、殺されてもいいって思ったのよ。そうすればあのひとの中にはそういう記憶と意識が残るもの。
でも違った。ただ消しただけなのよ。市役所の係員が台帳に二重線を引く程度に。
だからと言って、そんな見方しかしない相手に、どういう感情を、どういうふうにぶつけたらいいのか。
彼女の思考はまだ混乱していて、まずは何をすればいいのか、その順番すら考えることができなかった。
そして、とりあえず、目の前のひとに勧められるままに食事をとることにした。
*
「あの子、『まほ』ちゃんって呼ぼうっと」
彼女が食事をしている時に、時々簡易キッチンに引っ込むマリコさんにハルはそう言った。
「『まほ』ちゃん?」
「そ。悪い?」
マリコさんはその提案を聞いたとき、珍しく自分の中で胸騒ぎがするのを感じた。それでハルの方を直接向かず、ただこう言った。
「悪いとは言いませんけどね」
「いいじゃない? あの子とは違うわよ、あたしはあの子にちゃん付けなんてしたことはなかったでしょ」
「それはそうですけど」
そういう問題ではないのだ、とマリコさんは思う。ハルはやや苦笑を浮かべて、でもそれで決めだからね、と念を押す。マリコさんは逆らわない。
別にどんな名で呼んだところで、それ自体はマリコさんにも「彼女」にも何の問題もない。問題があるのはハルの方だった。呼ぶニュアンスが違ったところで、コトバとしては同じだ。そこに妹の「マホ」と重ね合わせる部分がないとはどうして言えるだろう。
ハルは馬鹿ではない。それは判っているのだ。同じくらいの年の、似た身体つきの彼女を、何処かで重ね合わせている。それが不毛なことであることも。
だいたいハルは、突っ走るときにはとにかく突っ走って、周りの何も見えない人である。ところが、ふとした瞬間に、高見の見物をしている自分が現れる。そんな高見の見物の自分は、生活していく上での実務的な面においてはしばしばハルを助けるものだった。
実際、あのいまいましい葬儀関係の時期は、その高見の見物の自分に身体をゆだねていたとも言える。
だが、それは音楽に没頭しているときには時折邪魔なものになるし、だいたい音楽の中にいるときには眠っていることが多い。ハルにしてみれば、そんな自分は「便利だけど好きではない」存在である。
まあそれでも、現実社会で生きてくためにはそのどちらもが互いにバランスを保っているのだが、時々、何の予告もなく高見の見物の自分は出てくることがある。突っ走る自分のいつも上で、冷ややかに全てを見おろしている。そしてその視線の冷たさが、突っ走る自分すらも凍らせてしまう。
そんなとき、自分のしていることが、ひどく無意味なものに見えてしまうのだ。そうするとハルはどういう表情をしていいのか判らなくなって、とりあえず笑ってみせるしかない。笑うことと泣くことは、どうしようもなくなったときに人間が見せる表情だと聞いたことがある。
だがそんな時の笑いは、本人は取り繕っているつもりでも、マリコさんあたりが見れば一目で判る。今ここで話しているハルの表情は、ややそういう時のものに近い。
何を考えているのだろう。マリコさんは知りたかった。だが、知ったとして、理解できることではないのではもうずっと前から判っていた気がする。
性格の違いという奴だ。マリコさんは、自分が単純な人間だということを知っている。
自分が筋というものを何においても第一に考える人間ということを判っている。理論と理屈と法則と。科学は数学はだから美しい。答が出なければ探せばいい。それは「まだ」見つかっていなくとも、「いつかは」見つかるはずのものだから。
だけどハルの専門である芸術関係はそうではない。
「そこに在るだけで」、時間を空間を精神を混乱させるようなものが、矛盾しているものが、答の出ないものが溢れているのだ。そして、ハルはその混沌を愛して、マリコさんには理解できない。自分の思考回路はそれには向いてないのだ。なら考えたって時間の無駄である。自分は自分のすべきことを一生懸命にすべきなのだ。
だから、マリコさんはハルのような悩み方はしない。マリコさんにとって、ものごとは必ずある筋道を持ったものだったから。だから、とりあえずこう言ってみる。
「別にいいですよ。ニュアンスは違うんですね?」
ハルはうなづいた。
理解はできないが、やってみれば、何か次の行動をおこせるだろう、とマリコさんはふんだのだ。何か、が起こるまでとりあえずマリコさんは思考停止することにした。そこにあるものをあるがままに見よう。判断はそれから。
―――ではここは家ではないんだ。
自分が誰とか、家があったのか、とかいう事がぐるぐると頭の中を駆け巡るのと平行して、目は耳は、肌はそんなまわりの現実をとらえていた。
そして、人の気配。見たことのない人が、いた。
その人は背が高くて、すらっとした身体つきで、長い髪をしている。あまり目立つところはないけれど、整った顔をしている。でも、見覚えがない。
ぼんやりとした頭の中でそんな目の前の現実をとらえていると、急に過去の映像が勝手に浮かび上がる。そして彼女は震える。震えずにはいられない。
目の前の人は、そんな彼女をなだめるように、そっと肩に触れ、大丈夫大丈夫と呪文のように繰り返す。彼女はその温みに安堵する。ここは大丈夫だ、と。何の根拠もないのだが。ここには自分をおびえさせる物は何もないのだ、と。
そう。怖いものなんて、ない。
あのサカイだって、怖くはないのよ。怖いのは、あのひとだけだわ。彼女は思う。……ううん、それでも違う。
怖いのは、「あのひと」じゃなく、「あのひとの中にあたしが生きていなかったこと」なのよ。
だから、いくらサカイがあたしを殺す予感があったとしても、彼のことは怖くなかったのよ。
彼はあたしを殺そうとしたけれど、殺そうとしたってことは、彼はあたしが生きていることを承知していたのだから。
あのひとは違ったわ。
あのひとが彼に命令したのは、自分の間違いを訂正することなのよ。
あのひとがどうこうしたかったのは、自分の過去のあやまちだけなのよ。
そこにあるのが、自分の子供だという意識なんて何もなかったのよ。
あたしはあのひとがあたしを「殺したかった」のだったら、殺されてもいいって思ったのよ。そうすればあのひとの中にはそういう記憶と意識が残るもの。
でも違った。ただ消しただけなのよ。市役所の係員が台帳に二重線を引く程度に。
だからと言って、そんな見方しかしない相手に、どういう感情を、どういうふうにぶつけたらいいのか。
彼女の思考はまだ混乱していて、まずは何をすればいいのか、その順番すら考えることができなかった。
そして、とりあえず、目の前のひとに勧められるままに食事をとることにした。
*
「あの子、『まほ』ちゃんって呼ぼうっと」
彼女が食事をしている時に、時々簡易キッチンに引っ込むマリコさんにハルはそう言った。
「『まほ』ちゃん?」
「そ。悪い?」
マリコさんはその提案を聞いたとき、珍しく自分の中で胸騒ぎがするのを感じた。それでハルの方を直接向かず、ただこう言った。
「悪いとは言いませんけどね」
「いいじゃない? あの子とは違うわよ、あたしはあの子にちゃん付けなんてしたことはなかったでしょ」
「それはそうですけど」
そういう問題ではないのだ、とマリコさんは思う。ハルはやや苦笑を浮かべて、でもそれで決めだからね、と念を押す。マリコさんは逆らわない。
別にどんな名で呼んだところで、それ自体はマリコさんにも「彼女」にも何の問題もない。問題があるのはハルの方だった。呼ぶニュアンスが違ったところで、コトバとしては同じだ。そこに妹の「マホ」と重ね合わせる部分がないとはどうして言えるだろう。
ハルは馬鹿ではない。それは判っているのだ。同じくらいの年の、似た身体つきの彼女を、何処かで重ね合わせている。それが不毛なことであることも。
だいたいハルは、突っ走るときにはとにかく突っ走って、周りの何も見えない人である。ところが、ふとした瞬間に、高見の見物をしている自分が現れる。そんな高見の見物の自分は、生活していく上での実務的な面においてはしばしばハルを助けるものだった。
実際、あのいまいましい葬儀関係の時期は、その高見の見物の自分に身体をゆだねていたとも言える。
だが、それは音楽に没頭しているときには時折邪魔なものになるし、だいたい音楽の中にいるときには眠っていることが多い。ハルにしてみれば、そんな自分は「便利だけど好きではない」存在である。
まあそれでも、現実社会で生きてくためにはそのどちらもが互いにバランスを保っているのだが、時々、何の予告もなく高見の見物の自分は出てくることがある。突っ走る自分のいつも上で、冷ややかに全てを見おろしている。そしてその視線の冷たさが、突っ走る自分すらも凍らせてしまう。
そんなとき、自分のしていることが、ひどく無意味なものに見えてしまうのだ。そうするとハルはどういう表情をしていいのか判らなくなって、とりあえず笑ってみせるしかない。笑うことと泣くことは、どうしようもなくなったときに人間が見せる表情だと聞いたことがある。
だがそんな時の笑いは、本人は取り繕っているつもりでも、マリコさんあたりが見れば一目で判る。今ここで話しているハルの表情は、ややそういう時のものに近い。
何を考えているのだろう。マリコさんは知りたかった。だが、知ったとして、理解できることではないのではもうずっと前から判っていた気がする。
性格の違いという奴だ。マリコさんは、自分が単純な人間だということを知っている。
自分が筋というものを何においても第一に考える人間ということを判っている。理論と理屈と法則と。科学は数学はだから美しい。答が出なければ探せばいい。それは「まだ」見つかっていなくとも、「いつかは」見つかるはずのものだから。
だけどハルの専門である芸術関係はそうではない。
「そこに在るだけで」、時間を空間を精神を混乱させるようなものが、矛盾しているものが、答の出ないものが溢れているのだ。そして、ハルはその混沌を愛して、マリコさんには理解できない。自分の思考回路はそれには向いてないのだ。なら考えたって時間の無駄である。自分は自分のすべきことを一生懸命にすべきなのだ。
だから、マリコさんはハルのような悩み方はしない。マリコさんにとって、ものごとは必ずある筋道を持ったものだったから。だから、とりあえずこう言ってみる。
「別にいいですよ。ニュアンスは違うんですね?」
ハルはうなづいた。
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