バンドRINGERを巡る話⑤決して彼女には気付かれてはいけない。

江戸川ばた散歩

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第3話 名前を呼んだのは彼女のほうが先だった。

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 ワタシ達は時々そこで顔を会わせるようになっていた。

 もっとも校内ではそうそう顔を会わせることはなかった。
 隣とは言え、彼女のクラスとは家庭科や体育の時間に組になることはない。
 芸術科目でも、ワタシは言うまでもなく美術を取っていたし、彼女は書道を取っていた。
 一年生のうちは選択科目も少なかったから、普段の生活の中で彼女と会うことはまずなかった。
 休み時間に、廊下に置かれたロッカーの前で見かけることはあったが、だいたい誰か他のクラスメートが近くに居たから、ワタシも格別声を掛けようという気にはならなかった。
 なのでたびたび顔を会わせると言っても、そこには名前が格別必要ではなかったのだ。
 名前が必要なのは、三人目が入る時なのだ。自分と誰かの二人きりなら、そこに必要はない。



 名前を呼んだのは彼女のほうが先だった。ワタシのスケッチブックの裏に、ローマ字で書いてあったからだ。
 太いマジックでYanase.Jと書かれたそれに、名字? 名前? と彼女は訊ねた。
 さあどっちでしょう、とワタシは答えた。Jで始まる名字はあまり無い。だけど名前としては珍しいヤナセ。

 ワタシはサエナという彼女の名を、彼女の口から直接聞いたことはない。結局最初の中間テストの時に、貼り出される順位の首席に書いてあるものと、それを見て騒ぐ彼女のクラスメートの姿を見て、ようやく彼女と彼女の名が結びついたくらいである。
 もうその頃には六月も近かった。



 雨の降り出す頃だった。梅雨という奴だ。
 さすがにそういう時期になると、「森」で会うという訳にはいかない。
 もっとも会ったところで何かするという訳ではないのだ。話すこともさほどある訳ではない。だいたい大してそんな時間も無いのだ。
 彼女はそこにやって来る時には何かいつも疲れた顔をしていた。
 そしてベンチに脚を組んでスケッチブックに何か書き付けているワタシの横に座ると、ぴっぴっと時計を合わせ、鳴ったら起こしてね、と言ってすぐに寝息を立てる。
 何なんだこの女は、とさすがにワタシも最初は思った。
 実に寝付きがいい。そして寝起きもいい。
 十分か十五分かそこらだろうか。そのくらいに時計のタイマーを合わせると、かっきりそれだけ眠って、すっと起きる。それだけで、やってきた時に見せた疲れた顔が、多少の元気を取り戻す。
 何がそんなに疲れるのだろうか、と思わなかった訳ではない。
 疲れるなら家にでもさっさと帰って寝ればいいのだ。だがこの眠り姫はそういう気配はない。
 そしてその日も、初めはそうするつもりだったのだ。



 昼間は結構いい天気だったのに、夕方になるに連れて、だんだん空が暗くなってきていた。灰色の雲はどんよりと重く、手を伸ばせば届きそうだった。
 嫌な予感はした。そしてその予感は的中するのだ。
 傘を持っていないのに、雨が降ってきた。
 ワタシはその日、美術準備室に居た。
 本体の美術室のほうは、その日、何やら美大を受ける二年三年の先輩達のためのガイダンスとかで、一年生は追い出される形になっていた。
 別に帰ってもよかったのだが、何となく雨足を見計らっていたら、何やらそれどころではない様子になってきた。
 雨は音をさせだし、そんな音の中、ぼんやりと外を眺めていると、だんだん時間の感覚も無くしてきそうだった。
 そんな時に、扉が開いた。

「ああやっぱりここに居た」

 よく通る声が、耳に届いた。さすがにワタシはその時は驚いた。

「あなたのクラスの子に聞いたら、こっちじゃないかって言うから」
「どうしたの一体」

 ワタシはそれしか聞けなかった。すると彼女は窓の外を指した。

「雨が降ってるから」

 実に判りやすい答えだった。

「あなたが近くに居ると、よく眠れるんだもの。そこ貸してね」

 彼女はそう言うと、すたすたと隅に置かれた机に近づき、椅子のほこりを払うと、さっさとそこに座った。そして時計を合わせようとする。

「いいけど、何で家で寝ないのさ?」
「邪魔?」
「いやそういうことを聞いているのじゃなくて」
「いいじゃない。邪魔じゃないんなら」

 邪魔じゃあない。邪魔じゃあないけど。
 彼女は薄い赤のハンカチを机の上に広げると、その上に腕と頭を置いた。そして見事な程な素早さで、彼女は眠りについていた。
 仕方ないな、とワタシは別の椅子を引っぱり出して来て座った。
 雨の音はまだ続いていた。
 その音を耳にしながら、眠る彼女の姿を眺めていると、時間の感覚が無くなっていく。
 時々そのさらりとした真っ直ぐな髪の毛が、緩やかな呼吸のはずみに肩や指に落ちる。
 雨の音は続いている。
 だがそれを止めたのもまた、彼女の時計だった。
 心臓が飛び上がった。時計を止め、ワタシはいつもの様にぽんぽん、と彼女の背を叩いた。
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