未来史シリーズ②星間戦争末期に大規模遊園地を作ろうとした軌道会社の真面目な社長と不穏な技師のはなし。

江戸川ばた散歩

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第6話 「僕がまた変な気起こしてはいけませんからね」

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「……はあ……」

 LB大劇場に足を踏み入れた瞬間、ナガノは大きくため息をついていた。

「どうだい? ご感想は」
「何というか……」

 彼はしばらく人気の無い劇場の、入り口からロビー、通路、吹き抜け、天井、窓と視線をぐるりと移していたが、やがてふと一点に目を向けると、その方向へ足を進めていた。
 私はゆっくりと彼の後をついていく。獲物を見付けた獣? いや、新しい玩具を見付けた子供。そんな表情だった。

「どうしたんだ?」

 高い窓が天井まで続く、ロビーの真ん中で彼は立ち止まり、斜め上に顔を向けていた。

「……社長…… このホール、誰が設計したんですか?」
「え?」
「知っているなら教えて下さい。気になるんです」

 くるりと彼は私の方を向いた。私は一瞬戸惑った。

「……何かこのあたりに、キュア・ファミの作の様な雰囲気が見えるんですけど」

 彼は天井に続く窓のラインをすうっと指で居った。まぶしくて、思わず私は目を細めた。彼はそのまま指を反対側の壁に向ける。

「だけど、こちら側には、かなり最近の建築家のくせの様なものが入ってるんですよ。だいたいこのあたりかな」

 そう言われてみれば、そうだ。確かに違和感のようなものは私も感じていたが、そういうものなのかな、という気分で受け止めていただけだった。

「さすがに専門は強いな」
「専門というか、好きなだけなんですよ。結局は」
「でも好き、が一番強いんじゃないか?」
「ええそうです」

 彼はうなづいた。そして目を細めながら、もう一度天井までのラインを追う。

「この劇場は、元々のクアハウスだった建物を改築したものだったからね。そうだな、だいたい原型は五十年くらい経ってるんじゃないかな」
「五十年ですか…… じゃあだいたい時間も合うな。当時の資料とか残ってますか?」
「資料室に行けば。また空いてる時にでも探してみればいいさ。ただし結構ほこりだらけだけどね」
「それに関してはデータ化とかされてないんですか?」
「最近のはともかく」

 私は肩をすくめた。さすがにその時代の、建築物の詳細についてまではデータバンクには入れていない。私が居なかった時代のものは。

「そうですね。僕としてもとても嬉しいですよ。社長はキュア・ファミについては御存知ですか?」
「いや、あいにく綺麗なものそのものは好きだけど、その成立までは……」
「キュア・ファミも我々の先輩に当たるんですよ? ウェネイクの建築学科の出身なんです」

 ほう、と私は声を立てた。

「ただ、卒業生ではなかったんです。彼は、卒業製作の設計に取りかかる前に、指導教官である教授にいきなり戦地に行かれてしまったんですよ」
「それは災難だったね」
「というか、それが徴集されたんなら、まだいいんですがね。その教授の場合、志願したから質が悪い」
「志願…… かい」

 彼はええそうです、と両手を小さく広げた。

「まあ志願と言っても、ウェネイクの教授なんだから、普通の一兵士じゃないですよ。各地の巨大な施設建築物を破壊するためのスタッフとして配属されてる訳です。で、キュア・ファミはそこで二重の裏切りを受けた、と感じた訳です」
「と言うと」
「一つは、指導を受けるべき権利のある自分を放って、戦地などに出かけてしまったという、教授の教育者としての裏切り。もう一つは、建築家であるのに、建築を壊す方のスタッフとして参加した…… 建築家としての裏切り」

 なるほど、と私はうなづいた。

「キュア・ファミはそこでもう卒業制作もへったくれもなくなって、ウェネイクを中退し、他星系へ出るんですよ。そこで十年程あちこちで修行して、今度はウェネイクに近い星系に自分の事務所を構えるんです。ウェネイクは建築家と依頼する側が結構保守的な関係を保っていたけれど、少し離れれば、後は実力とか、自力で作る人脈とか、そんなものしか頼るものが無い訳で、……まあ、彼にしてみれば、それが合っていたようです」
「……なるほど…… それでここまで」
「いやでも、まだキュア・ファミとは限りませんよ。ただ僕は彼の作品が好きだったから、そう思えただけかもしれないし」
「でも結構入れ込んでいるね」

 私は何げなく聞いた。だが彼の表情は、ふっとあの時と同じものを見せた。ひどく淋しげで、不安定な。
 そう、彼はそんな顔を時々する。自分自身で気付いてるのかは定かではないが、普段が明るい笑顔をふんだんに振りまく男であるだけに、その表情はひどく貴重に思えるのだ。

「結局キュア・ファミはウェネイクに死ぬまで足を踏み入れることは無かったんですよ。故郷だったのに」
「そうなんだ?」
「ええ。彼は結局、自分を放っておいた教授も、その教授がやがて仕切ることになるウェネイクの建築界とはそりが合わなかったんです」
「ああ…… 何となく、判らなくもないな」
「判りますか?」

 私は軽くうなづいた。私にとっても、ウェネイクは故郷であるが、格別大学のキャンパス以外は、行きたいと思う場所ではない。既にそこは、私の「故郷」では無いのだ。

「天から与えられた『故郷』が自分にとって懐かしければいいけど、そう思えない場合は、どうしようもないからね……」

 ナガノはうなづくと、私の方に数歩、近づいた。

「僕は」

 向き直った彼の姿は、私から見て逆光になる。表情が上手く掴めない。

「僕は、故郷の自然を嫌ったことは一度も無い。家族達も嫌ったことは無い……だけど、一つだけどうしようもなく、僕を縛り上げて、締め付けて、離さないものが、僕の故郷にはあったんです」
「縛り付けて?」

 それは穏やかではない。

「無論本当に縛り上げるとかそういうことではないですよ? ただそれは、僕の中で、ひどく自然に、ずっと、生まれた時からあった様なものだったから、どうしようもなかった。逃れられる筈は無い、と思ってた…… だから、逃れることができた時、僕は、もうあの惑星には帰れない、と思った」
「帰れない」

 私はその言葉を繰り返していた。何か彼がもう少し話してくれることを期待していたらしい。だがそれは私の期待しすぎの様だった。
 彼は私の横をすり抜けると、大劇場の中に続く扉へと近づいて行った。

「中に入りませんか?」

 扉に手を掛けながら彼は私に呼びかけた。



「暗い…… ですね」

 彼は扉を開けた瞬間、そう言った。

「ああ。今日は公演の中日で、団員の休養日でもあるからね。劇場も休みなのさ」
「へえ……」

 彼が手を放すと、扉は音も無く閉じた。はっ、と私はその時慌てて周囲を見回していた。
 そこには、別世界があった。
 いや、見慣れていたはずなのに、舞台から漏れる外の微かな光以外何も無い、その空間は、私は知らなかった。
 ぼんやりと、天井の細かな装飾は、殆ど見えない。だが光の加減だろうか。中天井から、壁の一部がところどころ、鍾乳洞の様に垂れ下がっている。
 何となく、自分が何処に立っているのか判らない気分になる。
 ふっと横を向くと、それまで彼が立っていた空間が、虚ろになっている。反射的に私は足を踏み出していた。何故そんな風に身体が動いてしまったのかは判らない。ただ、彼がいなくなったその空間を見た時に、私はひどく怖くなったのだ。
 だが、足下もおぼつかない場所で急に動くものではない。ぐらり、と頭の芯が回る様な感覚が私を襲った。

 まずい!

 バランスを崩す身体を支えようと、思わず足をずらす。掴まる所はないか、と手を伸ばす。だが手は空を切り、足はいまいち上手い地点にたどり着かない。
 と。何かが自分の背中を支えるのを、私は感じた。大丈夫ですか、と声がする。聞き慣れた声。ナガノが、私を後ろから掴まえていた。

「や、すまない……」
「立ちくらみですね? 急に光の具合が変わったから……」
「そういうことが、あるのか?」

 よ、と私は支えられた手に体重をかけて、体勢を立て直そうとする。
 だが足元がよく見えない暗さというのは、どうしてこう不安定なのだろう。もしかしたら、固い床だと思っているのは気のせいで、実は少しでも気を抜けば、どろどろに溶けた底なし沼の様なものになってしまうのではないか、という不安をかき立てるのだ。

「ありがとう、もう大丈夫だから……」

 私はそれでも足を踏み直して、背後の彼に言った。だが彼はなかなか腕を放さなかった。
 いやむしろ、その力が強くなった様な気がした。

「ナガノ?」

 私は首を少し回して、彼の名を呼んだ。
 すると。

 どのくらい、そうだったのか、私にはよく判らなかった。だが、それが気のせいではないことは、間違いなかった。何故ならまだ、彼はその腕を私の身体から解いていないのだから。

「……どうしたんだ、一体?」

 私の口からは、そんな言葉しか出てこなかった。

「人を、こんな場所で、からかうもんじゃない」

 いや場所など、関係ないだろう。言ってから自分でも思った。

「からかってはいませんよ」

 至近距離で、相手の声が聞こえる。

「からかっている以外の何だって言う? 私は君の上司だぞ?」
「でもそれ以前に、知り合いだったでしょう?」

 暗い視界の中で、その表情は見えない。だが予想はつく。きっと穏やかに笑いを浮かべているはずだ。きっと。

「だから」

 ナガノは言葉を続ける。

「もっと知り合いたくなったんですよ」

 嘘ではないだろう、とは思った。この男は、言うことを曖昧にぼかすくせはあるけれど、言うこと自体に嘘は無い。
 だが嘘では無いとすると、それはそれで、私にはどうしていいのか困ることだった。
 だから、次に私の口から出てきたのは、こんな言葉だった。

「本気にできると思うか?」
「できますよ」

 あっさりと彼は答えた。一体何処からこの根拠の無い自信は出てくるんだ?

「それに、あなたがそういうものを求めてるんですから」
「何を……」
「僕はね、リルブッスさん」

 彼は口調を変えた。私を社長でなく、名前で呼んだ。

「僕に興味を持つ人が、とても好きなんですよ。あなた僕のこと、最初から興味持ったでしょう?」
「それは…… いやでもそれは、君が優秀な人材だから……」
「あの時点で、そんなこと、誰が思います?」

 あの時点。いつだ?
 そうだ、あのカフェテリアで、彼は、いきなり私を怒鳴りつけた。

「普通だったら、あれで僕の様な人間は、相手にしないんですよ? でもねあなたは違った。逆に面白そうに見た。それは僕に好意を持ったと、僕は思いましたよ。違いますか?」

 違わない。違わないが……

「だけどそれは、こういうこととは、違うんじゃないか?」
「違いませんよ」

 彼はきっぱりと言った。

「少なくとも、僕の故郷では、そうでした」
「君の故郷……?」
「ええ。僕の故郷では」

 一体それは、どういうところなのだろう? 私はひどく自分の思考が多重化しているのに気付いていた。
 この見かけよりずいぶんと強い力の中から、抜け出したいと思っている一方で、そんなことが常識でまかり通っている彼の「故郷」とやらが一体何処なのか、知りたい、という欲求が頭の中を巡っていた。

「でも」

 おそらくは笑顔のまま、ナガノは言った。

「今ここで、力づくでどうこう、なんてしませんよ。そういうのは、僕の趣味じゃあない」

 腕の力が急に緩む。だが身体のバランスは彼によって直されていたので、私はふらつくことなく、足を床につけていた。

「出ましょうか。こんな暗い所に居ると、僕がまた変な気起こしてはいけませんからね」

 見透かしたようなことを言う。違う、この空間のせいだ。私は必死で言い訳を胸の中でわめき立てる。こんな、僅かな光しかない、鍾乳洞のような空間のせいだ。
 だがそれが言い訳でしかないことを、私は知っていた。



 歌劇団の今期の公演「光の街路」の千秋楽の日がやってきたので、私はナガノと、ミンホウとその婚約者を連れて、劇場の関係者席に居た。
 ミンホウの婚約者のキリュッキ・ウコンネミは思ったよりは小柄だったが、決して可愛らしいだけの女性ではなかった。何せ職業が看護婦である。私はこれに匹敵する強い女性の職業は、軍人以外では、医者と土建業の現場しか知らない。
 そしてこういう職業についている女性の常なのか、彼女は私に対しても、実に初対面からはきはきと話した。

「どうもいつも、この人がお世話になっています」
「いやお世話になっているのはこちらの方ですよ」

 などと、割と社交辞令的な言葉を一言出すと今度はこう返ってくる。

「いやもう、困りますわー。そんなことないですよ。絶対この人はもう、このでかい図体で、あちこち壊してるんじゃないかって、ワタシいっつも冷や冷やしてましてー」

 言葉自体が飛び跳ねているようだ、と私は面食らった。だが決してそれは、悪い感覚ではなかった。顔が思わず笑ってしまっていた。そして彼女はそれを見てまた言うのだ。

「こらえてないで下さいよー。笑うのは健康にいいんですよ?」
「……な、なるほど、確かあなたは看護婦でしたね……」

 そうなんです、とそしてまた彼女は大きくうなづいた。ミンホウはそんな彼女を見て苦笑いしていたが、決してそれはまんざらではない様だった。

「そういえば、キリュッキさんはお料理は得意と聞きましたが」
「あーっ、やだ、そんなこと、この人、言ってましたか?」

 図星だ、と私は思った。

「ええ。何せいつもうちの食堂でばかり食事を摂ってるもんですからね……」
「や、でもいけませんよ。時にはそれがいいんです」
「ほお? それは何故に」
「それはもう、この人に合わせていたら、食費が幾らあってもたりませんわ。いえ別に給料がどうとかいう問題ではありませんです。亭主を甘やかしてはいかん、というのが私の郷里の女の心得なんです」

 語尾を上げた、特徴のある口調。この口調には負ける。どんなきつい言葉でも、何かそれだけで笑いを誘い、すんなり受け取れてしまいそうになる。

「……ちょっと笑いを冷ましてくるよ。まだ開演には間があるから、君達は友達同士、しばらく話していてくれたまえ。私は少々、周囲に挨拶に行ってくる」

 そしてちら、とナガノを見ると、彼はふうん、という顔で一瞬私の方を見た。
 私達が座っているのは、あの鍾乳洞の様な中天井のあるすぐ上のあたりだった。その中天井の辺りに目をやるたびに、私は先日のことが頭の中をよぎって困った。
 ナガノはあれ以来、その様なことを仕掛けてくることはなかった。だが仕掛けてこなければ来ないで、それはひどく気になることだった。
 一度意識をしてしまうと、どうしてこうもずっと、心の中から離れないのか。それが女性ですら、そうそうあったことではないというのに。
 ミンホウとキリュッキを連れてきたのも、結局はナガノとここで二人になる事態を避けたかったからだった。無論、この二人を連れて来なかったとしても、全く彼と二人きり、ということにはならないのは判っている。ここは私の持つ歌劇団で、今日は千秋楽なのだ。話題の公演には、様々な関係者が顔を出しているはずだ。
 だがその人が来ているとは、私は思わなかった。
 高い窓が天井まで続くロビーで、煙草をくゆらすその人に、ここで会うとは、考えてもみなかったのだ。

「やあサーティン。元気そうじゃないか」

 ドリンク・コート伯爵は、ひどく派手な格好で、足を組みながら椅子にかけていた。

「いらしてたんですか」
「いらしてた、はないだろう? 今日は千秋楽で、俺は芝居は好きだ。昔っからな」
「知ってます」
「まあ座れよ」

 彼は気怠そうに腕を伸ばすと、自分の前の椅子を指さした。私は無言でその言葉に従う。彼は胸ポケットから茶色い煙草を出すと、火をつけた。

「吸うか?」

 いいえ、と私は首を横に振った。D伯はふっと笑うと、それをまたポケットに戻した。
 上等の…… 特上のスーツが、胸のあたりは着崩されている。いつもの通りだ。

「相変わらずだな、協調性がないのは」
「……それはあなたがよく御存知のはずでしょう」
「まあいいさ」

 そして二度ほど煙をくゆらすと、彼はそれを灰皿の上に置く。

「最近本星には来ないな」
「さほどの用事が無いものですから。それに私は私で忙しいのです」
「俺だって忙しいがな。もっとも俺の場合は、花々の間を飛び回るのもあるんだがな」

 そしてははは、と彼は軽い笑い声を立てる。ややその響く声が私の耳には届きすぎ、苛立ちをかき立てる。

「ふん、本題を早く言え、という顔だな」
「それはもう。私も他のお客に挨拶周りの途中ですから」
「俺だって客だぞ。しかもサーティン、貴様にとっては、俺が一番の客じゃあなかったのか?」

 私はそれには答えなかった。
 このひとはいつでもそうなのだ。昔から。育ちのせいもあるだろうが、いつでも自信ありげに私に接する。
 金褐色の髪、殆ど黒ではないかと思う程に深い青の瞳、高い身長、そして濃くて整った顔立ち。
 私とて決して整ってはいない、という訳ではないが、決して十人向きの顔ではないことは判っている。だがこのD伯爵は、そんな血を寄せ集めたのか、本当に「整って」いる。美術学科の学生から、ぜひデッサンさせてほしい、と頼み込まれたことが何度もあるくらいだ。
 そのせいか、彼には実に愛人が多い。本妻の他に、私が知っているだけでも三人は囲っているはずだ。私より七歳程年上なくらいなのに、彼は仕事だけでなく、そちらも盛んだった。
 囲っているだけではない。目についた綺麗な女性が居れば、すぐに手を出す。そしてそれを、誘われた女性もまんざらではないことが普通だった。
 だからそんな女達の間を飛び回っているなら、私に仕事以外のことでちょっかいを出して来なくともいいはずなのだ。
 別に最近露骨なセクシャル・ハラスメントを受けた訳ではないが、この視線は、時々彼が女達に向ける、あの値踏みする時のものとよく似ているのだ。
 だから彼も、私が決して彼を手放しで好いている訳ではないことくらいは知っているだろう。それでいて、この態度だ。もっとも、今の、会社の持ち主である以上、私が彼のもとを離れるのは容易ではないのだが。

「今日の演目についてですが」
「話を露骨にそらすなあ?」
「助演の『螺旋』の役のヴィヴィエンヌ・コルベールは前途有望な女優です」
「ふうん?」

 私は彼の興味の矛先を、先日の女優に向けさせた。

「あなたの趣味に合うかどうかは判りませんが」
「さあて?」

 くくく、と彼は目を細めて笑った。では、と私は立ち上がってその場を離れた。
 ひどく嫌な気分が胸の中に広がった。現在、私にとっての唯一の上司である。しかも私は彼に対して一つ借りがある。
 彼が呼んだのではなかったら、故郷から私は離れることはできなかった。その点では感謝はしている。
 だがそのせいで、今度は彼というものにつなぎ止められている自分にも気付いているのだ。
 無論彼は、私にそういう意味で自分の下に居ることを強要する訳ではない。だが、言葉以外の部分で、その圧迫感たるや、ひどく大きなものなのだ。
 歩きながら、私の中で先日ナガノが言った、「親会社からの独立」という言葉がよぎる。それが簡単にできたら、どんなに気楽だろう。
 招待した子会社の社主や、取引先の代表やらに挨拶を済ませると、私は開演ベルが鳴る前に、自分の席に戻った。遅かったですね、と小声でナガノは私に言った。

「君この席だったかい?」
「代わったんですよ。馬に蹴られたくはないですからね」

 そうかい、と私はうなづいた。実際久しぶりに出会った婚約者同士は、殆ど二人の世界を、その鍾乳洞の上の空間に作り出してしまっていた。私はそれを見て何故だかほっとする。ああ何って気楽なんだろう。
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