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第13話 「どうしようもなく、君のことが、誰よりも、何よりも」
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「……もうあれは、私がウェネイクで学生をしていた頃だ」
ひどく抑揚の無い声で、私は話し始めた。
「私の家は、……故郷ではそう悪くない家柄だった。おそらく資産家の部類に入るだろう。いや、どちらかというと、資産家ということよりは、移民以来の古い家柄である、ということが、ひどく重要視された…… 実際、ウェネイクの社会では、そのことの方が、単に資産が多いということより、ずっと大切だった」
とりあえず切り出してしまったが、私は何処をどう話せばいいのか、正直言って困っていた。今までに、こんな話をしたことは、誰にも無かったのだ。当事者だったD伯にも、したことはない。社長の顔をしている時には、流暢に回る舌が、どうしてこんなに上手く動かないんだろう。
「私はだから、そこで何不自由も無い暮らしを送ってきた…… そう思ってきた。実際そうなんだろう。食べるものに困ったことも、着るものに困ったことも、一応必要なものや望んだものは、それなりに与えられた。ただ……」
「ただ?」
「私が欲しかったものは、与えられなかった」
彼は首を軽くかしげる。
「何が、欲しかったんだい?」
「私は、綺麗なものが欲しかったんだ」
彼の問いに、ひどくすんなりとその言葉は飛び出した。
「そう、綺麗なものが欲しかった。例えば綺麗な声の歌、綺麗な絵、綺麗な言葉を連ねた本、綺麗な衣装の舞台……」
私は目を半分伏せる。歌劇団の舞台が目の裏に浮かぶ。そうあれは私の欲しかった世界だ。
「それだけじゃない。そんな作られた綺麗なものもそうだったけど、もっと違うもの好きだった。ウェネイクは、綺麗な惑星だ。住んでいる人間の数に対して、緑の量がとても多い。私はあの惑星の、故郷の自然がとても好きだった。子供の頃は、よく走り回ったものだ。ただ好き勝手に伸びまくった雑草の草原を、かき分けて走るのが好きだった」
「いい故郷だったんだな」
「ああ。私はあの故郷の緑は好きだった。だけど、一歩家に戻ると、そこには何かしら、ひどく重い空気があった」
「家族の仲は、良くなかったのかい?」
「どうだろう?」
私はふらりと頭を回す。
「そんなこと、考えたこともなかった。いや、それ以前に、私には、家族が仲が良い、という構図がよく判らなかったんだ。それは私のところだけではない。親が私に与えた『遊び友達』、同じ環境に育った、同じくらいの家柄の子供達は、皆そんな感じだった。それは、それでいいと、思っていたんだ」
「でも過去形だね」
「ああ」
私はうなづいた。
「それが決して全ての家ではないのに気付いたのは、……それこそ、ウェネイク大学に入ってからだ。私は親の命令で、経済の方へと進んでいた。いや別にそれはいい。私にそういう好き嫌いは、その時はなかった」
「嘘みたいだな」
「嘘みたいだ。私も今となっては信じられない。でもまあ、経済は嫌いではなかった。実際今だって、結構なものだろう?」
「ああ」
「だから、それはいいんだ……」
だけど、それからが。私はぞく、として自分の腕を抱え込む。どうしたの、と彼はその私の腕に手をかける。
「彼と出会ったのは、そんな時だった」
ドリンク・コート。当時はまだ伯爵ではなかった。
「七歳年上の彼は、私とはまず別世界の人間だった。まず会うはずはなかった。なかったはずなんだ」
「だけど会ってしまった?」
「会ってしまった。それが果たして良かったのかどうか私には判らない。だって、彼のおかげで今私はここに居る。だけど、そのせいで、今も彼は私を縛り付けている。縛り付けようとする。縛り付けられて、いるんだ」
私は頭を押さえ、幾度か首を横に振る。
「いや、……結果として、決して悪い訳じゃあないんだ。だってそうだ。彼の誘いが無かったら、私は未だにあのウェネイクの、実家の、囲いの中で、鬱々としていたはずだ。いや家族が、決して悪い訳じゃない、だけど……」
「……」
腕が背に回る感触がある。続けて、と耳元で声がした。体温が、触れた皮膚を通して伝わってくる。心臓の音が、規則正しく、感じられる。速くもなく、遅すぎもせず、同じ鼓動を、繰り返し繰り返し。
「だから、初めて彼を間近に見た時には、確かに私は、……おそらくは、見惚れてしまったんだ。だってそうだ。彼は綺麗だった。それまでに、そんな綺麗な人間は見たことが無かった。私は綺麗なものが好きだった。だから単純に、私は彼の姿そのものに、惹かれてしまった。どうしようもなく、惹かれてしまったんだ」
「うん」
「私は確かまだ、二年生だったか…… 目立たない学生だったんじゃないか、と思う。だけど、その時何故かドリンク・コートは私に手を出してきた」
「手を?」
「言葉の通りだ。当時の私は、彼に確かに心酔していたから、彼の言うことは何でも受け入れた。……ウェネイク自体は、そういったモラルが結構あるが、大学がそうではないことは、君も良く知っているだろう?」
そうだね、と彼がうなづく気配がする。
「……当時の彼にしてみれば、私など取るに足りない下級生の一人だろう。実際、今になって思えば、決してその扱いが、まともなものであったとは思えない。たいがい、周囲には彼以外の者が居たし、私は彼とだけ関係を持たされた訳ではない」
確かにそうだった。ドリンク・コートだけでない。多趣味な彼は、様々な「友達」が居た。私はその集まりに連れて行かれ、彼以外の者とも、そこに居た男であれ女であれ、無理矢理に関係を持たされたものだった。
だがそれでも私が、そうしたのは、そこでそうすることで、私自身が自由になれる様な気がしたからだ。どうしようもなく、自分を締め付けるモラルやら何やらから、強制的に解放されることを私は望んでいたのだ。
「軽蔑するかい? ナガノ」
「いや」
彼はあっさりと首を横に振る。
「そんなこと、で軽蔑するなら、僕はずっと前に君から軽蔑されてるさ。そんなことは、大したことじゃあない」
「何が楽しいのか、と思ったよ。それでもそんなことをほとんど無理矢理…… 振り回されているうちに、私自身、それが楽しくなっていた。家とその周辺の世界とは違うそれに、私は浸かっていた」
「でも君は確かいい成績で卒業したんじゃないかい?」
「そう。確かに。だけどそれは、教授の言うことを素直に聞かなくなったことの結果、だろうな。……いい事…… そう、いい事だったと思う。ドリンク・コートは、私に新しい世界を見せてくれた。それはいいんだ……」
「だけど?」
彼は言葉の続きをうながす。
「例えばその関係を持った中の一人が、彼とは関係ないところで私と関係を持とうとする。すると彼はひどく怒る。自分の前では、平気であらぬ格好も色んなこともやらせるくせに、だ。そんな時彼は、私ではなく、相手を罰した。……ひどい時には、大学に居られない様にしたこともある。彼には容易いことだった」
「……」
「彼は、そうすることの方が、私にとって辛いことだと判っていて、そうするんだ」
「確かにそうだね。君にはその方が辛いだろうな」
「そんなことが何度も続くと、私にわざわざ彼の前以外で手を出そうという者は居なくなる。私は彼が怖くなった。だが離れることはできなかった。離れた時が、私の最後だ、という気がしていた。彼と離れたら、私はまた、あの家とその周囲の雰囲気の中に呑まれてしまう、そんな気がしていた。君はミルクス教授から、私の噂を何か聞いていたかい?」
「武勇伝を多少はね。後期試験の前に貯水槽で泳いで危なかったとか……」
「武勇伝なんかじゃないさ。私は時々、そんなことをしたくなったんだ。先が見えなかったから、余計に」
「今の君からしたら嘘みたいだ」
くす、と彼は笑う。
「そうだ。今の私は……」
私は目を伏せる。
「今の私は、幸せなんだ」
幸せ、と彼はその言葉を繰り返す。
「そうなの?」
「そう。たぶん。いやきっと。だってそうだろう? 仕事は忙しい…… けど、楽しい。前に進む感触がある。間違うこともあるかもしれない。けど、その時には、自分の手で、支えてくれる人達の手で、何とかしようがある。そして、やっぱり、前に進むんだ。チューブが伸び、そのあちこちに新しいものが増え、そこに住む人々が、そこに流れるものが増え、そしてそこでまた色んなものを欲しいという声が上がり、それをできるだけ増やして…… そんな繰り返しだけど、私はそれが楽しい」
彼はゆっくりとうなづいた。私は彼の顔をじっと見据える。
「君が、建物に対して持っている気持ちとは違う種類のものだろう。私の作るものは、作りたいもの、残したいものは、決してそれは形がくっきりとしたものじゃない。だけど、確実に、今、この時間に、次の瞬間に、確かに在るものなんだ」
思わず手をぐっと握りしめる。
「例えば大劇場で芝居を見た、そう裕福ではない家族が、その日の出来事を心地よい思い出として、夢に見るかもしれない。食堂で定食を食べることしかできない営業の若者は、いつか私を飛び越えて何かをやらかすかもしれない。楽観的かもしれない。お人好しの発想かもしれない。だけど、私はそういうことを考える。考えたいんだ」
「そしてそれがとても楽しい?」
「楽しい。いやそれ以上に、私は、そういうことに、とてつもなく惹かれてしまうんだ。そして今は、それができる。ドリンク・コートは私にその場を与えてくれた。だからその事はひどく感謝する。感謝はしているんだ。だけど」
私は彼の腕を思わず掴んでいた。
「やはり彼は私を束縛して、離さない。さすがにこんな役職にお互いにある訳だから、直接会うことは無くなっている。だけど私はやはり、好きに会社を動かしていいと言われている一方で、彼という存在を恐れている。彼は容赦が無い。だから」
「だから?」
「私は君が、心配なんだ」
「……それは大丈夫だよ」
私は首を横に振る。
「ヴィーから聞いた。天使種の脱走は極刑に値すると」
「それは何処の軍だって変わらないだろう? 死の重さが変わる訳じゃあない」
「だけど君達は」
「天使種、なんてご大層な名前つけられていたところで、所詮はただの生物さ。死ぬ時には死ぬ。ただその死ぬまでの度合いがやや間延びしているだけなんだ。だからそれで楽しもうと思えばさんざん楽しめる。ただ、僕達は、その楽しむ方法を教えられなかった。おそらく軍に居たら、今でもそれは不可能だ。いや軍に居なくとも、天使種の中に居たら、それは僕にはできなかったと思う。そう君と同じさ。僕は、今が、ひどく幸せなんだ」
「ナガノ」
「自分の作りたい建築が、日々形になっていく。そのために皆と、ぶつかり合いもするけど、何か、一緒に、やっていける。そして」
彼は手を伸ばした。両手が、両の二の腕に触れる。
「君が、ここに居る」
指に込められた力が、ほんの少し強くなるのを感じる。
「毎日が、めまぐるしく、だけどひどく楽しく過ぎていく。そして時々、君に会える。こんなふうに話ができる。触れることができる」
すう、とその手はゆっくりと上がっていく。
「失いたくない」
「それは私だって同じだ」
そしてナガノはゆっくりと首を横に振った。
「でも、それは無理だ」
判っている。それは、判りすぎている程判っているのだ。
私がこんな立場でなく、彼が天使種でなく、もっと平和な場所で、気楽な立場で彼に出会えたら、私達はずっと一緒に居られるのだろうか?
いやそれは無い。仮定はするだけ無駄だ。
彼が天使種で、私がウェネイクから連れ出された学生上がりの社長だから、私達は出会えたのだ。
そんな時間と経験を積み重ねてきたからこそ、私は彼に惹かれたのであり、彼もおそらくはそうなのだ。
どんな物事も、何処かでつながっている。何処かで一つ選ばなかっただけで、起こりえない現実が、そこにはある。私達は会うべくして会って、そして、離れるべくして離れなくてはならないのだ。
「こういうのを、運命って言うのかな」
苦笑いしながら彼はつぶやく。私は首を横に振る。吐き捨てる様に、言葉を口にする。
「そういう言葉は、嫌いだ。誰がそんなもの決めるって言うんだ?」
「君はそう言うと思った。でも、もうそれは決まっている。僕はもうじきここを離れる。これはどうしようもないことだ」
「だけど、その後のことなんて、誰も判らない」
私は彼の両の手首を握りしめた。
「私は、何年経っても、君が判る。私が年老い、君から判らなくなっても、私には君が判る。いつかきっと、いや、絶対、私には君が判る」
「それは僕も同じだ。僕はきっと君の前に、同じ姿で現れる。きっと君には僕は化け物の様に見えるだろう。今までの誰もがそう思ったように。それでも僕は、君を見つける。君がどう変わってしまっても、僕には君が判る。判るはずだ」
「きっとその時には、私は見にくく老いているはずだよ」
私は苦笑する。彼がここから離れて、その先、もし彼の言うことを信じたとしても、再びこの地にやって来られるのはいつのことだろう。私の上には確実に、年齢というものが降り積もるだろう。皮膚の上に、身体の中に、表情に、そんなものは、積み重ねられていくだろう。
「それでも、君は、君だろう」
「そう、そしてやっぱり君は君なんだ」
決して信じられる訳ではない。だけど信じたいことというのが、確かに私の中にあった。
「僕は、様子を見ながら、現場にしばらく詰めるよ。できるだけ、その時まで、僕はあれに携わっていたい」
「ああそれがいい」
口はそう動く。だがその反面、私の中では、無数の声が叫んでいる。行くな。お願いだから。行かないでくれ。私の近くに居てくれ。
だがそれは絶対に口にしない。
それは彼のためというのではない。私のためだ。私が、私であるために、それは、決して口にはできない。私をどうしようもなく揺り動かすこの男は、こういう男なのだ。だからこそ、私は、どうしようもなく揺さぶられるのだ。
「その時が来たら」
「その時が来たら?」
「僕はここから逃げる。その時、きっと僕はこの場所で身分を偽って入り込んでいたペテン師の様なものとしてね。きっと僕はその時、誰か人質を取って逃げ出すのさ。船を一つ乗っ取って。君は騙されていた。皆騙されていた。そういうことになるだろうね」
「ああそうなるかもしれないね。その時誰が人質になるだろう? 私かな?」
「いや、君は社長だから駄目だろう。それにそれでは怪しまれる。そうだミンホウ、彼がいい。彼に協力してもらおう」
淡々と、私達は一つの未来を語る。今までどれだけの過去を未来を語ってきただろう?
そして、こんなに薄ら寒い未来を、私は聞いたことがあっただろうか? 彼の語る言葉はいつも熱かったというのに。
私は思わず彼の背に腕を回して、強く抱きしめていた。
「……君が、とても好きなんだ」
気がついたら、そんな言葉がぽろ、と飛び出していた。
「どうしようもなく、君のことが、誰よりも、何よりも」
「僕もだ」
相手の声が、ややかすれている。きっと自分の声もそうだったのだろう。
「どうして、本当に欲しいものが現れたら、それは逃げていくんだろう?」
「逃げないよ。ただ少しの間、会えないだけなんだ。きっといつか、必ず、僕は、戻ってくる」
「無理だよ」
「無理じゃない。僕は生き残る。どんなことがあっても、何をしても、生き残る。この戦争が、本当に終わって、脱走兵の僕のことなど向こうが忘れてしまうくらいな時間、僕は逃げ回ってやる。戦う必要があれば戦う。殺す必要があれば殺す。僕は生き残る。何があっても、どんなことがあっても、ここに帰ってくる。君の、この場所へ、必ず帰る」
ひどく抑揚の無い声で、私は話し始めた。
「私の家は、……故郷ではそう悪くない家柄だった。おそらく資産家の部類に入るだろう。いや、どちらかというと、資産家ということよりは、移民以来の古い家柄である、ということが、ひどく重要視された…… 実際、ウェネイクの社会では、そのことの方が、単に資産が多いということより、ずっと大切だった」
とりあえず切り出してしまったが、私は何処をどう話せばいいのか、正直言って困っていた。今までに、こんな話をしたことは、誰にも無かったのだ。当事者だったD伯にも、したことはない。社長の顔をしている時には、流暢に回る舌が、どうしてこんなに上手く動かないんだろう。
「私はだから、そこで何不自由も無い暮らしを送ってきた…… そう思ってきた。実際そうなんだろう。食べるものに困ったことも、着るものに困ったことも、一応必要なものや望んだものは、それなりに与えられた。ただ……」
「ただ?」
「私が欲しかったものは、与えられなかった」
彼は首を軽くかしげる。
「何が、欲しかったんだい?」
「私は、綺麗なものが欲しかったんだ」
彼の問いに、ひどくすんなりとその言葉は飛び出した。
「そう、綺麗なものが欲しかった。例えば綺麗な声の歌、綺麗な絵、綺麗な言葉を連ねた本、綺麗な衣装の舞台……」
私は目を半分伏せる。歌劇団の舞台が目の裏に浮かぶ。そうあれは私の欲しかった世界だ。
「それだけじゃない。そんな作られた綺麗なものもそうだったけど、もっと違うもの好きだった。ウェネイクは、綺麗な惑星だ。住んでいる人間の数に対して、緑の量がとても多い。私はあの惑星の、故郷の自然がとても好きだった。子供の頃は、よく走り回ったものだ。ただ好き勝手に伸びまくった雑草の草原を、かき分けて走るのが好きだった」
「いい故郷だったんだな」
「ああ。私はあの故郷の緑は好きだった。だけど、一歩家に戻ると、そこには何かしら、ひどく重い空気があった」
「家族の仲は、良くなかったのかい?」
「どうだろう?」
私はふらりと頭を回す。
「そんなこと、考えたこともなかった。いや、それ以前に、私には、家族が仲が良い、という構図がよく判らなかったんだ。それは私のところだけではない。親が私に与えた『遊び友達』、同じ環境に育った、同じくらいの家柄の子供達は、皆そんな感じだった。それは、それでいいと、思っていたんだ」
「でも過去形だね」
「ああ」
私はうなづいた。
「それが決して全ての家ではないのに気付いたのは、……それこそ、ウェネイク大学に入ってからだ。私は親の命令で、経済の方へと進んでいた。いや別にそれはいい。私にそういう好き嫌いは、その時はなかった」
「嘘みたいだな」
「嘘みたいだ。私も今となっては信じられない。でもまあ、経済は嫌いではなかった。実際今だって、結構なものだろう?」
「ああ」
「だから、それはいいんだ……」
だけど、それからが。私はぞく、として自分の腕を抱え込む。どうしたの、と彼はその私の腕に手をかける。
「彼と出会ったのは、そんな時だった」
ドリンク・コート。当時はまだ伯爵ではなかった。
「七歳年上の彼は、私とはまず別世界の人間だった。まず会うはずはなかった。なかったはずなんだ」
「だけど会ってしまった?」
「会ってしまった。それが果たして良かったのかどうか私には判らない。だって、彼のおかげで今私はここに居る。だけど、そのせいで、今も彼は私を縛り付けている。縛り付けようとする。縛り付けられて、いるんだ」
私は頭を押さえ、幾度か首を横に振る。
「いや、……結果として、決して悪い訳じゃあないんだ。だってそうだ。彼の誘いが無かったら、私は未だにあのウェネイクの、実家の、囲いの中で、鬱々としていたはずだ。いや家族が、決して悪い訳じゃない、だけど……」
「……」
腕が背に回る感触がある。続けて、と耳元で声がした。体温が、触れた皮膚を通して伝わってくる。心臓の音が、規則正しく、感じられる。速くもなく、遅すぎもせず、同じ鼓動を、繰り返し繰り返し。
「だから、初めて彼を間近に見た時には、確かに私は、……おそらくは、見惚れてしまったんだ。だってそうだ。彼は綺麗だった。それまでに、そんな綺麗な人間は見たことが無かった。私は綺麗なものが好きだった。だから単純に、私は彼の姿そのものに、惹かれてしまった。どうしようもなく、惹かれてしまったんだ」
「うん」
「私は確かまだ、二年生だったか…… 目立たない学生だったんじゃないか、と思う。だけど、その時何故かドリンク・コートは私に手を出してきた」
「手を?」
「言葉の通りだ。当時の私は、彼に確かに心酔していたから、彼の言うことは何でも受け入れた。……ウェネイク自体は、そういったモラルが結構あるが、大学がそうではないことは、君も良く知っているだろう?」
そうだね、と彼がうなづく気配がする。
「……当時の彼にしてみれば、私など取るに足りない下級生の一人だろう。実際、今になって思えば、決してその扱いが、まともなものであったとは思えない。たいがい、周囲には彼以外の者が居たし、私は彼とだけ関係を持たされた訳ではない」
確かにそうだった。ドリンク・コートだけでない。多趣味な彼は、様々な「友達」が居た。私はその集まりに連れて行かれ、彼以外の者とも、そこに居た男であれ女であれ、無理矢理に関係を持たされたものだった。
だがそれでも私が、そうしたのは、そこでそうすることで、私自身が自由になれる様な気がしたからだ。どうしようもなく、自分を締め付けるモラルやら何やらから、強制的に解放されることを私は望んでいたのだ。
「軽蔑するかい? ナガノ」
「いや」
彼はあっさりと首を横に振る。
「そんなこと、で軽蔑するなら、僕はずっと前に君から軽蔑されてるさ。そんなことは、大したことじゃあない」
「何が楽しいのか、と思ったよ。それでもそんなことをほとんど無理矢理…… 振り回されているうちに、私自身、それが楽しくなっていた。家とその周辺の世界とは違うそれに、私は浸かっていた」
「でも君は確かいい成績で卒業したんじゃないかい?」
「そう。確かに。だけどそれは、教授の言うことを素直に聞かなくなったことの結果、だろうな。……いい事…… そう、いい事だったと思う。ドリンク・コートは、私に新しい世界を見せてくれた。それはいいんだ……」
「だけど?」
彼は言葉の続きをうながす。
「例えばその関係を持った中の一人が、彼とは関係ないところで私と関係を持とうとする。すると彼はひどく怒る。自分の前では、平気であらぬ格好も色んなこともやらせるくせに、だ。そんな時彼は、私ではなく、相手を罰した。……ひどい時には、大学に居られない様にしたこともある。彼には容易いことだった」
「……」
「彼は、そうすることの方が、私にとって辛いことだと判っていて、そうするんだ」
「確かにそうだね。君にはその方が辛いだろうな」
「そんなことが何度も続くと、私にわざわざ彼の前以外で手を出そうという者は居なくなる。私は彼が怖くなった。だが離れることはできなかった。離れた時が、私の最後だ、という気がしていた。彼と離れたら、私はまた、あの家とその周囲の雰囲気の中に呑まれてしまう、そんな気がしていた。君はミルクス教授から、私の噂を何か聞いていたかい?」
「武勇伝を多少はね。後期試験の前に貯水槽で泳いで危なかったとか……」
「武勇伝なんかじゃないさ。私は時々、そんなことをしたくなったんだ。先が見えなかったから、余計に」
「今の君からしたら嘘みたいだ」
くす、と彼は笑う。
「そうだ。今の私は……」
私は目を伏せる。
「今の私は、幸せなんだ」
幸せ、と彼はその言葉を繰り返す。
「そうなの?」
「そう。たぶん。いやきっと。だってそうだろう? 仕事は忙しい…… けど、楽しい。前に進む感触がある。間違うこともあるかもしれない。けど、その時には、自分の手で、支えてくれる人達の手で、何とかしようがある。そして、やっぱり、前に進むんだ。チューブが伸び、そのあちこちに新しいものが増え、そこに住む人々が、そこに流れるものが増え、そしてそこでまた色んなものを欲しいという声が上がり、それをできるだけ増やして…… そんな繰り返しだけど、私はそれが楽しい」
彼はゆっくりとうなづいた。私は彼の顔をじっと見据える。
「君が、建物に対して持っている気持ちとは違う種類のものだろう。私の作るものは、作りたいもの、残したいものは、決してそれは形がくっきりとしたものじゃない。だけど、確実に、今、この時間に、次の瞬間に、確かに在るものなんだ」
思わず手をぐっと握りしめる。
「例えば大劇場で芝居を見た、そう裕福ではない家族が、その日の出来事を心地よい思い出として、夢に見るかもしれない。食堂で定食を食べることしかできない営業の若者は、いつか私を飛び越えて何かをやらかすかもしれない。楽観的かもしれない。お人好しの発想かもしれない。だけど、私はそういうことを考える。考えたいんだ」
「そしてそれがとても楽しい?」
「楽しい。いやそれ以上に、私は、そういうことに、とてつもなく惹かれてしまうんだ。そして今は、それができる。ドリンク・コートは私にその場を与えてくれた。だからその事はひどく感謝する。感謝はしているんだ。だけど」
私は彼の腕を思わず掴んでいた。
「やはり彼は私を束縛して、離さない。さすがにこんな役職にお互いにある訳だから、直接会うことは無くなっている。だけど私はやはり、好きに会社を動かしていいと言われている一方で、彼という存在を恐れている。彼は容赦が無い。だから」
「だから?」
「私は君が、心配なんだ」
「……それは大丈夫だよ」
私は首を横に振る。
「ヴィーから聞いた。天使種の脱走は極刑に値すると」
「それは何処の軍だって変わらないだろう? 死の重さが変わる訳じゃあない」
「だけど君達は」
「天使種、なんてご大層な名前つけられていたところで、所詮はただの生物さ。死ぬ時には死ぬ。ただその死ぬまでの度合いがやや間延びしているだけなんだ。だからそれで楽しもうと思えばさんざん楽しめる。ただ、僕達は、その楽しむ方法を教えられなかった。おそらく軍に居たら、今でもそれは不可能だ。いや軍に居なくとも、天使種の中に居たら、それは僕にはできなかったと思う。そう君と同じさ。僕は、今が、ひどく幸せなんだ」
「ナガノ」
「自分の作りたい建築が、日々形になっていく。そのために皆と、ぶつかり合いもするけど、何か、一緒に、やっていける。そして」
彼は手を伸ばした。両手が、両の二の腕に触れる。
「君が、ここに居る」
指に込められた力が、ほんの少し強くなるのを感じる。
「毎日が、めまぐるしく、だけどひどく楽しく過ぎていく。そして時々、君に会える。こんなふうに話ができる。触れることができる」
すう、とその手はゆっくりと上がっていく。
「失いたくない」
「それは私だって同じだ」
そしてナガノはゆっくりと首を横に振った。
「でも、それは無理だ」
判っている。それは、判りすぎている程判っているのだ。
私がこんな立場でなく、彼が天使種でなく、もっと平和な場所で、気楽な立場で彼に出会えたら、私達はずっと一緒に居られるのだろうか?
いやそれは無い。仮定はするだけ無駄だ。
彼が天使種で、私がウェネイクから連れ出された学生上がりの社長だから、私達は出会えたのだ。
そんな時間と経験を積み重ねてきたからこそ、私は彼に惹かれたのであり、彼もおそらくはそうなのだ。
どんな物事も、何処かでつながっている。何処かで一つ選ばなかっただけで、起こりえない現実が、そこにはある。私達は会うべくして会って、そして、離れるべくして離れなくてはならないのだ。
「こういうのを、運命って言うのかな」
苦笑いしながら彼はつぶやく。私は首を横に振る。吐き捨てる様に、言葉を口にする。
「そういう言葉は、嫌いだ。誰がそんなもの決めるって言うんだ?」
「君はそう言うと思った。でも、もうそれは決まっている。僕はもうじきここを離れる。これはどうしようもないことだ」
「だけど、その後のことなんて、誰も判らない」
私は彼の両の手首を握りしめた。
「私は、何年経っても、君が判る。私が年老い、君から判らなくなっても、私には君が判る。いつかきっと、いや、絶対、私には君が判る」
「それは僕も同じだ。僕はきっと君の前に、同じ姿で現れる。きっと君には僕は化け物の様に見えるだろう。今までの誰もがそう思ったように。それでも僕は、君を見つける。君がどう変わってしまっても、僕には君が判る。判るはずだ」
「きっとその時には、私は見にくく老いているはずだよ」
私は苦笑する。彼がここから離れて、その先、もし彼の言うことを信じたとしても、再びこの地にやって来られるのはいつのことだろう。私の上には確実に、年齢というものが降り積もるだろう。皮膚の上に、身体の中に、表情に、そんなものは、積み重ねられていくだろう。
「それでも、君は、君だろう」
「そう、そしてやっぱり君は君なんだ」
決して信じられる訳ではない。だけど信じたいことというのが、確かに私の中にあった。
「僕は、様子を見ながら、現場にしばらく詰めるよ。できるだけ、その時まで、僕はあれに携わっていたい」
「ああそれがいい」
口はそう動く。だがその反面、私の中では、無数の声が叫んでいる。行くな。お願いだから。行かないでくれ。私の近くに居てくれ。
だがそれは絶対に口にしない。
それは彼のためというのではない。私のためだ。私が、私であるために、それは、決して口にはできない。私をどうしようもなく揺り動かすこの男は、こういう男なのだ。だからこそ、私は、どうしようもなく揺さぶられるのだ。
「その時が来たら」
「その時が来たら?」
「僕はここから逃げる。その時、きっと僕はこの場所で身分を偽って入り込んでいたペテン師の様なものとしてね。きっと僕はその時、誰か人質を取って逃げ出すのさ。船を一つ乗っ取って。君は騙されていた。皆騙されていた。そういうことになるだろうね」
「ああそうなるかもしれないね。その時誰が人質になるだろう? 私かな?」
「いや、君は社長だから駄目だろう。それにそれでは怪しまれる。そうだミンホウ、彼がいい。彼に協力してもらおう」
淡々と、私達は一つの未来を語る。今までどれだけの過去を未来を語ってきただろう?
そして、こんなに薄ら寒い未来を、私は聞いたことがあっただろうか? 彼の語る言葉はいつも熱かったというのに。
私は思わず彼の背に腕を回して、強く抱きしめていた。
「……君が、とても好きなんだ」
気がついたら、そんな言葉がぽろ、と飛び出していた。
「どうしようもなく、君のことが、誰よりも、何よりも」
「僕もだ」
相手の声が、ややかすれている。きっと自分の声もそうだったのだろう。
「どうして、本当に欲しいものが現れたら、それは逃げていくんだろう?」
「逃げないよ。ただ少しの間、会えないだけなんだ。きっといつか、必ず、僕は、戻ってくる」
「無理だよ」
「無理じゃない。僕は生き残る。どんなことがあっても、何をしても、生き残る。この戦争が、本当に終わって、脱走兵の僕のことなど向こうが忘れてしまうくらいな時間、僕は逃げ回ってやる。戦う必要があれば戦う。殺す必要があれば殺す。僕は生き残る。何があっても、どんなことがあっても、ここに帰ってくる。君の、この場所へ、必ず帰る」
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【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
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