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32.イリヤは何かを忘れている

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 何かを忘れているような気がする、と学内新聞編集長イリヤは時々頭をひねる。
 だがそれは一瞬だった。彼の前には、問題が山積みになっていた。例えば学祭と時を同じくしてすっぱ抜く予定の、医学群が誇る反体制派の代表格であるシミョーン医師が実は司政官と癒着していたという事実。
 物事は、進むべく時には、進むものなのだな、と彼は思う。
 実際、それは、いきなり進み出したのだ。
 何が上手く行かなかったのか、それまでずっと、友人で同志である医学群の学生、演劇部の部長モゼストとその学群内の友人知人を通して、シミョーン氏の動静を伺ってきた。
 そもそも、その情報の出所自体が、初めは半信半疑だったのだ。理系に出入りしている学生が、新聞部長の自分に接近してきた。学生は、ラーベル・ソングスペイと名乗った。
 彼はイリヤに向かって、情報を買わないか、と申し出てきた。編集長は、情報による、と答えた。実際それはいつものことだった。この学内新聞は、その購読者数から、この市内での価値の高いものだった。運営が順調なら、そこには資金も多少はできる。広告収入だって入る。
 そして更なる購買層を狙おうと思ったら、少しでも人目を引く記事を書かねばならない。イリヤとその部下たる部員達は、それぞれのテリトリイにおいて、情報提供を呼びかけていた。そこには多少なりとも謝礼をすると付け加え。
 学生は基本的に裕福ではない。少しでもいい金になると知ると、彼らは飛びついてくる。そして集まった情報の中から、いい物には金を払うのだ。
 そしてその時も、彼はその類かな、と思ったのだ。もしくは何処か他星からの留学生で、生活費が足りないのか、と。
 それはラーベル・ソングスペイの言葉を耳にした時に、気付いた。確かにここの地の言葉なのだが、微かに何か、奇妙なくせがついている。……いやそうではない。妙に、古いのだ。
 古いと言っても、言葉自体が古典なのではない。言い回しの中に、妙に少しばかり前の流行語が混じっているのだ。無論それは本人が無意識にしていることだろうので、彼は黙っていた。
 この訪問者は、その気になる言葉を使いながらも、雄弁だった。そしてやがて、気になることを口に出した。

「ところで、部長は、この学内でやがて反体制運動が起こったら、誰がその陣頭に立つと思いますか?」

 ずいぶんと、大胆なことを言う、と編集長はデスクの上に両手を置いて、それを組む。

「起こる、と君は思っているのか?」
「可能性の話をしています。起こるなら」

 そうだな、と彼は首をひねった。そしてカシーリン教授とシミョーン医師の名を上げた。それは学内一般に広まっている常識である。彼本人の考えという訳ではない。
 彼本人としては、文系サークルのたいていの人間がそうであるように、カシーリン教授のほうに軍配を上げていた。だがこの突然の訪問者の前で、そこまで言う義理はなかった。

「では、そのシミョーン氏が、実は司政官と癒着していたら、どう思いますか?」

 冗談だろう、と彼は初め一蹴した。なかなかその可能性には考えが届かなかったのだ。そこで彼は訊ねた。

「何故そう思う訳なのかな?」
「思う、んじゃなく、事実ですよ。例えば」

 そしてソングスペイは、次々に…… 実に雄弁に、そして、順序よく、彼の考えを述べていった。そこに「事実」という名札をつけて。
 口の上手すぎる奴は信用がならない、とこの編集長は考えていた。実際、彼は話を聞いている最中も、なかなかこの奇妙な喋り方をする学生に、不審を抱いていたのだ。
 だが、それはこの彼の言葉でやや方向を変えられる。

「……信用していないようですね」

 それはそうだ、とイリヤは答えた。

「何故です? 可能性として無いことではない、とあなたも思っていなかったですか?」
「可能性としてはね。だけど君の持ってきた情報は、筋が通りすぎてる。罠であると考えても当然じゃないのか?」

 なるほど、とソングスペイは笑った。

「確かにそうですね」

 そうだろう? とイリヤは椅子の背もたれに大きくふんぞり返る。

「ではもう少し腹を割って話しましょうか。実を言うと僕は、あのシミョーン医師に個人的恨みを持っている。だから失脚させたい。それではいけませんか?」
「個人的恨み?」
「十年前の、一斉検挙で、僕の家は、無くなりました。その恨みを、当時から通じていたという相手に向けるのは当然ではないですか?」

 なるほど、と彼は思った。とにかくその時には返事を保留にして、相手を帰らせたが、無論編集長はその場で単純にそれを信じた訳ではない。
 彼は部員を召集し、情報の裏付け捜査を始めた。そしてその反面、ラーベル・ソングスペイと名乗る学生の調査をも始めた。学生は学内の調査には強かった。何せ彼らは学内の隅々まで知っている。時には、当局にも見つからない場所も、あちこちに。
 やがてその部員の一人が、ソングスペイの正体は、十年前に失踪した、ある資産家の子供の一人ではないか、と調査の結論を出した。

「リャズコウ氏は、当時、裏で反体制派の活動に関わっていました。数種類の会社を経営していましたが、利益の多くを、どうやら、反体制派の方へと流していたということです」
「当時は、そういう資産家も多かったのか?」
「いえ当時でもそう多くはないです。リャズコウ氏には当時十歳前後の末の息子が居まして、それがラーベルという名です」

 十年前、その末の息子はこの都市から姿を消しているという。無論子供だけで逃げる訳ではないから、大人が手引きをしている。そしておそらくは外惑星に逃げた。
 だとしたら、彼のあの言葉の違和感にも説明がつくのだ。
 彼はあの時、ゾーヤと一緒に、ソングスペイをつけて、ザザ街付近に来たのだ。そして案の定、誰かと会話をしていた。そこは、現在は「絢爛の壁」と言われている、原色も鮮やかなペンキの落書きであふれた場所だった。
 何気ないふりをしていたが、彼は時々、頭上のキンモクセイの香りを懐かしそうに感じているようだった。
 何をしているのだろう、と彼はゾーヤと話しながら時々思った。だがその時彼女と何を話していたかは思い出せない。
 そして。誰かが、ソングスペイの近くにやってきたのだ。何か、ひどく、派手な奴だった気がする。ソングスペイ同様、壁にもたれ、煙草をふかしていた。そして何やら長く話していたかと思うと、やがて何ごともなかったかのように、別れていった。

 ……何かが、彼の中でひっかかっている……

 だがその疑問は、すぐに彼の心から消えた。時間が少ない。足りないのだ。
 それは彼の友人達の属している演劇部にしても同様だろう、と彼は思う。
 いきなり検挙された部員の一人の代役が、どうしても決まらない。確かその部員の役は道化師だったはずだ。
 だがあの強烈な印象を残すような外見を持った者はそうそういない。仕方なく、彼らはシナリオを書き直す羽目となった。
 だがその検挙された際に、シナリオライターまでもが姿を消したために、主演女優であるヴェラはとうとう妹まで担ぎ出した。
 彼女の妹は、今までさほどに表立った活動をしていなかったせいか、彼は気付かなかったが、結構いい文章を書く。今度一度新聞部にも誘ってみようか、と彼は思った。
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