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33.連絡員は笑顔のまま彼を糾弾した。

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 これで良かったのだろうか、と文系サークル棟の片隅の部屋で、未だ隠れ待つカシーリン教授は思う。
 ヴェラに自分の手紙を持たせ、ジナイーダに演劇部への参加を勧めた。
 それは全て、彼がこの地で初めて出会った組織の幹部格の命令だった。
 彼はある種、危機に立たされていたとも言える。
 最初にその幹部格に出会った時には、決してそうは見えなかった。確かにそうだ。あれが幹部格に見える方がおかしい。
 だが、その手からは確かにあの組織特有の信号が感じられたし、その数ときたら、彼がそれまで遭遇してきた組織構成員とは比べものにならない程だった。
 その彼が、言った。
 自分は怠惰なのだ、と。その能力がある者が、それを有効に使わないのは、組織に対して不敬であると。

『そうは思わないか?』

 あの時、ジナイーダと共に自分の研究室に現れ、人なつこくにこやかな笑みをたたえながらも、握手をした直後の連絡員の唇は、そう動いた。手には、幹部格であることを表す信号が走り抜けていた。
 カシーリン教授は、その時一気に自分の血の気が引く音を聞いたかと思った。
 顔と顔をつき合わせていた状態だったので、ジナイーダはそれには気付かなかったはずだ。それに、その合間に出す連絡員の声は、その様な内容とは全く無縁の、初めて会えた教授に会う学生のそれだった。全くもってそれ以外の何者でもなかった。
 教授は、十年以上前から、「MM」の構成員だった。ただ、その命令は滅多に無く、忘れてはいないし、その理念を著書の中にさりげなく書き込むという作業は忘れていない。
 そしてその書いてしまった理念のために、学生達は自分を反体制派の人間と見なし、時には尊敬を、時には批判を受けている。
 だが彼自体は、そもそもは大した活動家でも、反体制派でもなかった。十年以上前。彼がまだ現役の大学院生や助手だった時に、ふらりと誘われるままに入り込んでしまった、その「地下組織」。若かった彼には、当時、それは魅力的だったのだ。
 信号だけで認識される「同志」、暗号めいた喋り、その口の形だけで本当のことを話し合う…… その秘密めいた行動に、肩書きなどどうでもいい活動に、ひどく惹かれたのだ。
 理屈ではない。意味もなく、ただ惹かれたのだ。周囲からは生真面目な学生、助手と見られている自分が、裏ではこんなことをしている。その気持ちは、当時の若い彼を高揚させた。それが果たしてこの州や惑星のためになるのかどうか、なんてどうでもよかった。
 彼がその時欲しかったのは、その結果ではなかった。その行動、その過程、そのものだったのだ。
 だが十年前の一斉検挙が、彼を夢から覚まさせた。
 リャズコウ氏が「MM」に関わっている一人であることは彼も知っていた。それも特に熱心な一人であることを。
 だがリャズコウ氏は若き日のカシーリン助手が末端構成員の一人ということは知らなかった。リャズコウ氏もまた、多少の階層は違うにせよ、末端に過ぎなかった。末端は末端を知らない。彼にせよ、リャズコウ氏が逮捕されてから、それと推理し、それは正しかったのである。
 そしてあの屋敷は封鎖され、子供達は行方をくらました。
 組織員とは限らずとも、その時、多数の反体制派が逮捕され、いつの間にか表から姿を消した。その消え方に、カシーリン氏は恐怖を抱いた。自分のしていることが、現実的に、どういうことであるのか、ようやく肌で理解したのだ。
 彼はそれを知った時、本気で全身が震えた。
 だが、その時にはもはや遅かった。一斉検挙の後に残った、この州内の「MM」末端構成員は、自分を含め、ずいぶんと人数が減っていたのである。
 できれば彼はそこから抜け出したかった。だが組織はそれを許さなかった。彼はいつも変わる相手から命令を受け取り、この与えられた任務を、地味に、ひどく地味に行った。
 逮捕されるのは、ごめんだった。できれば、組織とも縁を切りたい。彼は実に小市民だった。自分がそれ以上でもそれ以下でもないことを知っていた。
 だから、自分の立場でやってもまあおかしくないこと、だけをその場で展開した。それが妥当だろう、と彼は思った。そしてそれを、ただコンスタントに。
 だがそれが裏目に出た。その活動の実直さが、組織に評価されてしまったのだ。彼の組織内での階層は上がっていった。彼の意志には関わりなく。
 どうしよう、と彼は思った。彼は困った。困ったのだ。
 だが困ったからと言って、どうすることもできない。彼は本を著した。その中には、まるで文学とは関係ないような、他地域の放送の受信のことなども書き込んだ。悲しいかな、彼は、それをつじつまの合うように、書き込めてしまう。それが、言葉の持つ力なのだ。
 迷いながらの十年だったのだ。
 だがその十年を、あの連絡員は、いとも簡単に笑いの中に捨てた。それが何だというのだ、とその唇は動いた。

『それを承知で参加したのではなかったのか?』

 無邪気とも言えそうな笑みの中に、それは。
 用を頼み、ジナイーダを外に出した時、連絡員は、笑顔のまま、彼を糾弾した。そして、それまでに積もった、自分のすべきことを遂行せよ、と命じた。

『判っているだろう?』

 自分のすべきことは。ああそうだ判っている。判っているのだ。ただ自分はずっと目を塞いできたのだ。その手を汚したくなかったから。
 連絡員は、そのまま、戻ってきたジナイーダの気を失わせた。
 そして教授はその場から自ら姿をくらました。おそらくはコベル助教授あたりががたがたと騒いでくれるだろう。
 地味であったとは言え、十年間彼は組織の構成員だったのだ。何処をどう押せば誰を動かすことができるかは把握していた。
 苦笑する。
 本意ではなかった。だがその方法を会得してしまっている自分に。そしてため息をつく。
 後戻りはできないのだ。自分はこの州を、取らなくてはならないのだ。最終的に。シミョーンもブラーヴィンも失脚した後に、必ず。できなければ、今度は、自分が消されることを知っていた。生き残ってきた、ということは、死なないことだ。
 彼は自分が、どれだけ卑怯なことをしても生き残りたいタイプだということを知っていた。
 ブラーヴィンは、十年前から彼の正体を知っている数少ない同志だった。末端構成員同士が知っているのは珍しいのだが、彼は知っていた。そしてその中で、確かに連帯感のようなものもあったのだ。
 だが。
 ブラーヴィンは、ヴェラのような女優に弱いのだ。彼はそれを知っていた。
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