あたしがいるのは深い森~鎖国日本の学生エージェント

江戸川ばた散歩

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20.今はまだ、あいまいにしておきたい

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 最初に久野さんに出会ったのは、まだあたしが越境生として派遣されて二度目の場所だった。
 今でも覚えてる。
 まだ彼自身、車に乗り慣れていなかった頃だった。
 地図も読み慣れていなかったようで、管警に呼ばれたのに、大きく遅刻してきて、平謝りしていた。
 ようやく開放されてふう、と開襟シャツのボタンを一つ外した時に、あたしに気が付いた。
 その時ときたら。
 何じゃこりゃ? とでも言いたそうに、目を大きく見開き、次の瞬間、慌てて別の方向を向いた。
 あたしは、と言えば、まだその頃は、そんなぶしつけな視線にはいちいち傷ついていた頃だったので、大股で歩み寄ると、その後ろ姿に膝蹴りを食らわせた。
 言っておくが、飛び膝蹴りではない。膝の後ろをついただけだ。
 案の定彼は、その場に転んだ。ざまぁみろ、だ。
 とどめにアカンベーまでしてやった。
 ただ彼は、あたしのその行動の意味がすぐに判ったらしい。
 転ばしたのはあたしなのに、即座にごめん、と謝ってきた。
 そう言われると、あたしはあたしで、どうしたものか判らなくなって、照れ隠しに、判ったならいいのよ、と大きな態度を取ってしまった。
 事件が解決して、もう会わないだろう、とお互い思ってほっとしたものだ。

 だがその次の事件でも出会ってしまった。
 あたしの露骨に嫌な表情を見て、彼はがっくりと肩を落とした。
 その時お互いに、名前を聞いたんだと思う。必要があった。
 向こうはあたしをさつき、と名前で覚えた。あたしは向こうを名字で覚えた。
 理由は同じだ。呼びやすい。それだけ。それだけだと、思う。

 そして二度あることが三度あった時、さすがに彼もあたしがただ越境して学校に行ってるだけではない、と気付きだしたらしい。
 それからというもの、時々彼はあたしに「正体」を聞いてきた。あたしはそのたびにかわし続けてきた。
 特警に言ってはいけない、とは別にあの総理のおっさんも言ってはいないし、ミキさんも格別な注意はしなかった。それはあたし達越境生の自主的な判断に任せられている。
 あたしが久野さんとよく顔を合わせている、ということを彼らは知っているにも関わらず、だ。
 同じ総理の管轄下にあるから、ということだろうか。
 だけど、「鎖国体制を守る」特警の存在理由と、あたし達が行動している理由は、明らかに異なる。
 訳が分からない。

 そして判らないと言えば。
 正直、何で今、自分が動揺しているのか、理由がつかめないのだ。
 「彼のこと好きなんじゃない」と若葉がそう判断するのも判らなくもない。他人事として、あたしのことを聞けば、そう判断してしまうだろう。
 実際、彼があたしのことを仕事上で関わってしまう奴、としか思っていないのが悔しいのは確かだ。
 ただ、それが「好き」という感情なのか?
 そこがあたしには判らないのだ。

 訓練中によくあたしにミキさんは言った。

「無理に決めつける必要はないのよ」

 ちょうど二十歳違う彼女は、あたしにとっては母親と言ってもいい年齢だった。
 だけど母親とは違う感触を受けた。どちらかというと「年の離れた姉」というところだ。
 だけどその「姉」という感覚も、彼女が「それはこうじゃない?」と後付けしてくれたものだ。

「あなたがそれを判らないのは、仕方ないことなのだから、焦ってはだめよ」

 そう言って、よく優しく肩を抱いてくれたものだ。
 その時の暖かい肩や腕の感触にふんわりした、暖かいものを感じた。その感情の流れを説明したら、こうじゃない? と彼女は美味く当てはまる言葉を探してくれた。
 でも本当のところ、「母親」も「姉」も、あたしにはよく判らない。
 そもそも、自分に、どんな家族がいたのかすら判らない。
 家族だけではない。
 本当の名前も、どこに住んでいたのかも、どんな学校に通っていたのかも、まるで判らない。
 その部分を思い出そうとすると、とたんにぼんやりと頭の中に霧がかかる。
 もしくは、何を思い出そうとしていたのか判らなくなる。頭が混乱する。
 あたしは誰かを好きになったことがあるのだろうか。
 それはどんな時に、どんな相手を、どんな感覚で思ったときのことなんだろうか。
 それを考え出すと、何だがすごく、背中が寒くなる。
 だから、普段は考えないようにしている。寒い背中は置いておこう。とにかく前を見るしかない。
 それが根本的解決になるとは思わない。だけど、それを考えていたら、立ち止まって、うずくまって、あたしは動けなくなる。
 それは嫌だ。
 だから、今はまだ、あいまいにしておきたいのだけど。
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