2つの糸

碧 春海

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一章

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 内田友美は3年前の社員旅行のことを思い出していた。名古屋市だけではなく日本でも有名な自動車メーカーの事務員で、北陸の能登への1泊2日の旅行である。その時期の彼女は心身共にぼろほろの最悪の状態で、自殺の名所である東尋坊から身を投げて死んでしまおうかと、本気で考えていたのである。でも、そんな勇気もなく、宴会では飲み慣れない酒に酔いつぶれて同僚に絡んでは突然泣き出したりして、周りの人もいつもの物静かな人柄とは余りの変化に、どうして良いのか困惑していた時に1人の男性が現れて、彼女を抱えるようにして宴会場を出ていった。そして、一夜が明けて窓から差し込む朝の日差しで目を覚ました友美は、二日酔いで頭は痛いし胃の辺りがむかついて気持ちが悪かったけれど、それを含めていつもとは違う朝の目覚めであった。
「気分はどう?ちょっと飲み過ぎちゃったかな」
 友美が重い瞼を擦っていると、昨夜の男性が水の入ったコップを差し出した。
「あっ、あなたは・・・・・」
 辺を見渡し、掛け布団を胸まで手繰り寄せ着衣の乱れを確認した。
「大丈夫みたいだね」
 水をゆっくり飲む友美の姿を確認し安心して部屋を出ようとした。
「あの、どちら様でしょうか」
 水を飲み干した友美は、部屋を出ようとしていた男性に声を掛けた。
「ああっ、経営企画部の国友鉄男です。あなたは経理部の内田友美さんですよね。これをきっかけに、顔を覚えてもらえれば嬉しいです。部屋の鍵はテーブルに置いておくからよろしく」
 鉄男はそう言い残すと部屋を出ていった。気がつけば、その部屋は泊まる予定の大部屋ではなく、少しグレードの高い豪華な部屋であった。同僚に聞いた話によると、鉄男が別の部屋を取ってくれたのだと知り、あの時の状態を思い出し顔がじわじわと赤くなってくるのが自分でも分かる程であった。
 2人は同じ本社勤務ではあったが、社員数千人規模の会社で部署も違っている為、名前は勿論社内で会う機会は殆んどないはずではあったが、どうして鉄男が友美の顔と名前を知っていたのか不思議であった。
 社員旅行を終えて数日経ったある日。友美のデスクの電話が鳴り出てみると、聞き覚えのある声が耳へと飛び込んできた。それは、鉄男からの食事の誘いであった。今までの人生の中で異性からの食事の誘いは何度かあったが、その誘いを受けたことは一度もなくていつものように今回も『ごめんなさい』の言葉を発しようとしたが、一瞬あの時の姿が頭に浮かび、感謝の気持ちを込めて一度だけのつもりで受けることにした。
 デートの予定地は1937年に開園したデートの定番である名古屋市東山動植物園。名古屋駅で待ち合わせて、地下鉄で20分程して目的地へと付いた。動物園にはゾウ・コアラ・ライオンなど世界各国の動物を約500種類が展示され、2人はそれぞれの動物を鑑賞したり、餌をあげたりと楽しい時間を過ごし、コアラや一番人気のイケメンで有名なニシゴリラの『シャバーニ』を発見するとつい可愛いねと大声を出し合った。動物園を見学してから2人はレストランでランチをとることにした。
「あのさ、日本のコインのすごいところを知ってる」
 食事を終えてコーヒーを楽しんでいる時、突然話題を変えて鉄男が質問してきた。
「あっ、いえ、どんな所がすごいんですか?」
 興味を持って尋ねた。
「ます、1円硬貨を作るのにいくら掛かるのか知っていますか?」
 財布の中から1円硬貨を取り出してみせた。
「あっ、何かのコマーシャルで確か3円掛かるって言ってたと思います」
 その1円硬貨を見詰めて答えた。
「流石ですね。その時の材料の仕入れ値段にもよりますが、3円から4円になります。もう1つ1円硬貨には秘密があるのです。それは、世界で唯一水に浮くコインなんです」
 行儀が悪いが、コップの水に実際に浮かせてみせた。
「全くそんなこと考えたことはなかったです。そう言えば、すごいことですね」
 友美は水に浮かぶ1円硬貨を見て感心していた。
「次は5円硬貨についてです。この5円硬貨にも世界に誇れる秘密があるのですが、分かりますか?」
 今度も実際の5円硬貨を手渡した。
「えーと、あっ、分かりました。中央に丸い穴があいていることです」
 自信を持って答え、よく気がついたと自分を褒めたい気持ちになった。
「うーん、半分正解かな。でも、50円硬貨にも穴があいてるよね。5円硬貨唯一の秘密はアラビア数字が刻まれていないことです。よく見てください、漢数字の五しか刻印してないんですよ」
 両面を見ても確かに漢数字の五しか刻印されていなかった。
「時々、日本に訪れた外国人が戸惑うそうですよ。それと、最後に500円硬貨ですが、このコインは世界で最も価値のある硬貨だったのですよ」
 これも用意してあったかのように財布に入っていた。
「だったですか」
 最期の言葉が気になった。
「先ずは500円硬貨の歴史から説明すると、1982年に500円紙幣に代わって登場した白銅の500円硬貨。どうして、紙幣から硬貨に代わったかというと、自動販売機の急速な普及があったからだそうです。先程、最も高価だったと言ったのは、従来諸外国では珍しく、比較的高額なものでも、2ユーロ、2ポンドなど200円程度の価値なのですが、唯一同等なのがスイスの5フランで450円でしたが、今は少し円安になり500円硬貨より価値があるのです」
 そう言われると、子供の頃にお小遣いとしてもらっていた500円硬貨の有り難みが増してきた。
「でも、どうして突然日本の硬貨の話をされたのですか」
 手渡されていた500円硬貨を返して尋ねた。
「これってすごい技術じゃないですか。硬貨以外にも日本が世界に誇れる技術は沢山あります。僕は、その技術を生かしてもっともっと日本を発展させたいのです。それが僕の夢であり生きがいなんです」
 500円硬貨をじっと見て、偽造防止など技術力に感心していた。
「大きな夢なんですね」
 その言葉を最後に2人は動物園を離れ、自然を生かした地形に約7,000種類の植物が植えられている植物園に向かい、園内を散策しながら花々を鑑賞し楽しんだが、そんな時間はあっという間に過ぎ夕刻となり、次には『恋人の聖地』にも認定され『日本夜景遺産』『夜景100選』にも選ばれた『東山スカイタワー』に登ることになった。地上100mの展望台からは、名古屋の街並みをパノラマで見渡す事ができ、先ほど訪れていた東山動植物園の様子も眺めることができた。2人は展望室の2人掛けのソファーに腰を下ろして眺めた後、最上階のレストランで本格的なフルコースディナーを取ることになった。
 今日過ごした素晴らしい出来事をもう一度思い返し、今こうして鉄男と一緒に素晴らしいディナーを味わう幸せ。2度とないであろう出来事に食事を済ますと何故か涙が込み上げてきて自然と流れ落ちた。
「大丈夫ですか?」
 その涙の意味が分からず鉄男が声を掛けた。
「大丈夫です」
 友美はハンケチで涙を拭くと、1度唾を飲み込んでからか細い声で答えが、鉄男は泣かした原因が分からず戸惑っていた。
「でも・・・・・・」
「あの、今日は本当にありがとうございました。本当に楽しかったです」
 友美は涙を拭き取るとゆっくりと頭を下げた。
「あっ、喜んでいただければ良かったのですが・・・・・・」
 涙を見せての言葉とは思えなくて鉄男は戸惑った。
「でも、今日一度だけにしてください。ごめんなさい」
 もう一度深々と頭を下げた。
「やっぱり僕ではダメですか」
 顔を上げた友美に問い掛けた。
「あっ、いえ、決してそんなことは・・・・・・」
 鉄男の言葉にどう答えていいのか悩んだ。
「あの社員旅行は偶然じゃなかったんだよ。それは、内田さんがどこの部署に所属しているのか、内田さんが参加する日がいつのかをあらかじめ知っていて予定を合わせたのです」
 コーヒーを一気に飲み干して意を決して話した。
「どうして、どうしてなのですか」
 全く思い当たる節がなかった。
「内田さんは旭野高校のラグビー部のマネジャーだったよね。内田さんが1年生の時、僕は3年生でラグビー部にいたんだよ。ただ、レギュラーではなく補欠だったから覚えてないだろうけどね。その時から好きだったんだけど、内田さんはレギュラーでキャプテンだった朝比奈が好きだと友達から聞いて、最後まで告白することができなくて卒業してしまった。仕方ないよな、あの頃の朝比奈は学業も優秀で、ラグビーだけでなくスポーツ万能だったから。その上、ちょっと天然ぽいところはあったけど、同級生や下級生にも威張り散らすことなんかなかったからな。だけど、会社で内田さんを見掛けた時、まだ独身だと聞いて今度こそは気持ちを伝えようと、ずっと前から思っていたんだ」
 鉄男の思いが十分に伝わってきた。
「でも私は・・・・・・」
 その思いに返って答える自信がなかった。
「ダメなんでしょうか?」
 落胆の表情で尋ねた。
「分かりました」
 この人ならという気持ちが少し芽生えてきた。そして、デートも2度目、3度目、と重なるたびに、凍りついていた心の痛みが少しずつ溶けていくのを感じていた。友美は、鉄男が話したように、ラグビー部のキャプテンで背が高く、陽気でちょっぴりハンサムな朝比奈優作が好きだった。でも、鉄男と同じように告白できなくて、卒業してしまったのであった。それ以来、恋人はできなかったが、高校時代はよく働く父と優しい母、そして2つ年下の妹の4人家族で仲良く暮らしていた。しかし、友美が大学に入る頃から幸せだった内田家にも暗雲が漂い始めた。父が連帯保証人になっていた友人の会社が、バブル崩壊の影響もあって倒産してしまい、その友人の家族は借金だけを残して行方不明となり、その借金の請求が父親のところに押し寄せるようになった。
 父親は、祖父から受け継いだ家や土地を売ってその借金に宛てたが、それでも足りなくて家族の前からその姿を消した。またその影響が大きく母は体を壊して寝込んでしまい、友美は自分は奨学金で短大に通いながら、家族が生きてゆく為に妹と2人で何件ものアルバイトを掛け持って働いた。そして、短大を無事卒業して今の会社に就職が決まって、母親の病気も良くなり少しずつ生活が安定し始めた時、ある事件が友美の身体と心を襲った。
 それは、会社に勤め始めた頃、仕事にも慣れて少しずつ残業も増えてきて、遅くなってしまった夜の出来事だった。遅くなったので、いつもは使わない公園を横切る近道で突然暴漢に襲われてしまったのだ。それは衝撃的な出来事で、直ぐに警察に連絡しようと思ったけれど、しばらく考えて結局口も心も閉ざす方法を選び、家族にも友達に伝えることはなく1人で抱え込むことになった。
 その反動はものすごく、必然的に男性不信となり仕事の時は仕方なく我慢をしたけれど、男性に触れられることも話し掛けられるのも怖くて、何度か交際を申し込む男性はいたが、首を縦に降ることはなかったのだ。その為社内では、友美は男性嫌いとの噂も立って、段々と近づいてくる男性もいなくなってしまい、将来的にも男性を好きになる事はないし、絶対に結婚はできないと思うようになっていた。しかし、鉄男は友美を包み込むような優しさを持っていた。友美は鉄男と付き合ってゆくうちに、心の傷が少しずつ少しずつ小さくなっていくのを感じていた。
(この人なら)そう思う反面、心の傷が完全に癒えないまま、もしこの恋を失った時の傷の大きさを考えると、友美の方からは積極的にはなれなかった。気持ちの上では、普通の女性が思うように、好きな男性に身を任せたいという感情はあるけれど、いざとなると気持ちとは裏腹に体が自然と拒絶してしまう。それ程友美にとっては肉体的にも精神的にも衝撃的な事件であった。
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