2つの糸

碧 春海

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二章

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 天使の囁きと悪魔の誘惑の中で、半年が過ぎようとしていた12月のある日、鉄男から連絡が入り『クリスマスイブの夜は2人で過ごそう』と誘われた。友美はその誘いに即答はしなかったが、鉄男の熱心さに押し切られて受けることとなった。ただ、友美には不安なことがあった。
 デートの約束などの連絡はいつも鉄男の方からの一方通行。それも、会社からであったり公衆電話から掛けてきて、鉄男の自宅や携帯電話の番号を友美は知らないでいた。今までは、友美の方からの急な連絡ごとはなかったし、毎日欠かさず電話がきていたので支障はなかったけれど、鉄男を全面的に信じられずその理由を聞くこともできない弱い自分が憎らしかった。ただ、友美は家族と離れて一人暮らしであり、鉄男が2人が付き合っていることを、他人はもとより家族にまで知られることを極端に警戒しているのを考えれば、仕方ないのかなと自分に言い聞かせていた。その反面、鉄男自身の家族構成などの話は一切しないし、住んでいる住所なども教えてくれない鉄男を恨めしくも思っていた。
  そうこうしている間に、鉄男との約束のクリスマスイブの夜がついにやってきた。その日、友美は仕事を定時で終えて、彼氏のいない友人達の誘いにも、家族と一緒に過ごすからと断り、周りの人達に注意しながら会社から徒歩で15分程のところにある名古屋ニューグランドホテルへと向かった。
 鉄男は既に到着していて、ロビーで帽子を目深に被り濃い目のサングラスをして新聞を読む仕草で友美を待っていた。会社を休んでいる訳でもなく、定時に仕事を終えた友美よりも変装等の余裕で待てるのは不思議であった。それは、今回だけではなく、会社の繁忙期であっても1度も友美を待たせることはなく、仕事の関係で時々遅刻をする友美に比べ、約束の時間よりも随分前から来ていることがほとんどだった。
 友美の姿を確認した鉄男は直ぐに近づいてきて、ホテルのレストランへと向かい既に予約してあった店の奥にある個室に案内されると、2人が席に着いたタイミングで担当のギャルソンが挨拶とともに、食前酒の注文を受けて戻っていった。
 しばらくして、鉄男が注文した食前酒のシャンペンを持って先程のギャルソンが現れ、それぞれのグラスに注ぎ終えると『どうぞごゆっくりお楽しみください』と告げて去っていった。鉄男がシャンパンが注がれたグラスを手にし、少し遅れて友美も同じように目の前の高さまで持ち上げると鉄男が『2人の将来に乾杯』と発声して友美のグラスに重ねた。
(2人の将来に乾杯?)友美はその言葉に戸惑い、鉄男にその意味を尋ねようとしたところに間が悪く前菜が運ばれて来た。
 勿論、フルコースが注文されていて、前菜は『タラバ蟹の蒸し物でカシスソース盛りのキャビア添え』と告げてギャルソンが立ち去ったのだが、胸に付けられたネームプレートに書かれた文字に友美は一瞬驚いた表情を見せた。
「このタラバ蟹、確かに蟹って付いているんだけど、実はヤドカリの仲間なんだよね。蟹は足が10本あるんだけど、タラバ蟹は8本しかないんだ」
 鉄男は友美の表情を気にしながらも、フォークで摘んだ前菜を見せながら言った。
「えっ、そうだったんですか。どう見ても蟹にしか見えないですよね」
 ギャルソンの背中を見ていた視線を前菜へと移して答えた。
「添えてあるキャビアはチョウザメの卵なんだけど、日本では『イクラ・チョールナヤ』黒いイクラとも呼ばれて、日露戦争出兵時にロシア人がキャビアの代用品として食べたことに始まり、昭和初期までは日本の市場で『キャビア』として出回っていたのはサケやマスの卵を塩漬けにした『イクラ』であったと言われているんだよ」
 鉄男が少し得意気にうんちくを語った。
「あの、鉄男さんは乾杯の時、2人の将来の為と言われましたが、あれはどう言う意味だったのでしょう」
 鉄男のうんちくを無視するように思い切って尋ねた。
「それは、料理の後でじっくりとさせてもらいます。先ずは、料理を楽しみましょう」
 鉄男は子供のように笑顔を作って答えた。それ以降次々と料理が運ばれ、その都度ギャルソンは丁寧に料理の説明をしてくれ、それぞれ本当に美味しかったし、いつもと変わらず鉄男の話は面白かったが、食事の後にと言われていた言葉が気になり、とてもウキウキした気分にはなれなかった。そして、フランスのデザートに当るフルーツが散りばめた皿の中央にハートに型どったムースが置かれた『デゼール』が出され、それをゆっくりと味わった後、最後にハーブティーが運ばれギャルソンが部屋を出るのを確認した鉄男は、ポケットから小さな箱を取り出して友美の目の前に差し出した。
「僕の気持ちを受け取って欲しい」
 鉄男の言葉に、友美はその小箱を受け取りゆっくりと開けてみた。するとそこには、光の少ない部屋の中でも眩しい程の輝きを放つ大粒のダイアモンドの指輪だった。
「友美さん、僕と結婚してください」
(これが鉄男さんが言ってた乾杯の意味なんだね)鉄男の告白の言葉に一瞬身体が固まってしまったが、友美はゆっくりと頷いた。そして、2人は食後のティーを楽しんだ後、エレベーターで鉄男の予約していた最上階へと上がって行ったのだが、左手の薬指にダイアモンドの指輪を輝かせた友美には、鉄男に対する不満や不安な気持ちは消えていた。
(鉄男以外に、自分を幸せにしてくれる男性はこの世には存在しない。この人を信じてどこまでも付いて行こう)そう自分に言い聞かせていた。しかし、そう覚悟はしたものの、1つの部屋に男性と2人きりになった経験は皆無であり、ましてやホテルなんて・・・・・・
緊張感が全身を覆った。
「友美さん、夜景がとっても綺麗だよ」
 鉄男は窓辺に近づき友美を誘った。
「あっ、本当ですね」
 満月が輝く夜景をバックに、ミライタワーのライトアップが輝いて見えた。
「でも、友美さんの方が何倍も綺麗だよ。今夜はプロポーズを受けてくれてありがとう」
 鉄男は友美に近づきそっと唇を重ねた。
「何か飲む?」
 友美から離れると冷蔵庫へと向かった。
「いいえ、私は・・・・・・」
 言葉が震え、心臓の鼓動が聞こえる程の状態の友美はとてもそんな余裕はなかった。
「ごめん、僕は緊張して少し喉が乾いてしまって」
 そう言うと、友美に背を向け腰を屈めて冷蔵庫を開けた。そう、今なら帰れるかもという気持ちが一瞬心に湧き出した。あの時の事を思い出したりはしないだろうかと、自分自身がとても不安だけど、鉄男の前では事件のことを忘れ去って、1人の女になりきろうと改めて決心した。
(今、この幸せは失いたくない。どんなことがあっても)
 全てを任せるつもりで、友美はベッドに腰掛ける鉄男に身体を寄せた。小刻みに震える友美を、鉄男は時間をかけて優しく包み込み、頂点に達した2人は1つになった。そのあとのことはよく覚えていなくて、目が覚めると隣で寝息を立てている鉄男の姿に夢ではなかったのだと実感していた。その後は、お互いシャワーを浴び衣服を整えると、部屋を後にして1階にあるカフェで朝食を摂ることにした。鉄男はブラックコーヒー、友美はカフェオーレを注文し、洋食のモーニングセットを頼んだ。
 食事の間は2人とも無言であったが、鉄男は友美の様子を見ながら今までの行動について詫びるとともに、その理由を語り始めた。鉄男と友美が務める愛知精機は、日本でも5本の指に入る愛知自動車の同族会社で、現在の社長横山彰は、愛知自動車の社長国友幸助の妹の配偶者、つまり国友幸助の義弟であった。鉄男はその愛知自動車の社長である国友幸助の次男として生まれ、将来は兄と共に愛知グループを支えることが約束されていた。
 しかし、このことは愛知グループの一部の人間以外には知らされていなくて、鉄男は地元の旭野高校を卒業して東京の大学へ進学して、親の七光りと思われるのを嫌い一度は東京の電機メーカー企業に就職したが、父親の意向で愛知精機には中途入社という形で戻ってきたとのことだった。ただ、その過程を経たお蔭で、鉄男が愛知グループの御曹司と思っている人は殆んど居なかった。
 ただ、そんな大企業の御曹司に嫁ぐとなれば、両親や一族のお目に叶った女性が求められるのは鉄男にも分かっていた。そして、友美の家庭の事情も知っていた鉄男は、嫁としては相応しくないと家族から反対されるのは目に見えていた。だから、友美の恋人としての存在を知られることに注意する必要があり、友美の気持ちを確認してから両親を説得するつもりでいたとのことだった。その話を聞かされて、友美は驚くとともに不安になった。
 余にも身分、家庭環境が違いすぎる。友美には、鉄男が自分を好きになってくれた気持ちは素直に嬉しかったけれど、上流階級の人達と付き合っていく自信は全くなかった。案の定、鉄男が両親に友美との関係を報告すると、良家との縁談話が既に進んでいたのにそれを無視しての鉄男の行動に、怒りを持って烈火のごとく罵倒されて、しばらく絶縁状態となってしまった。
 しかし、鉄男の良き理解者である祖父の仲介により、会社は退職し2年間の花嫁修業をする条件で結婚を許され、料理や行儀作法などとてもハードな毎日を過ごすことになった。
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