2つの糸

碧 春海

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五章

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 明日は鉄男との結婚式。友美にとって本当に待ち遠しかった日がやっと訪れる。この日の為に慣れない花嫁修業で苦労したことも、姑からの様々な苦言も今となっては懐かしい思い出にできそうだった。
 その日の夜は、家族の他に母や妹も知っている友美の友人達が集まってくれて、夜遅くまで祝ってくれた。そして、皆が帰った後、親子3人で一緒に後片付けをしている時には、この小さなアパートにこうして母や妹と仲良く暮らすことが二度とないと思うと、床の染みや壁紙の剥がれさえも愛おしく感じられた。
 後片付けも終わり、友美は2人の気遣いで最初に風呂を勧められて、ゆっくり浸かった。後で2人に『おやすみ、明日はお願いね』の挨拶をして布団に潜り込んだ。明日は大事な日だから、早く寝なくてはと思えば思う程に興奮が湧き出し、反対に目が冴えてしまった。
 丁度、子供の頃に誰もが経験した遠足や運動会の前の日のように、神経がやたら機敏になってしまって中々眠れなかった。そして、最後には『羊が1匹、羊が2匹・・・・・・」作戦で何とか眠りについたが、今度は早く目が覚めてしまい結局2時間もの睡眠を取る事ができなかった。
 仕方なく、準備をしようと起き上がってシャワーを浴びることにした。温度を低めにしたシャワーのお陰か、これから起きる出来事に気分的にも充実している為なのか、短い睡眠時間の割には肉体的にも精神的にも爽快であった。
 濡れた髪をブローし、結婚式の美容着付けの為に顔の化粧はいつもより薄めにして準備を整えると、友美はキッチンで朝食の準備をしていた母親に近づいた。
「お母さん、ちょっといい?」
エプロン姿の母親に後ろから声を掛けた。
「もう直ぐできるから、座って待ってて」
 母の久美子は手を休めずに答えた。
「食事の準備はいいから、こっちに座って」
 友美は母親の腕を取った。
「そんなに慌ててどうしたんだい?」
 エプロンを外して引きずられるようにしてリビングの椅子に座り、友美は母を前に身を正した。
「お母さん、長い間お世話になりました。我が儘言って困らせたり、苦労を掛けっぱなしで申し訳ありませんでした。本当に、本当にありがとうございました」
 頭を上げ母親の顔を見た瞬間、友美の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「友美・・・・・・」
 母親の声が詰まった。
「おめでとう、本当におめでとう。お父さんがいてくれたら・・・・・・」
 涙を堪えて言葉を続けた。
『ピーンポーン』
 結婚前の親子の感動シーンを呼び鈴が遮った。
「はーい」
 友美は涙声で答えると小走りで玄関に向かった。
「道が思ったより空いていまして、早く着いてしまいました。準備が未だでしたら車でお待ちします」
 親切で真面目そうなタクシーの運転手だった。
「いえ、大丈夫です。直ぐに準備しますので、ここでお待ちいただけますか」
 そう言うと、部屋まで荷物を取りに戻った。
「お母さん、挙式の準備があるから先に行くね」
 カバンとコートを手に母親に声を掛けた。
「友美、朝食取らなくて大丈夫?」
 心配そうな表情だった。
「用意してもらったのにごめん。でも緊張しててとても食べらないから」
 母親へと向きを直し、両手を合わせた。
「えっ、姉さん、もう行くの?」
 友紀が、2人の騒がしい声に反応して部屋から出てきた。
「友紀、後のことはよろしくね」
 そう言い残すと扉を開けて慌ただしく飛び出していった。
「お姉ちゃん、大丈夫かな」
 残された親子は顔を見合わせた。外に出た友美は、直ぐにタクシーに乗り込んだが、その日はシベリアからの寒波が日本列島まで押し寄せて、明け方から全国的に雪となっていた。タクシーのフロントガラスにも沢山の雪が降りつける状態で、窓からは成人式を迎える女性達が、気慣れない振袖姿で足元を気にしながら寒そうに歩いていた。
 そんな姿に、父親にも祝ってもらった成人式の日のことを思い出しまた涙が湧き上がった。そんな感情に浸っている間に、タクシーは名古屋ニューグランドホテルの玄関先に止まり、ゆっくりと降りてフロントへと向かったが、今日は祝日と言うこともあって、まだ朝早いのにホテルのロビーは人でいっぱいになっていた。
 友美はそのまま2階に上がると、数名の係員が待機していて名前を告げると直ぐに美容室へと案内された。挙式まではあと2時間、友美は期待と緊張で体が震えていた。
 一方、朝比奈はそれから1時間半後、挙式の30分前にホテルに着いて会場の確認をしていた。当日挙式を挙げるのは7組で、祝日ではあったが先負けと余り良い日柄ではない為か、このホテルとしては少ない方であった。披露宴会場は大小合わせて5会場有しているので、2会場は2度使われることになる。
 朝比奈はフロントに掲げられた看板に目を移すと、今日挙式を挙げられるご両家の名前が書かれてあり、国友・内田家の挙式は3番目であった。その斜め前にテーブルと椅子が用意されていて、それぞれ新郎新婦の関係者が受付の係りをしていた。
 朝比奈は受付を済ませ、ご両家から用意された飲み物券で喫茶コーナーでコーヒーを頼み、挙式が始まるのを待つことにした。ロビーでは女性が弾く電子ピアノの美しい音色が流れて、新郎新婦を祝う結婚らしい雰囲気を演出していた。
『国友家・内田家、ご両家の皆様、本日は誠におめでとうございます。ご両家の皆さまにおかれましては、挙式の準備が整いましたので、順次教会までお進みいただきますようお願い申し上げます。尚、ご友人の方も入場していただけますので、ご親戚の後に続いてお入りいただきますよう重ねてお願いいたします』とのアナウンスに従って朝比奈も教会に入っていった。
 全員が席に着くと、パイプオルガンが音楽を奏で始め、扉が開き新郎新婦が入場してきた。通常は、父親と一緒に入場し途中で新郎に引き継ぐのだが、新婦友美の父親は行方不明の為、始めから新郎と入場することになっていた。
 朝比奈が出席した数少ない結婚式は、神殿での挙式だったのでとても新鮮だった。テレビでのシーンでお馴染みの牧師さんによっての宣誓も済み、愛の誓いが拍手をもって迎えられて無事終えることができ、記念撮影の会場へと案内された。
 写場と呼ばれる部屋はそんなに広くはなかったが、正面に5段程の階段のようなものが有り、1度に100人が入る写真が撮れるとのことであった。朝比奈は背が高いので1番奥の高い段に上がり、緊張した面持ちで写真のフラッシュを浴びることとなった。
 記念写真を撮り終えると、参列者は七階へと誘導されフロアで新郎新婦を待つことになった。しばらくすると、専用のエレベーターで幸せそうな2人が現れて笑顔を振り撒くと、用意されていた媒酌人夫婦の間に落ち着いた。
『国友家・内田家、ご両家の関係の皆様、披露宴会場の準備が整いましたので、新郎新婦の前まで順次お集まりいただき、披露宴会場へとお進みください』というコンパニオンのアナウンスにより、参列者は次々と新郎新婦に声を掛けて会場に入っていった。
 朝比奈も順序よく並んだが、朝比奈の前に居た男性を目にした友美は『なぜ、どうして』と言葉を発しない口の動きをした。そして、友美の全身に衝撃が起きたのであろうか、一瞬硬直しその姿を見て男がニヤリと笑うと、今度は震えが襲ってきた。その友美の変化は男性の姿が見えなくなると元に戻ったので、鉄男も含め周りの人達は気付かないでいたが、すぐ後ろに居た朝比奈だけはその変化を感じ取って、自分が友美の前に立った時『大丈夫だった』と声を掛けた。しかし、友美は小さく頷くことしかできなかった。
 2人の披露宴は華やかにそして優雅に執り行われ、多くの人たちに祝福されて無事お開きとなったが、特に友人のスピーチでは約束通りに朝比奈がマイクを取り、高校時代のラグビー部でのエピソードが語られた。特に鉄男の真面目で責任感の強い部分が強調され、3年生でレギュラーになれなかったのは、2年生の最後の試合でチームの勝利の為に、強引にトライを取りに行こうとして、太腿とアキレス腱を傷める重傷を負いしばらく入院が必要となり、3年で復帰しても怪我する前の力を発揮できなかった為で、怪我さえなければレギュラーになる実力は十分にあったと、鉄男に成り代わって友美に打ち明けたのが印象的であった。
 披露宴の後、久しぶりに会えたということで、新郎新婦の高校時代の友人達が集まって二次会に行こうと盛り上がり、友人達はロビーで2人が降りてくるのを待っていたが、鉄男の姿はあったもののいくら待っても友美が姿を現すことはなかった。
 化粧直しに時間が掛かるとしても、流石に不信に思った鉄男達はフロントに行き、美容室に事情を確認してもらうことにしたが、友美は化粧を落とした後に直ぐに出て行ったとのことであった。
 残っていた両家の関係者や式場のスタッフが手分けして探したが見当たらず、館内で何度もアナウンスしてもらっても、反応は何もなかった。ただ、美容室で友美が人に会わずに教会へ行く方法を尋ねていたことから、ホテル内の監視カメラのデータを確認したところ、美容室を出て非常階段へ向かう姿が確認できた。それから数分後、探していた人たちにとって最も悲しい事実が待っていた。新婦の友美は、教会の予備室で血塗れになって横たわっていたのである。
 その姿を発見したスタッフは、慌てて救急車と警察に連絡を入れると、救急車もパトカーも数分して駆け付けたが、友美は既に帰らぬ人となっていた。警察の第一部隊が検視を済ませた頃、立ち入り禁止の黄色い帯の前で白い手袋をはめた男が、誰かの到着を待っていた。
「害者の状態はどうなんだ?」
 背広姿の男、近藤警部が黄色い帯を潜って部下の沖田刑事に声を掛けた。
「鑑識の報告によりますと、死因は恐らくコントル・クーではないかとのことでした」
 沖田は手帳を開いて聞き慣れない言葉を発した。
「コントル・クー。何じゃそれは」
 ポケットから白い手袋を取り出した。
「脳挫傷のことだそうで、前頭部を大きな鈍器のような物で殴られたのが原因で、殴打された反対側の脳実質に坐滅と大量の出血が見られたそうです。検視の結果、即死ではなく数分は意識が有ったと思われます。詳しくは解剖の結果ということで、既に司法解剖に回してあります」
 手帳に書かれた記述を順次読み上げた。
「凶器は見つかっているのか?」
 予備室の中を見渡して尋ねた。
「今のところは発見されていませんが、先程も話したように害者はしばらく生きていたようで、本人が書いたと思われる文字が残されていました」
 沖田は、遺体があった場所まで案内して残されていた血の赤ではなく、茶色に近い血文字を示した。
「えっ、ダイイングメッセージってことか。これはカタカナで『アサヒナフ』って読むんだろうか」
 遺体の位置を確認しながら残された血文字を読み取った。
「アサヒナまでは確かだと思いますが、最後の文字は文字の途中なのかもしれません。そう考えると、例えばアとかコとかスとか色々ありますね」
 頭の中で、カタカナの『ア』から始めて色々な文字を描いた。
「そうか・・・・ところで、害者の身元は解っているのか?」
 一先ず、血文字から他の場所へと目を移した。
「はい、このホテルで結婚式を挙げたばかりの新婦で、愛知精機に務める内田友美26歳です。話によると、挙式が済んだ後誰にも告げずに1人でここに来ていたようです。ただ、ここには監視カメラは設置されていないので、害者が誰とあっていたのかは確認できませんでした」
 残念そうに答えた。
「兎に角、その結婚式に出席していた人物の中に、アサヒナという人物が居ないか確認してくれ」
 その言葉に沖田は頷いた。
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