マスクドアセッサー

碧 春海

文字の大きさ
上 下
6 / 13

五章

しおりを挟む
 数日が経ち、朝比奈法律事務所では、事務員兼パラリーガルの糸川美紀が所長室を訪れていた。
「あの、先生、ちょっとご相談したいことがあるのですが」
 スマホを手にして朝比奈麗子のデスクまで進んで声を掛けた。
「えっ、急にどうしたの」
 立ち上がるとテーブル席へと案内した。
「優作さんに何か変わったことありませんでしたか」
 腰を下ろすとすぐに尋ねた。
「変なこと・・・・変と聞かれても、元々『変人』だからやることなすこと変なことばかり、そんなことを聞かれても困るけどね」
 顎に手を当てて首を傾けた。
「一昨日から電話もなく、メールも来ないんですよ。家には帰っているんですよね」
 落ち着かない様子で尋ね返した。
「帰っては来ているみたいね。だけど、私よりも遅いし、朝は私より早く起きて出て行っているみたい。朝ごはんは毎日用意してあるけど、夕食はスーパーカワナカの半額になった弁当ばかり。そろそろ、あいつの手作り料理が食べたくなってきたわ。まぁ、事件に関わると周りが見えなくなるから仕方ないけどね」
 顔を左右に振った。
「えっ、また事件に関わっているんですか」
 驚きの表情に変わった。
「優作の奴、まだ美紀ちゃんには話してなかったんだ。優作は裁判員に選ばれて、傷害致死か正当防衛かを審議する裁判を担当することになり、公判前整理手続きでは正当防衛で処理される案件だったんだけど、公判が開かれると裁判員の1人が裁判を混乱させて、審議のやり直しとなった訳」
「まさかその裁判員が優作さんなんですか」
 裁判での振る舞いが頭に描き出された。
「それで、真実を追及する為だっていって、嘆願書の偽造や防犯カメラのデータの回収など、迷惑なことばかり依頼され大変だったのよ。今もきっと自分なりに納得ができるまで調べていて忙しいんじゃないのかな。それに、最近の優作は私より美紀ちゃんの方が詳しいんじゃないのかな。連絡を待っているより、美紀ちゃんの方から連絡すればいいんじゃないの。電源切っている訳じゃないんだから」
「本当に事件のことで忙しいのでしょうか」
 麗子の説明にまだ納得ができないでいた。
「えっ、どういう事」
 不安気に語る表情に驚いた。
「実は先日、友人達と『ゼア・イズ』で飲んでいた時、優作さんが綺麗な女性と2人で話しているところを偶然見てしまったのです」
「えっ、優作が女性と、まさか、本当に、ああ、事件に関連してのことかもしれないわね」
 それ以外に考えられなかった。
「それが、この映像なんですけど」
 親しげに話す2人の姿がスマホに映し出されていた。
「えっ、これは・・・・・・」
 その映像を見て流石に驚いた。
「先生はこの女性を知っていらっしゃるのですか」
 麗子の驚く表情に驚いた。
「ああ、ちょっと不味いかもね」
 頭に手を当てた。
「誰なんです、知っているなら教えて下さい」
 ちょっと引き気味の麗子に詰め寄った。
「山咲夏海。今は知っている人も少なくなったけど、2、3年前は舞台や映画、テレビのドラマにもよく出ていた女優さんよ」
「えっ、女優さんと会っていたんですね」
 ショックで目を伏せた。
「ただの女優ではなく、優作はデビュー当時からずっとファンだったみたいなの。でも、事件に関係しているとは思えないし、どうして優作が彼女に会う事になったのでしょう。あっ、美紀ちゃんが聞きたいのはそういうことじゃないよね。優作が美紀ちゃんにも私にも何も言わずに、女優の山咲夏海に会っていたのか」
「きっと何か事情があったんですよね。そっ、そうですよね」
 麗子の言葉を聞いて動揺しながらも、自分に言い聞かせるように答えた。
「前から美紀ちゃんに言おうと思っていたんだけど、優作が私の弟だからって無理して付き合うことないのよ。世間には、あんな変人よりも美紀ちゃんに相応しい男性が沢山いるわよ。変な意地を張らないで、もっと素直に生きた方がいいと思う。そうすれば、今のように心配することもない。このままズルズルと引きずっても、あなたの身が持たないわ」
「あっ、いえ、相手が誰だか分かればいいんです。それに、先生に心配いただいてとても嬉しいのですが、私が思っているような感情を朝比奈さんは持っていない。朝比奈さんにとっては私は友人の1人だと思います」
 でも、麗子の気持ちは嬉しかった。
「美紀ちゃんはそれでいいの。本当に後悔しない」
「後悔って、私がいくら思っても、相手は昔からのファン、憧れの人なんですから、かなう訳ないですよ」
 自分の思いを吹っ切るように答えた。
「分かった。でも、どうして山咲夏海に会っていたのかは、優作に聞いてはっきりさせるからね」
 寂しそうな美紀の瞳を見詰めてた時、扉を開けて朝比奈が部屋に入って来た。
「優作、ど、どうしたの」
 突然の出現に動揺していた。
「あっ、美紀もいたんだ。貴重な差し入れを持ってきましたよ。色々お世話になりましたので、皆さんでお食べください。餡の入っていないたい焼きです。『みの家』のたい焼きは勿論店内でも食べれますが、こうして持ち帰りもできるのです。ただ、店内用と持ち帰り用では生地が違うんです。お客さんのことを考えてこだわるって凄いですよね。とても人気で、30分も待ちました」
 紙袋から早速取り出して麗子と美紀の前に置いた。
「そんなことを聞いているんじゃないの。どうして、ノックもしないで現れるのか聞いているのよ」
 呆れ顔で尋ねた。
「でも、受付で聞いたら、姉さんは出勤していて来客はないとのことだったから、ノックをするのは必要ないと思ってさ」
 朝比奈も自分のたい焼きを取り出して美紀の隣に腰を下ろした。
「あのね。美紀ちゃんと、とても重要な話をしていたところなの、本当に間が悪いわね」
 それでも美味しそうなたい焼きに手を伸ばした。
「美紀に話すような重要な話・・・・・気になりますね」
 立ち上がると、温めてあったコーヒーをカップに注ぎ始めた。
「あなたにも十分関係があることよ」
 美紀の顔を見て合図を送った。
「ああ、僕が裁判員として関わっている事件のことだね。姉さんや大神にも手伝ってもらったお蔭で、傷害致死でも正当防衛でもなく殺害の可能性が出てきたんだ」
 3人分のコーヒーを持って戻って来た。
「被告人が殺意を持って殺害したってことなの」
 麗子は、朝比奈の言葉に流石に驚いた。
「いいえ、被告人は無罪。つまり、誰かの身代わりになったってこと。今、大神に調べてもらっているんだけど、いくら腕利きの弁護士で正当防衛を勝ち取れると言われても、身代わりになるには余にもリスクが大きいですよね。そうなると、犯人は被告人の身近な人間と考えるのが妥当。ね、気になるでしょ」
 朝比奈は、美味しそうにたい焼きを頬張った。
「その事件を調べるのと、女優の山咲夏海と密会することと、どんな関係があるんですか」
 麗子は単刀直入に尋ねた。
「えっ、バレちゃいました」
 隣に座る美紀の顔を見ると、小さく頷いた。
「全く関係ないよね。ちゃんと説明してくれる」
 麗子は念を押した。
「その事件に選ばれた裁判員の中に、山咲夏海の妹さんがいたのです。その妹さんから相談を受けて、2年前に報道された偽スキャンダル事件について調べて欲しいと頼まれたのです。それで、まず本人と会って詳しく話を聞こうと思って、『ゼア・イズ』で待ち合わせた所を見られた訳ですね」
 壁に耳あり障子に目あり、街角には麗子ありだと感心していた。
「でも、芸能界のスキャンダルに関わるなんて畑違い。やっぱり山咲さんが絡んでるんじゃないの」
 朝比奈の弁解に納得できなかった。
「初めから絡んでいるって言ってるじゃないですか。僕が裁判員として関わった事件には、被告人が庇っている真犯人がいる。大神に調べてもらったところ、被告人の白井良二は帝王グループ白井健吾の次男坊なんです」
「だっ、だからどうだって言うの」
 朝比奈の言葉の意味が分からないでいた。
「白井健吾の奥さんは、山咲夏海を偽スキャンダルで芸能界から抹殺しようとした『オメガシールド』というタレント事務所の社長なんですよ」
「それが、あなたの事件とどう繋がるの」
「まだ、捜査の途中ですが、亡くなった石川由幸さんはフリーライターだったそうです。もし、石川さんが芸能ネタを本職にしているライターだったとすれば、山咲さんの偽スキャンダルのネタを掴んだ可能性はあると思います。現に、石川さんが持っていたショルダーバックが事件後になくなっているのです。白井良二以外の犯人が持ち去ったと考えるのが妥当で、殺害の動機もそこにあるのだと思います」
「スキャンダルに関する記事が出ることを防ぐ為に石川さんを殺害したってこと。でも、2年も前のスキャンダルについて、今どうして暴く必要があるの。それに、『オメガシールド』は業界でも最大手の事務所なんだから、石川さんからの記事を事前に圧力を掛けてもみ消すことだってありえるんじゃないの」
 少し興味を示し麗子が尋ねた。
「流石姉さん、そういう情報にも詳しいんだね。でも、素人として単純に考えれば、同じ力を持つ事務所に持ち込めば、公表される可能性が高いんじゃないかな」
「別に芸能界に詳しい訳じゃないけど、もし被害者の石川さんがそれを職業としているのなら、バックアップデータを残しているんじゃないの」
「勿論、大神に頼んで石川さんの自宅を調べてもらい、パソコンを調べてもらいましたよ」
「証拠が出たんですね」
 二人の間に入って美紀が尋ねた。
「パスワードが設定されていたんだよ」
 コーヒーを飲み干して答えた。
「警察にはサッ、サイバーセキュリティー専門の部署があるって聞いたことがあります。直ぐに解読してもらえばいいんじゃないですか」
 テレビドラマのシーンを思い出していた。
「美紀、誰に聞いたかしらないけど、そんな簡単には行かないんだよ。銀行などの暗証番号は数字だけ、でも、パソコンのパスワードはそれ以外に大文字小文字の英数に記号も可能だから、スーパーコンピューターを使っても10桁になれば53年、石川さんのパスワードは12桁だったから解読期間は46万年。費用は、1兆3千億円も掛かるんだよ」
 左の顳かみを刺激した。
「無理ってことですね」
残念そうに下を向いた。
「ただ、ちょっと変わったリストが残されていて、その一部をコピーしてもらいましたが、意外な人物が載っていました」
 朝比奈はカバンの中から取り出して見せた。
「えっ、知っている有名人もいるけど、あっ、私の名前もあるわね。えっ、石川さんの名前も載っているわね」
 アイウエオ順に打ち出された名簿を順に見ながら答えた。
「それが何のリストなのか、尋ねる為にわざわざ差し入れを持って現れたということです」
 餡なしたい焼きを右手で示した。
「そんなこともなければ、差し入れなんて持ってこないよね。でも、何の会員名簿なのか全く見当がつかないわね。政財界の人で会ったことがある人もいるけど、殆どの人は知らない人ばかりね」
 頭をひねりながら名簿に載っている人の名を確認していた。
「アイウエオ順ですので、その名簿には載っていませんが、姉さんが顧問弁護士を請け負っている東名テレビの早瀬の名前もありました。ひょっとするとその名簿は、先日連れていただいた帝王ホテルの名簿ではないですか」
「あっ、いや、ホテルに泊まったことはないから、レストランの名簿かも知れないわね」
 そう言われれば、名簿に乗っている名前にも納得ができた。
「やはり、そうでしたか。姉さん、夕食はコンビニで済ませるってなんて言って、高級料理を食べていたんですね。理由がよく分かりました。この件は一応、確認の為に大神に連絡しておきます。本当に、ありがとうございました」
 朝比奈は、勢いよく席を立つと出口へと向かった。
「ちょっと、こっちの話がまだ終わっていないんだけど」
 朝比奈の背に向けて麗子が言葉を放った。
「えっ、捜査の依頼なら、裁判員の仕事もあり、今は手一杯ですので他を当たってください」
 振り返って答えた。
「そうじゃなくって、美紀ちゃん・・・・・・」
「あっ、大丈夫です。仕事頑張ってください」
 美紀は麗子の言葉を遮った。
「あっ、それから、姉さん、夜遅くなる時は連絡を入れますので、誰かに、何処かの有名店でおごってもらってくださいね。よろしく」
 そう言うと頭の上で手を左右に振った。そんな会話が終わった頃、帝王グループ本社の取締役社長室に吉田鋼鉄弁護士が訪れていた。
「先生、良二の裁判の件、随分経ちますがまだ正当防衛の判決は出ませんか」
 秘書が高級なお茶を置いて立ち去るのを待って白井健吾が声を発した。
「公判前整理手続までは予定通り進み、一応裁判を開きそのまま評議を終えて、近日中に正当防衛の判決を下すつもりでいたのですが、裁判で裁判員の1人がとんでもない行動をとりまして、他の裁判員の中にも正当防衛を疑うものが出てきましたので、評議は後日に持ち越すことにしたようですので、もう少しお待ちしださい」
 申し訳なさそうに頭を下げた。
「さっさと多数決で決めるように指示したらどうだね。裁判官の3人は先生の力で正当防衛で納得しているんだから、裁判員の2、3人が反対しても問題ないだろう」
 湯呑を口に運んだ。
「確かに、裁判員の1人が正当防衛に賛同してくれれば問題ないのですが、満場一致が原則で、評議で揉めたとなると彼の評価にも関わりますので、慎重になっているんでしょう」
 手にしていたハンカチで額の汗を拭いた。
「困るんだよね。いくら出来損ないの人間でも、帝王グループ総帥の息子なんだからね。傷が付いちゃ困るんですよ。その為に、高額の顧問料を払っているんだからね」
 外にも聞こえそうな音を出して湯呑を戻した。
「評議会の日程も決まり、そこでは必ず決めさせますので、もうしばらくお待ちください。ただ、またそこで、あの裁判員が騒ぎ出すと、ちょっと不味いことになりますので、なにか手を打たなければとこうして伺わさせていただいたのです」
 湯呑を持つ手が小刻みに震えていた。
「それで、その裁判員はどういう人物なんだね」
 苦々しい表情で尋ねた。
「朝比奈優作というフリーターなんですが、法律や事件捜査について素人にしてはやたら詳しくて、多分暇な時間が多くてミステリー映画やドラマを見て勉強したんだと思います。そいつがいなければ、すんなり決まるところだったのに残念です」
 自分のせいではないことを強調した。
「フリーターなら簡単じゃないか。少し金を握らせれば、直ぐに大人しくなるだろう。秘書に言って、いつもの口座に振り込ませるよ」
「お金で済めば良いのですが、ここは慎重に進めた方がいいと思います」
「長引けば、例え正当防衛が認められても、週刊誌なども嗅ぎつけてくる。その前に処理したいんだよ。警察にも顔が効く君なら何とでもなるだろう。その為に雇っているんだからね」
 苛立って席を立ち吉田弁護士に背を向けた。
しおりを挟む

処理中です...