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一章
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『名古屋』の印象について尋ねられて、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。『金シャチ』で有名な名古屋城、『味噌カツ』『味噌煮込みうどん』平たい麺の『きしめん』などでしょうか。サスペンスドラマにおいては、関東では東京や神奈川、関西は大阪に京都などが舞台になることが殆どで、名古屋が取り上げられることは殆んどありません。それではその名古屋についてほんの少しだけ述べたいと思います。名古屋は日本のどこに位置しているかと尋ねられて答えられない人はいないとは思いますが、愛知県の西部にある人口約230万人の都市です。もの作りの街として有名で、最初の政令指定都市の1つであり、中部地方の中枢ということで、省庁の出先機関や企業の本社・支社が集中している。そして、交通面でも、鉄道・高速道路・空港共に各地から集まっていて、特に高速道路は名古屋市内だけではなく、関東・関西・北陸・信州方面に放射線状に伸びている。多くの方の印象では名古屋といえば車の街というイメージがあり、余り鉄道は使われいない感じがするけれど実はそうではなく、JR・名古屋鉄道・近畿鉄道・地下鉄が各所に通っていて、大都市である東京や大阪に比べれば鉄道利用者は少ないけれど、全国的に見れば多い方である。特に地下鉄東山線は、日本の公営地下鉄ではトップの純利益額を誇っている。
また、経済については、名古屋市のGDPは令和2年度で約13兆円となっていて、世界で言えば60位くらいの国に相当することになる。メイン産業は自動車・鉄道車両・航空部品などの製造業であるが、本社だけ名古屋市内に置いて工場だけを郊外に移転させた企業が多いので、製造品出荷額はそれ程多くはない。
そして、名古屋の企業は非常に堅実で、無借金経営・利益の内部保留を美徳としているという逸話がある程で、これは名古屋式経営と呼ばれ、バブル崩壊後の平成不況でも余り大きなダメージを負わなかったと言われている。
教育の面では、名古屋大学をはじめとして名古屋市内には多くの大学がキャンパスを置いている。特に最近では、都心回帰で市外から名古屋市内に本部を移行する大学や研究機関も多く、学術的にも重要な街でもある。
歴史については、名古屋市は古来より熱田神宮を中心に栄えていて、あの源頼朝も熱田で生まれていた。でも、京や大坂と比べるととても地味な場所であったけれど、徳川家康がまず五街道と宿場を整備して、熱田は東海道最大の宿場町となった。そして何といっても、続いて熱田大地に名古屋城を築城して尾張藩を置いたのが発展の始まりとなった。
尾張と聞くと織田信長が治めたと思われているが、信長が治めていた尾張の中心は熱田でなく清洲であり、家康は水害も多く平地なので守りにくい等多くの懸念材料がある清洲ではなくて、土地が高い名古屋に城を作って新たな都市として発展させることにした。この引越しを清洲越しと言い、城下町や町名も名古屋に移転させた。名古屋は家康の本拠地である三河の隣に位置していて、かなり思い入れがあったのかも知れない。
さらに江戸時代中期になると、第7代尾張藩主徳川宗春が名古屋城下に、無数の提灯配置して照らし、夜でも安全な街を作るなどの政策を施すと、そのお蔭で名古屋の街にも活気が戻り『名古屋の繁華に興(京)がさめた』と言わせた。
明治時代になると、廃藩置県によって名古屋県となった後愛知県となり、名古屋は県庁所在地となった。なお、現在の愛知県庁と名古屋市役所は国の重要文化財に指定されている。さらに、名古屋市には鉄道や日本で2番目の路面電車も敷設されどんどん近代化していった。特に名古屋でよく知られているのは、登録有形文化財で今は『中部電力MIRAITOWER』と名称を変更した、久屋大通にそびえ立つテレビ塔と100m道路。特に100m道路は戦後の都市計画で定められたもので、幅員が100mある道路のことで全国に3本有り、その内なんと2本が名古屋に有るのです。
そして、その発展した名古屋の中心は名古屋駅を省略した名駅と栄の2つが有り、名駅は名古屋駅周辺の高層ビルがそびえるオフィス街で、栄は名古屋城の城下町から続く古くからの中心地で、オフィス街の他にデパートやオアシス21を象徴とした歓楽街が広がっている。その名古屋市の中心部から少し東に行った所に位置する東区。そのオフィス街の一角にある、6階建てのビル内に朝比奈法律事務所がある。所長で弁護士の朝比奈麗子は、東京大学法学部に在籍中に司法試験と国家試験に合格し、検察庁に入庁し名古屋検察庁に勤務していたが、ある事件がきっかけで検事を辞めて弁護士に転身した、いわゆるヤメ検弁護士であった。そんな朝比奈麗子弁護士の所に大学時代の同期生である北川龍一が訪れていた。彼は、日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた日本生まれで中学までは日本で育ったハーフだった。ただ、父親の仕事の関係で、中学卒業後に渡米して4年が経過した時に、家族がアメリカから日本に戻ることになり、アメリカの大学から麗子と同じ東大の法学部に移り同期となったのであった。そして、負けず劣らずの人物で良い意味で競い合っていた仲でもあった。
「北川君と会うのは何年ぶりかな」
テーブルを挟んで腰掛けた麗子が懐かしそうな表情で北川を見ていた。
「大学を卒業してから2年目の同窓会で会って以来かな。朝比奈は検察庁に入庁して忙しかった様で、それ以来同窓会には出ていなかったみたいだからな。でも、まさか弁護士になっていたなんて驚いたよ」
出されたコーヒーカップを手に頭を傾げた。
「まぁ、色々あってね。確か北川君は、数年前に今の法務大臣の今村議員の公設秘書になる為に財務省を辞めたって聞いたけど、エリートコースを諦めてまで選ぶ仕事なのかな。まさか、政治家になるつもりじゃないよね」
麗子は腕を組んで頭の中にその姿を想像しながら尋ねた。
「誰から聞いた話なのか知らないけど、公設秘書というのは間違いで、今はニューランドリーという外資系の会社に勤めているんだよ。親父と今村大臣は大学の同級生で家も近かったから家族ぐるみで付き合っていたから、そんな噂になってしまったのかもしれないね。でも、政治に全く興味がない訳じゃないから、今村大臣の地盤を引き継いで国会議員になるのも良いかもね」
少しおどけて言葉を返した。
「確か、今村大臣にはお子さんが無かったはずだから、可能性が全く無い訳じゃないわよね。将来、会った時には北川先生と呼ばなくちゃいけないかもね」
どうかよろしくとばかりに頭を下げた。
「そんなこと言って、朝比奈のことだから身分や肩書きなんて全く気にしないんだろ。多分そのせいで、検事を辞めさせられたんじゃないのか」
上司と口論し合う姿が頭に浮かんだ。
「まぁ、ご想像にお任せします。そう言えば北川君が勤めているニューランドリーって、確かアメリカでも5本の指に入る会社で、日本で言えば四菱重工の様に自転車から戦闘機まで扱っている巨大企業だよね。まぁ、北川君の実力なら勿論会社としても大喜びだろうけれど、外資系の企業か・・・・・・巨大企業だとしても、何かもったいない気がするな。北川君なら財務省で出世して、政治家に反抗してでも日本経済を守る役人になってくれると思っていたんだけどな」
競い合った大学時代を思い出していた。
「ちょっと評価しすぎだ。僕より優秀だった朝比奈が、検事を辞めてこんな小さな弁護士事務所にいることの方が、余程もったいないことだと思うよ。あれ程検事に対して自信と誇りを持っていた朝比奈だったから、友人から話を聞いた時には顎が外れそうになったよ」
大袈裟なゼスチャーを交えて答えた。
「そうね、三権分立の検察の一員として頑張っていたんだけど、見栄とか威厳を守る為に必死になっている一般企業と変わらないことが見えてきて、何か虚しくなってしまってね。でも、なんとか考え切り替えて頑張ろうと思ったんだけどやっぱりダメだった。このまま居座って父に迷惑を掛ける訳にもいかないからね」
指先を見詰め悔しそうな表情を浮かべた。
「あっ、そうか、親父さんは最高検察庁の検事だったんだよね」
顔を上下に動かして納得していた。
「まぁ、そんな昔の話は置いといて、北川君の現状と元気な姿が見れて本当に嬉しいわ。それで、日本にはいつまで滞在しているの」
「ビジネスを兼ねて長期休暇を貰っていて、暫くは名古屋に滞在してから東京や大阪に向かうつもりだ。仕事の前に地元で懐かしい友人に会っておこうと思ってさ。加藤に藤井、宮園にも会うつもりだよ」
それぞれの懐かしい顔を頭に描いていた。
「北川君が会社勤めなんてね。政治家秘書になったって聞いた時も驚いたけど、外資系の大手企業とは言え会社員になるとは本当に意外だったわ」
少し冷めたコーヒーを手に大学時代の夢を語る北川の数々の言葉が蘇った。
「それはお互い様だろ。でも、どんな事情があったのかは敢えて聞かないけど、親父さんも期待していたんじゃないか。ああっ、そう言えば、朝比奈には自慢していた弟が居たんだよな。弟さんが親父さんの期待を背負っているから検事を辞めることにも反対しなかったんだな」
1人勝手に納得していた。
「いいえ、残念ながらその自慢の弟さんは、お父さんの期待の『キ』の字も叶えていませんよ」
先程コーヒーを運び近くのデスクに腰を下ろしていたパラリーガルの糸川美紀が2人の会話を聞いていて口を挟んだ。
「えっ、法律とは違う道を選んだのですか」
美紀の意外な言葉に驚いた。
「法律どころか、今は定職にも就かずにあれこれと色々なアルバイトをして食い繋ぐのが精一杯の状態よ」
腕を組み弟の顔を思い浮かべると眉間に皺を寄せた。
「朝比奈の弟なんだよな」
北川は耳を疑った。
「一応、大学卒業後に大手の製薬会社に努めたんだけれど、長続きしなくて何の相談もなく辞めてしまい今に至っているって感じ。まぁ、あいつの人生だから兎に角言うつもりはないけど、本当に迷惑だけは掛けないで欲しいと願っているわ」
そう言いながら嘆息を吐いた。
「そうなんだ。朝比奈からはいつも自慢されていたから、てっきり一緒の道を進むんだと思っていたのに、何かもったいないな」
代々法曹関係の家庭に育った人間の精一杯の反抗かもしれないと感じ取っていた。
「頭の回転も良く、学力的には優秀だったけど、性格がね・・・・・・」
何か意味を含む表現となった。
「まさか・・・・・・」
麗子の言葉に、弟のせいで検事を辞めたのではないのかと勝手に想像してしまった。
「あっ、いや、北川君が想像した様な悪事に手を染める人間じゃないわよ。ただちょっと人の意見に耳を貸さないというか、唯我独尊を貫くマイペース人間なのよ」
麗子は、北川が頭に描いた弟の姿を想像して答えた。
「唯我独尊・・・・・確か、釈迦が誕生した直後に立ち上がって七歩歩き、右手で天を、左手で大地を指差したまま『天上天下唯我独尊』と言い放ったことで有名なんだよな。唯我独尊かぁ、そんな弟さんに是非会ってみたいな」
麗子が手を焼くような弟に興味を抱いた。
「北川君、今夜の予定は何か入っている」
麗子が思いついたように尋ねた。
「できれば朝比奈と2人で、昔の話をツマミに酒でも飲めたらと勝手に思っていたんだけど、何か忙しそうだな」
麗子の机に山積みとなった書類の束を見ながら答えた。
「そうね、猫の手も借りたい状態で、せめてもう1人くらいは弁護士を雇いたいとおもって、色々な方面に手を回して探しては見たけど99,9に出てくるような、即戦力になる人物は現実的には皆無のようなんだよね。一から育ててる暇もないし、この事務所にも慣れている美紀ちゃんが今年の司法試験に合格することを切に願っているところよ。残念ながら今夜は付き合えないけど、代わりに美紀さんに一押しのちょっと変わったお店を案内してもらうわね」
麗子が振り向くと美紀がその言葉に頷いた。
「変わったお店か・・・・・ちょっと待ってよ、確か名古屋には犬や猫の肉、昆虫などの料理を出す店があるって話を聞いたことがあるだけど、そんな店じゃないよね」
話しながら想像して体を震わせた。
「まさか、そんなお店に連れてゆく訳ないでしょ。変わっているのは、和・洋・中のどんな料理も作ってくれるのよ。まぁ、行ってみれば分かるわよ。美紀さん今日はもういいから、北川君を案内してあげてね」
美紀は麗子の言葉に頷くと帰りの支度を始めた。
「それじゃ、また連絡するよ」
北川は立ち上がると麗子の頷く顔を確認して、美紀と一緒に事務所を後にした。美紀達が向かったのは、名古屋市の中心街の中規模ビルの一階にある『ゼア・イズ』と言うカフェバーだった。店の扉を引くと内側に取り付けられていた鈴が鳴り、店内に居たアルバイトスタッフが『いらっしゃいませ』と声を掛けた。
「えっ、あの女性は朝比奈先輩の彼女さんですよね」
声を掛けたスタッフの1人が、テーブルを拭いていた朝比奈の口元で呟き、慌てて顔を上げて男連れの美紀の姿を目にして驚いた。
「あっ、あの、僕が注文を聞いてきますよ」
朝比奈の気持ちを察して慌ててメニューを持って2人に近づいていった。朝比奈はその姿を見送った後、次に入って来たお客に対応する為にメニューと水を用意した。
「あの、朝比奈の話では、和・洋・中の料理が食べれるとの事なんだけど、メニューには酒のつまみ程度の品しか載っていないよね」
北川は手渡されたメニューを広げて美紀に尋ねた。
「この店はメニューに載っていない料理も、注文すればそれこそモルモットやカピバラの肉を使った料理でなければ作ってくれますよ」
疑わしい眼差しでメニューを見る北川に微笑んだ。
「ホントですか。それじゃ名古屋に戻ってきたから、ひつまぶしを頼んでもいいですか」
美紀を困らせようという訳ではなかったが、あの麗子の言葉とはいえ流石にカフェバーでひつまぶしは無理だろうとの気持ちだった。
「並盛りでいいですか」
「あっ、できれば大盛りで」
「分かりました」
北川の返事を待って、美紀はお客にコーヒーを運ぼうとしていた朝比奈に声を掛けた。
「あの、ひつまぶしの大盛りと並盛りを1つずつお願いします」
美紀は無表情で注文し、朝比奈も少し屈んで無表情で頷きメニューを受け取って小脇に挟むと、一旦間を空けてからゆっくりと歩き出すと、違うテーブルにコーヒーを置いてから厨房に戻って注文をマスターに告げた。
「えっ、本当にあるんですか。ひつまぶしですよ。メニューにも書かれていなかったから、いくらかかるのか分からないし」
注文した美紀にも驚いたが、当たり前のように注文を受けて立ち去った朝比奈の姿にに目を大きく見開いていた。
「マスターも先程のスタッフも料理の腕は良くて、レパートリーも多く大体の料理は作れるようなのです。値段も他の店に比べてもそんなに高くはなくて、常連さんの間では値段の割には美味しいと評判なんです」
得意気に少し胸を張った。
「糸川さんが自慢するくらいですから、ちょっと楽しみですね」
そう言いながらも、北川と美紀の姿を然りげ無く伺う男性の視線が気になった。
「私も始めて連れてきてもらった時には、メニューにも載っていない料理が出てきて本当に驚きました」
その時の情景が頭に浮かんできて、つい微笑んでしまった。
「名古屋にもこんな不思議な店があったんですね。地元に住んでいたのに全く知りませんでした。あっ、ちょっと連絡が入りましたので失礼します」
北川はポケットからスマホを取り出すと美紀に声を掛けて出口へと向かった。すると、朝比奈がコーヒーを運んだテーブル席に腰を下ろしていた男性が、飲んでいたコーヒーを口から戻して椅子から崩れ落ちた。呼吸をするのが苦しそうで喉元を抑えて痙攣をしているようだった。倒れたはずみに、コーヒーカップもテーブルから落ちて大きな音を発し、慌てて駆け寄った朝比奈の目には、喉元を必死にかき毟りながらもがいた後に、急に大人しくなった男性が写るだけだった。それでも朝比奈は男性を床に仰向けにし、呼吸と首筋で脈拍を確認した後で、他のスタッフに救急車と警察に連絡を取るように指示を出すと、集まりだした他の客を前にして心臓マッサージを始めたが、蘇生の効果もなく男性は息を引き取った。朝比奈は大勢の客が見守る中ゆっくりと立ち上がり、出口へと向かい店の扉の鍵を内側から掛け、厨房へと戻り料理などで使用するポリエチレン製の手袋を両手にはめて、もう一度倒れている男性の体に触れると、衣服の中をチェックし始めた。
「先輩、何しているんですか不味いですよ」
朝比奈の行動に気がついたスタッフの1人が慌てて駆け寄ったが、朝比奈はその言葉には反応しないで、ポケットの中から財布とスマホを取り出して調べ始めた。
「現金だけか・・・・・・」
財布の中身を確認した後、スマホと共に元の場所へと戻した。そして、暫くすると、救急車とパトカーのサイレンが聞こえ始め、次第にその音が大きくなると、朝比奈は店の扉の鍵を開けて駆け付けた救急隊員には既に亡くなっている事を告げ、警察関係者を先に中に入れた。
「こちらです。一応蘇生処置を行いましたが、そのかいもなく息を引き取られました」
白い手袋を手にしていた刑事と思われる人物を、朝比奈は入口から男性が倒れている場所まで案内した。
「それで、どんな状態で亡くなられたのか説明をお願いできますか」
手袋をはめて佐藤刑事が尋ねた。
「この席に座っていた男性が突然倒れられたようで、その物音を聞いて僕が駆け寄ったということです。倒れた直後はまだ少し息があり、弱かったのですが脈もありましたので、心臓マッサージをする為に仰向けにしました。ですので、倒れられた後は僕以外は誰も男性に触れていません」
朝比奈は横たわる遺体を指差した。
「あの、あなたが心臓マッサージをされたのですか」
佐藤刑事の後ろから顔を表した若手の刑事が質問した。
「はい、一応救急救命士の資格を持っていますので、その点は問題ないと思います」
刑事の質問の意図を察して言葉を返した。
「それでは念の為に皆さんにも事情をお聞きしますので、ご協力をお願いします」
店内に居たスタッフとお客を少し離れた場所に誘導し、『多分急性の心筋梗塞などによる病死だろう、俺達の出番じゃなかったな』佐藤は他の刑事に小声で呟くと、暗に形式的に話を聞いておくようにと指示した。
「まさか、『急性心筋梗塞だから適当に話を聞いとけ』なんて指示していませんよね。でも、そんな簡単な事件でしょうか。症状としては心筋梗塞に似てはいましたし、口元からもシアン化カリウムなど、青酸化合物の使用時に見られるアーモンド臭はしなかったけど、本当に病死で片付けてもいいでしょうか」
振り返った佐藤に朝比奈が声を掛けた。
「えっ、何言ってるんだ。被害者は1人で来店していたんだから、それ以外は考えられないだろう」
佐藤は年下の、それも店内のスタッフと思われる素人の指摘に憤慨して答えた。
「確かに病死の可能性も無くはないですが、色々な場合を想定して最低でも胃の内容物の検査だけでもしておいた方がいいと思いますよ。火葬なんてしたら、きっと後悔しますよ。まぁ、ご遺体の引き取り手が見付からなければ、火葬をすることもないでしょうけどね」
朝比奈は当然のように思ったことを口にした。
「それはどう言う意味でしょうか。説明してもらえませんか」
佐藤は朝比奈の言葉に空かさず反応した。
「いいえ、深い意味はありませんが、最初から決め付けるのではなく、色々な場合を想定して捜査した方がいいのではないかと感じただけです」
爽やかな笑顔と共に言葉を返した。
「あなたサスペンスドラマの見過ぎじゃないですか。人が亡くなると直ぐに事件だと騒ぎ立てるんですよ。もし、これが事件だとすると、店の中にいた人の中に殺人犯がいることになり、あなたもその犯人の1人ではないかと疑われることなるんですよ」
素人はこれだから困ると付け加えたかった。
「そう思われても仕方ないですね。もし仮に、この男性がコーヒーを飲んで亡くなったとすれば、当然その中に毒物が入っていたことになり、そのコーヒーを点てたマスターか運んだ僕が最も怪しくなるのですからね」
朝比奈はマスターを指差した。
「自分が何を言っているのか分かっているのですか」
佐藤の右手の人差し指が朝比奈に近付いた時、遺体を調べていた刑事が『主任』と声を発し、その手を止めて視線を移した。
「この男性、身分を表す物を何も持っていません。財布に現金はありましたが、免許証は勿論銀行のキャッシュカードやクレジットカードも無いんです」
立ち上がった刑事は佐藤の耳元で呟くように小さな声で伝えた。
「スマホも持っていないのか」
佐藤が聞き返した。
「スマホはありましたが、ロックが掛かっていて中身を見ることはできません」
当たり前の事実を返した。
「あなたは亡くなった男性をご存知なのですか」
佐藤は改めて聞き直した。
「いえ、今夜会うのが初めてです」
暫く考えてから答えた。
「分かりました。それでは署の方で詳しい話をお聞きしたいと思いますまで、ご同行いただけますでしょうか」
事件性があると決まった訳もなく、あくまでも任意であり佐藤は丁寧な言葉を使った。
「マスター、ちょっと出掛けてきます」
朝比奈は手を挙げてマスターに声を掛け頷く姿を確認すると、心配そうに見つめていた美紀に右手の親指を立てて見せると、胃の内容物を調べるようにと若手の刑事に指示を出した佐藤に寄り添われて出口へと向かい、覆面パトカーで管轄である中央署へと連れて行かれることになった。
「先ずはお名前を伺いましょうか」
テレビドラマでお馴染みのスチール机とパイプ椅子に向かい合って座った佐藤から声を掛けた。
「朝比奈優作、あの店のアルバイトリーダーです」
応接室ではなく取調室なんだという表情で、それでもどこか懐かしそうな表情で部屋の中を見渡した後で答えた。
「それで、どうしてあの男の死が病死ではないと言い張られるのでしょうか。その根拠と証拠を示していただけませんかね」
言葉は丁寧ではあったが、不快感が滲み出ていた。
「亡くなった男性は、年齢から考えても急に心筋梗塞などが発症したとは考えにくいと思われます。すると、持病として狭心症などの持病があったと考えられます。しかし、男性は消酸薬やカルシウム拮抗薬は勿論、発作を起こした時に使用するニトログリセリンも所持していなかったんじゃないですか」
朝比奈は左の顳かみを叩き海馬を刺激していた。
「ニトログリセリン・・・・・」
「はい、労作性狭心症の発作が起こった時に舌下する薬で、全身の静脈や動脈の筋肉を緩めて血管を拡張させるのです」
「随分詳しいですね」
益々疑いの目を向けた。
「今は、カフェバーのアルバイトリーダーをしていますが、大学卒業後は一応製薬会社に勤務していましたので、それくらいの知識はありますよ」
佐藤の視線を逸らして答えた。
「ちょっと待ってくださいよ。あなたはどうして男性が薬を持っていないこと知っているのですか」
朝比奈は気付かないと思っていたが、敵もさる者引っ掻くものとばかりに、決して見逃すことはなかった。
「あっ、それは、先程も言いましたが、もし男性がニトログリセリン等の処置薬を持っていたとすれば、直ぐに飲まさなければなりませんので僕も必死で探したんですよ」
真剣な表情を作って話した。
「それにしても・・・・・・」
意外に簡単に受け入れた。
「それにしても、素人が勝手なことをしてもらっては困りますね」
その言葉しか浮かなかった。
「はい、以後気を付けます」
意外な言葉に佐藤が呆気に取られていた。
「あのね。もし彼の死が病死でなく、例えば毒殺によるものだとすると、コーヒーを点てたマスターか、それを運んだあんたが犯人ということになるんですがね」
佐藤は朝比奈が現場で口にした言葉を再度繰り返した。相手のペースで進むこんな取り調べは初めてであった。
「それはどうでしょう。床に落ちて割れてしまったのですが、残っていたコーヒーの中から毒物が検出された場合はですよね。例えば、他の場所で毒物を摂取した可能性もあり、その毒が即効性のものではなく、時間が経って発症した可能性もありますよね」
どちらが調書を受けているのか分からない状態の時、取調室の扉が開いて先程の若い刑事が入ってきて、佐藤の耳元で小声で伝えた。
「えっ、胃の中からテトロドトキシンが検出されたのか」
佐藤はつい大きな声を発した。
「ああっ、テトロドトキシンでしたか。ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の細菌によって生産されるアルカロイドですね。一般的にはフグ毒として知られていて、トラフグやクサフグが有名ですが、アカハライモリ、ツムギハゼ、ヒョウモンダコ、スベスベマンジュウガニなど幾つかの生物もこの毒を持っています。致死量は2mg程度・・・・・そう言えば男性の症状は、コーヒーを嘔吐していて呼吸困難の後、暫くは心拍があったからその毒に因るものでしょう」
あの時の状況を思い出し納得していた。
「フグ毒か・・・・・しかし、男性はあの店で倒れたのだから、やはりコーヒーの中にその毒が入れられていたことになるな」
益々朝比奈が怪しく思えてきた。
「シアン化合物の様な即効性の毒物ではないので、毒の量にもよりますが摂取してから発症するまでに時間が掛かる場合もあります。ですから、残っていたコーヒーを調べた方がいいと助言したつもりですが、店のバイト君はそこまで気が付かないでしょうから、警察の指示が無ければ綺麗に掃除をしてしまい、その証拠は残っていないでしょうね」
残念そうに肩を落としてみせた。
「えっ、ちょっと待ってよ。もし、残されたコーヒーからもテトロドトキシンが検出されていれば、あんたかマスターが犯人と断定できた訳か・・・・でも、その可能性は否定できないんだよな。」
気を取り戻して言い返した。
「まあ、私的な付き合いまでは分かりませんが、僕の記憶の限りあの男性は初めての来店でしたので、僕は勿論ですが多分マスターも何処の誰だか知らない人物だと思います。それに、付け加えるとすれば、もし僕が犯人とすれば病死と判断しようとしている警察に、わざわざ事件性を匂わす忠告をしたんでしょうか」
佐藤との会話を楽しんでいるようであった。
「もしあなた達が本当に事件に関わっていなかったとすれば・・・・・・あの男性は何処かでフグ料理を食べてから店に来店し、その時に毒が体に回って亡くなってしまった」
そう言って佐藤が頭を捻っている時、他の刑事が取調室の扉を開けて入って来て、先程と同じように佐藤に伝言した。
「えーと、あなたの身元ははっきりとしているようですので、今夜はお帰りいただいて構いません。後日お話を伺うことがありましたら、その時はご協力をお願いします」
刑事の伝言に反応して手の平を返したように言い放った。
「ああっ、糸川美紀と言う女性から、僕の姉のことを聞いたのですね。もう少しお話して、できれば刑事さんの奢りでカツ丼でも食べたかったのですがとても残念です」
佐藤の態度を見て溜息を吐き、渋々取調室を出て行くことになった。エレベータで一階へ降りたところで美紀が朝比奈を待っていた。
「えっ、美紀、待っててくれたのか」
朝比奈の驚きの表情に『心配だったからでしょ』とそんなことも分からないのかと呆れ顔だった。
「無事に返されたってことは、疑いが晴れたってことなのよね」
安心はしていたものの、実際に朝比奈の姿を見てほっとしたのも事実であった。
「それはどうかな?美紀が姉さんの話したから、仕方なく開放したのが現実だろう。そんなことより、事件が起こる前に美紀と一緒に居た男が店の外に出ていただろう。警察には話してはいないけれど、美紀とはどんな関係なんだ」
自分のことより、美紀と一緒に居た男性が気になっていた。
「えっ、気になってたんた」
朝比奈の言葉に微笑んだ。
「あの男の人が倒れた時に店の外に出ていたし、そもそも美紀が男性と2人で来るなんて珍しいというか初めてのことだろ。一体どんな人物なんだよ」
朝比奈には珍しく焦って上手く呂律が回っていなかった。
「北川龍一さんと言って、日本人の父親とアメリカ人の間に生まれたハーフなの。誰かさんとは違って、東大法学部卒業の超エリートで、大学卒業後は財務省に入省して、今は外資系の大手企業に勤めているそうよ」
1度愛知県警から出ると、2人は美紀の誘導で近くにあったカフェへと向かった。
「東大法学部ってまさか・・・・・」
「そう、麗子先生の同期で、仕事の都合もあって帰国して友人と会う予定だそうよ」
「まさか姉さんが見合いを兼ねて会わせたんじゃないよな。俺に何の相談もなく」
朝比奈はカフェの入口で立ち止まった。
「さぁどうでしょう。でも、別に優作に相談することはないと思うけど」
美紀は強引に中へと連れ込んだ。
「しかしなぁ・・・・・・」
席に着くと改めて話し掛けた。
「定職にも就かない、今どんな仕事をしているのか何をしているかも話してもくれない、暇な時も誘ってもくれない・・・・・・そんなあなたに麗子先生も呆れて、気を使ってくれたのかもしれないわ」
美紀は勝手にコーヒーを2つ頼んでから答えた。
「ごめん。自業自得、俺自身が悪いのだから仕方ないよな」
運ばれたカップの中のコーヒーを見詰めながら呟くように言った。
「少しは反省できましたか?あの男性は先程も話したけど、ただ単に先生に会いに来ただけ。時間があれば何処かでお酒でもと思っていたようだったけど、麗子先生は今は仕事が溜まっていて忙しいので、私に夕食をご馳走するようにと依頼していただけなの。『ゼア・イズ』を指示したのも麗子先生で、多分優作を困らせようと考えたんじゃないのかな。でも、麗子先生を責めることはできないわよ。そもそも優作が悪いんだからね」
コーヒーを手に微笑んだ。
「えっ、なんだ、そうだったんだ。姉さんも酷いな」
安心したのも束の間、憎たらしい姉の顔が頭に浮かんだ。
「あのね、麗子先生を責めることはできないわよ。そもそも、優作が悪いんだからね」
「分かってるよ。でもその北川と言う男性は、事件が起こった時は店内に居なかったけど、何かあったのか」
朝比奈は話を変えて尋ねた。
「ああっ、それは彼に電話が掛かってきて、一旦外に出たけどその後あの男性が倒れ込んでしまって、優作が店の扉の鍵を閉めてしまったから、戻ってこられなかったのだと思う」
状況を思い出して答えた。
「そうか、事件に関わりたくないと、店には戻らず姿を消したって事なんだろう。ほんと、エリートは大変だな」
美紀の嫌味をブーメラン返しにした。
また、経済については、名古屋市のGDPは令和2年度で約13兆円となっていて、世界で言えば60位くらいの国に相当することになる。メイン産業は自動車・鉄道車両・航空部品などの製造業であるが、本社だけ名古屋市内に置いて工場だけを郊外に移転させた企業が多いので、製造品出荷額はそれ程多くはない。
そして、名古屋の企業は非常に堅実で、無借金経営・利益の内部保留を美徳としているという逸話がある程で、これは名古屋式経営と呼ばれ、バブル崩壊後の平成不況でも余り大きなダメージを負わなかったと言われている。
教育の面では、名古屋大学をはじめとして名古屋市内には多くの大学がキャンパスを置いている。特に最近では、都心回帰で市外から名古屋市内に本部を移行する大学や研究機関も多く、学術的にも重要な街でもある。
歴史については、名古屋市は古来より熱田神宮を中心に栄えていて、あの源頼朝も熱田で生まれていた。でも、京や大坂と比べるととても地味な場所であったけれど、徳川家康がまず五街道と宿場を整備して、熱田は東海道最大の宿場町となった。そして何といっても、続いて熱田大地に名古屋城を築城して尾張藩を置いたのが発展の始まりとなった。
尾張と聞くと織田信長が治めたと思われているが、信長が治めていた尾張の中心は熱田でなく清洲であり、家康は水害も多く平地なので守りにくい等多くの懸念材料がある清洲ではなくて、土地が高い名古屋に城を作って新たな都市として発展させることにした。この引越しを清洲越しと言い、城下町や町名も名古屋に移転させた。名古屋は家康の本拠地である三河の隣に位置していて、かなり思い入れがあったのかも知れない。
さらに江戸時代中期になると、第7代尾張藩主徳川宗春が名古屋城下に、無数の提灯配置して照らし、夜でも安全な街を作るなどの政策を施すと、そのお蔭で名古屋の街にも活気が戻り『名古屋の繁華に興(京)がさめた』と言わせた。
明治時代になると、廃藩置県によって名古屋県となった後愛知県となり、名古屋は県庁所在地となった。なお、現在の愛知県庁と名古屋市役所は国の重要文化財に指定されている。さらに、名古屋市には鉄道や日本で2番目の路面電車も敷設されどんどん近代化していった。特に名古屋でよく知られているのは、登録有形文化財で今は『中部電力MIRAITOWER』と名称を変更した、久屋大通にそびえ立つテレビ塔と100m道路。特に100m道路は戦後の都市計画で定められたもので、幅員が100mある道路のことで全国に3本有り、その内なんと2本が名古屋に有るのです。
そして、その発展した名古屋の中心は名古屋駅を省略した名駅と栄の2つが有り、名駅は名古屋駅周辺の高層ビルがそびえるオフィス街で、栄は名古屋城の城下町から続く古くからの中心地で、オフィス街の他にデパートやオアシス21を象徴とした歓楽街が広がっている。その名古屋市の中心部から少し東に行った所に位置する東区。そのオフィス街の一角にある、6階建てのビル内に朝比奈法律事務所がある。所長で弁護士の朝比奈麗子は、東京大学法学部に在籍中に司法試験と国家試験に合格し、検察庁に入庁し名古屋検察庁に勤務していたが、ある事件がきっかけで検事を辞めて弁護士に転身した、いわゆるヤメ検弁護士であった。そんな朝比奈麗子弁護士の所に大学時代の同期生である北川龍一が訪れていた。彼は、日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた日本生まれで中学までは日本で育ったハーフだった。ただ、父親の仕事の関係で、中学卒業後に渡米して4年が経過した時に、家族がアメリカから日本に戻ることになり、アメリカの大学から麗子と同じ東大の法学部に移り同期となったのであった。そして、負けず劣らずの人物で良い意味で競い合っていた仲でもあった。
「北川君と会うのは何年ぶりかな」
テーブルを挟んで腰掛けた麗子が懐かしそうな表情で北川を見ていた。
「大学を卒業してから2年目の同窓会で会って以来かな。朝比奈は検察庁に入庁して忙しかった様で、それ以来同窓会には出ていなかったみたいだからな。でも、まさか弁護士になっていたなんて驚いたよ」
出されたコーヒーカップを手に頭を傾げた。
「まぁ、色々あってね。確か北川君は、数年前に今の法務大臣の今村議員の公設秘書になる為に財務省を辞めたって聞いたけど、エリートコースを諦めてまで選ぶ仕事なのかな。まさか、政治家になるつもりじゃないよね」
麗子は腕を組んで頭の中にその姿を想像しながら尋ねた。
「誰から聞いた話なのか知らないけど、公設秘書というのは間違いで、今はニューランドリーという外資系の会社に勤めているんだよ。親父と今村大臣は大学の同級生で家も近かったから家族ぐるみで付き合っていたから、そんな噂になってしまったのかもしれないね。でも、政治に全く興味がない訳じゃないから、今村大臣の地盤を引き継いで国会議員になるのも良いかもね」
少しおどけて言葉を返した。
「確か、今村大臣にはお子さんが無かったはずだから、可能性が全く無い訳じゃないわよね。将来、会った時には北川先生と呼ばなくちゃいけないかもね」
どうかよろしくとばかりに頭を下げた。
「そんなこと言って、朝比奈のことだから身分や肩書きなんて全く気にしないんだろ。多分そのせいで、検事を辞めさせられたんじゃないのか」
上司と口論し合う姿が頭に浮かんだ。
「まぁ、ご想像にお任せします。そう言えば北川君が勤めているニューランドリーって、確かアメリカでも5本の指に入る会社で、日本で言えば四菱重工の様に自転車から戦闘機まで扱っている巨大企業だよね。まぁ、北川君の実力なら勿論会社としても大喜びだろうけれど、外資系の企業か・・・・・・巨大企業だとしても、何かもったいない気がするな。北川君なら財務省で出世して、政治家に反抗してでも日本経済を守る役人になってくれると思っていたんだけどな」
競い合った大学時代を思い出していた。
「ちょっと評価しすぎだ。僕より優秀だった朝比奈が、検事を辞めてこんな小さな弁護士事務所にいることの方が、余程もったいないことだと思うよ。あれ程検事に対して自信と誇りを持っていた朝比奈だったから、友人から話を聞いた時には顎が外れそうになったよ」
大袈裟なゼスチャーを交えて答えた。
「そうね、三権分立の検察の一員として頑張っていたんだけど、見栄とか威厳を守る為に必死になっている一般企業と変わらないことが見えてきて、何か虚しくなってしまってね。でも、なんとか考え切り替えて頑張ろうと思ったんだけどやっぱりダメだった。このまま居座って父に迷惑を掛ける訳にもいかないからね」
指先を見詰め悔しそうな表情を浮かべた。
「あっ、そうか、親父さんは最高検察庁の検事だったんだよね」
顔を上下に動かして納得していた。
「まぁ、そんな昔の話は置いといて、北川君の現状と元気な姿が見れて本当に嬉しいわ。それで、日本にはいつまで滞在しているの」
「ビジネスを兼ねて長期休暇を貰っていて、暫くは名古屋に滞在してから東京や大阪に向かうつもりだ。仕事の前に地元で懐かしい友人に会っておこうと思ってさ。加藤に藤井、宮園にも会うつもりだよ」
それぞれの懐かしい顔を頭に描いていた。
「北川君が会社勤めなんてね。政治家秘書になったって聞いた時も驚いたけど、外資系の大手企業とは言え会社員になるとは本当に意外だったわ」
少し冷めたコーヒーを手に大学時代の夢を語る北川の数々の言葉が蘇った。
「それはお互い様だろ。でも、どんな事情があったのかは敢えて聞かないけど、親父さんも期待していたんじゃないか。ああっ、そう言えば、朝比奈には自慢していた弟が居たんだよな。弟さんが親父さんの期待を背負っているから検事を辞めることにも反対しなかったんだな」
1人勝手に納得していた。
「いいえ、残念ながらその自慢の弟さんは、お父さんの期待の『キ』の字も叶えていませんよ」
先程コーヒーを運び近くのデスクに腰を下ろしていたパラリーガルの糸川美紀が2人の会話を聞いていて口を挟んだ。
「えっ、法律とは違う道を選んだのですか」
美紀の意外な言葉に驚いた。
「法律どころか、今は定職にも就かずにあれこれと色々なアルバイトをして食い繋ぐのが精一杯の状態よ」
腕を組み弟の顔を思い浮かべると眉間に皺を寄せた。
「朝比奈の弟なんだよな」
北川は耳を疑った。
「一応、大学卒業後に大手の製薬会社に努めたんだけれど、長続きしなくて何の相談もなく辞めてしまい今に至っているって感じ。まぁ、あいつの人生だから兎に角言うつもりはないけど、本当に迷惑だけは掛けないで欲しいと願っているわ」
そう言いながら嘆息を吐いた。
「そうなんだ。朝比奈からはいつも自慢されていたから、てっきり一緒の道を進むんだと思っていたのに、何かもったいないな」
代々法曹関係の家庭に育った人間の精一杯の反抗かもしれないと感じ取っていた。
「頭の回転も良く、学力的には優秀だったけど、性格がね・・・・・・」
何か意味を含む表現となった。
「まさか・・・・・・」
麗子の言葉に、弟のせいで検事を辞めたのではないのかと勝手に想像してしまった。
「あっ、いや、北川君が想像した様な悪事に手を染める人間じゃないわよ。ただちょっと人の意見に耳を貸さないというか、唯我独尊を貫くマイペース人間なのよ」
麗子は、北川が頭に描いた弟の姿を想像して答えた。
「唯我独尊・・・・・確か、釈迦が誕生した直後に立ち上がって七歩歩き、右手で天を、左手で大地を指差したまま『天上天下唯我独尊』と言い放ったことで有名なんだよな。唯我独尊かぁ、そんな弟さんに是非会ってみたいな」
麗子が手を焼くような弟に興味を抱いた。
「北川君、今夜の予定は何か入っている」
麗子が思いついたように尋ねた。
「できれば朝比奈と2人で、昔の話をツマミに酒でも飲めたらと勝手に思っていたんだけど、何か忙しそうだな」
麗子の机に山積みとなった書類の束を見ながら答えた。
「そうね、猫の手も借りたい状態で、せめてもう1人くらいは弁護士を雇いたいとおもって、色々な方面に手を回して探しては見たけど99,9に出てくるような、即戦力になる人物は現実的には皆無のようなんだよね。一から育ててる暇もないし、この事務所にも慣れている美紀ちゃんが今年の司法試験に合格することを切に願っているところよ。残念ながら今夜は付き合えないけど、代わりに美紀さんに一押しのちょっと変わったお店を案内してもらうわね」
麗子が振り向くと美紀がその言葉に頷いた。
「変わったお店か・・・・・ちょっと待ってよ、確か名古屋には犬や猫の肉、昆虫などの料理を出す店があるって話を聞いたことがあるだけど、そんな店じゃないよね」
話しながら想像して体を震わせた。
「まさか、そんなお店に連れてゆく訳ないでしょ。変わっているのは、和・洋・中のどんな料理も作ってくれるのよ。まぁ、行ってみれば分かるわよ。美紀さん今日はもういいから、北川君を案内してあげてね」
美紀は麗子の言葉に頷くと帰りの支度を始めた。
「それじゃ、また連絡するよ」
北川は立ち上がると麗子の頷く顔を確認して、美紀と一緒に事務所を後にした。美紀達が向かったのは、名古屋市の中心街の中規模ビルの一階にある『ゼア・イズ』と言うカフェバーだった。店の扉を引くと内側に取り付けられていた鈴が鳴り、店内に居たアルバイトスタッフが『いらっしゃいませ』と声を掛けた。
「えっ、あの女性は朝比奈先輩の彼女さんですよね」
声を掛けたスタッフの1人が、テーブルを拭いていた朝比奈の口元で呟き、慌てて顔を上げて男連れの美紀の姿を目にして驚いた。
「あっ、あの、僕が注文を聞いてきますよ」
朝比奈の気持ちを察して慌ててメニューを持って2人に近づいていった。朝比奈はその姿を見送った後、次に入って来たお客に対応する為にメニューと水を用意した。
「あの、朝比奈の話では、和・洋・中の料理が食べれるとの事なんだけど、メニューには酒のつまみ程度の品しか載っていないよね」
北川は手渡されたメニューを広げて美紀に尋ねた。
「この店はメニューに載っていない料理も、注文すればそれこそモルモットやカピバラの肉を使った料理でなければ作ってくれますよ」
疑わしい眼差しでメニューを見る北川に微笑んだ。
「ホントですか。それじゃ名古屋に戻ってきたから、ひつまぶしを頼んでもいいですか」
美紀を困らせようという訳ではなかったが、あの麗子の言葉とはいえ流石にカフェバーでひつまぶしは無理だろうとの気持ちだった。
「並盛りでいいですか」
「あっ、できれば大盛りで」
「分かりました」
北川の返事を待って、美紀はお客にコーヒーを運ぼうとしていた朝比奈に声を掛けた。
「あの、ひつまぶしの大盛りと並盛りを1つずつお願いします」
美紀は無表情で注文し、朝比奈も少し屈んで無表情で頷きメニューを受け取って小脇に挟むと、一旦間を空けてからゆっくりと歩き出すと、違うテーブルにコーヒーを置いてから厨房に戻って注文をマスターに告げた。
「えっ、本当にあるんですか。ひつまぶしですよ。メニューにも書かれていなかったから、いくらかかるのか分からないし」
注文した美紀にも驚いたが、当たり前のように注文を受けて立ち去った朝比奈の姿にに目を大きく見開いていた。
「マスターも先程のスタッフも料理の腕は良くて、レパートリーも多く大体の料理は作れるようなのです。値段も他の店に比べてもそんなに高くはなくて、常連さんの間では値段の割には美味しいと評判なんです」
得意気に少し胸を張った。
「糸川さんが自慢するくらいですから、ちょっと楽しみですね」
そう言いながらも、北川と美紀の姿を然りげ無く伺う男性の視線が気になった。
「私も始めて連れてきてもらった時には、メニューにも載っていない料理が出てきて本当に驚きました」
その時の情景が頭に浮かんできて、つい微笑んでしまった。
「名古屋にもこんな不思議な店があったんですね。地元に住んでいたのに全く知りませんでした。あっ、ちょっと連絡が入りましたので失礼します」
北川はポケットからスマホを取り出すと美紀に声を掛けて出口へと向かった。すると、朝比奈がコーヒーを運んだテーブル席に腰を下ろしていた男性が、飲んでいたコーヒーを口から戻して椅子から崩れ落ちた。呼吸をするのが苦しそうで喉元を抑えて痙攣をしているようだった。倒れたはずみに、コーヒーカップもテーブルから落ちて大きな音を発し、慌てて駆け寄った朝比奈の目には、喉元を必死にかき毟りながらもがいた後に、急に大人しくなった男性が写るだけだった。それでも朝比奈は男性を床に仰向けにし、呼吸と首筋で脈拍を確認した後で、他のスタッフに救急車と警察に連絡を取るように指示を出すと、集まりだした他の客を前にして心臓マッサージを始めたが、蘇生の効果もなく男性は息を引き取った。朝比奈は大勢の客が見守る中ゆっくりと立ち上がり、出口へと向かい店の扉の鍵を内側から掛け、厨房へと戻り料理などで使用するポリエチレン製の手袋を両手にはめて、もう一度倒れている男性の体に触れると、衣服の中をチェックし始めた。
「先輩、何しているんですか不味いですよ」
朝比奈の行動に気がついたスタッフの1人が慌てて駆け寄ったが、朝比奈はその言葉には反応しないで、ポケットの中から財布とスマホを取り出して調べ始めた。
「現金だけか・・・・・・」
財布の中身を確認した後、スマホと共に元の場所へと戻した。そして、暫くすると、救急車とパトカーのサイレンが聞こえ始め、次第にその音が大きくなると、朝比奈は店の扉の鍵を開けて駆け付けた救急隊員には既に亡くなっている事を告げ、警察関係者を先に中に入れた。
「こちらです。一応蘇生処置を行いましたが、そのかいもなく息を引き取られました」
白い手袋を手にしていた刑事と思われる人物を、朝比奈は入口から男性が倒れている場所まで案内した。
「それで、どんな状態で亡くなられたのか説明をお願いできますか」
手袋をはめて佐藤刑事が尋ねた。
「この席に座っていた男性が突然倒れられたようで、その物音を聞いて僕が駆け寄ったということです。倒れた直後はまだ少し息があり、弱かったのですが脈もありましたので、心臓マッサージをする為に仰向けにしました。ですので、倒れられた後は僕以外は誰も男性に触れていません」
朝比奈は横たわる遺体を指差した。
「あの、あなたが心臓マッサージをされたのですか」
佐藤刑事の後ろから顔を表した若手の刑事が質問した。
「はい、一応救急救命士の資格を持っていますので、その点は問題ないと思います」
刑事の質問の意図を察して言葉を返した。
「それでは念の為に皆さんにも事情をお聞きしますので、ご協力をお願いします」
店内に居たスタッフとお客を少し離れた場所に誘導し、『多分急性の心筋梗塞などによる病死だろう、俺達の出番じゃなかったな』佐藤は他の刑事に小声で呟くと、暗に形式的に話を聞いておくようにと指示した。
「まさか、『急性心筋梗塞だから適当に話を聞いとけ』なんて指示していませんよね。でも、そんな簡単な事件でしょうか。症状としては心筋梗塞に似てはいましたし、口元からもシアン化カリウムなど、青酸化合物の使用時に見られるアーモンド臭はしなかったけど、本当に病死で片付けてもいいでしょうか」
振り返った佐藤に朝比奈が声を掛けた。
「えっ、何言ってるんだ。被害者は1人で来店していたんだから、それ以外は考えられないだろう」
佐藤は年下の、それも店内のスタッフと思われる素人の指摘に憤慨して答えた。
「確かに病死の可能性も無くはないですが、色々な場合を想定して最低でも胃の内容物の検査だけでもしておいた方がいいと思いますよ。火葬なんてしたら、きっと後悔しますよ。まぁ、ご遺体の引き取り手が見付からなければ、火葬をすることもないでしょうけどね」
朝比奈は当然のように思ったことを口にした。
「それはどう言う意味でしょうか。説明してもらえませんか」
佐藤は朝比奈の言葉に空かさず反応した。
「いいえ、深い意味はありませんが、最初から決め付けるのではなく、色々な場合を想定して捜査した方がいいのではないかと感じただけです」
爽やかな笑顔と共に言葉を返した。
「あなたサスペンスドラマの見過ぎじゃないですか。人が亡くなると直ぐに事件だと騒ぎ立てるんですよ。もし、これが事件だとすると、店の中にいた人の中に殺人犯がいることになり、あなたもその犯人の1人ではないかと疑われることなるんですよ」
素人はこれだから困ると付け加えたかった。
「そう思われても仕方ないですね。もし仮に、この男性がコーヒーを飲んで亡くなったとすれば、当然その中に毒物が入っていたことになり、そのコーヒーを点てたマスターか運んだ僕が最も怪しくなるのですからね」
朝比奈はマスターを指差した。
「自分が何を言っているのか分かっているのですか」
佐藤の右手の人差し指が朝比奈に近付いた時、遺体を調べていた刑事が『主任』と声を発し、その手を止めて視線を移した。
「この男性、身分を表す物を何も持っていません。財布に現金はありましたが、免許証は勿論銀行のキャッシュカードやクレジットカードも無いんです」
立ち上がった刑事は佐藤の耳元で呟くように小さな声で伝えた。
「スマホも持っていないのか」
佐藤が聞き返した。
「スマホはありましたが、ロックが掛かっていて中身を見ることはできません」
当たり前の事実を返した。
「あなたは亡くなった男性をご存知なのですか」
佐藤は改めて聞き直した。
「いえ、今夜会うのが初めてです」
暫く考えてから答えた。
「分かりました。それでは署の方で詳しい話をお聞きしたいと思いますまで、ご同行いただけますでしょうか」
事件性があると決まった訳もなく、あくまでも任意であり佐藤は丁寧な言葉を使った。
「マスター、ちょっと出掛けてきます」
朝比奈は手を挙げてマスターに声を掛け頷く姿を確認すると、心配そうに見つめていた美紀に右手の親指を立てて見せると、胃の内容物を調べるようにと若手の刑事に指示を出した佐藤に寄り添われて出口へと向かい、覆面パトカーで管轄である中央署へと連れて行かれることになった。
「先ずはお名前を伺いましょうか」
テレビドラマでお馴染みのスチール机とパイプ椅子に向かい合って座った佐藤から声を掛けた。
「朝比奈優作、あの店のアルバイトリーダーです」
応接室ではなく取調室なんだという表情で、それでもどこか懐かしそうな表情で部屋の中を見渡した後で答えた。
「それで、どうしてあの男の死が病死ではないと言い張られるのでしょうか。その根拠と証拠を示していただけませんかね」
言葉は丁寧ではあったが、不快感が滲み出ていた。
「亡くなった男性は、年齢から考えても急に心筋梗塞などが発症したとは考えにくいと思われます。すると、持病として狭心症などの持病があったと考えられます。しかし、男性は消酸薬やカルシウム拮抗薬は勿論、発作を起こした時に使用するニトログリセリンも所持していなかったんじゃないですか」
朝比奈は左の顳かみを叩き海馬を刺激していた。
「ニトログリセリン・・・・・」
「はい、労作性狭心症の発作が起こった時に舌下する薬で、全身の静脈や動脈の筋肉を緩めて血管を拡張させるのです」
「随分詳しいですね」
益々疑いの目を向けた。
「今は、カフェバーのアルバイトリーダーをしていますが、大学卒業後は一応製薬会社に勤務していましたので、それくらいの知識はありますよ」
佐藤の視線を逸らして答えた。
「ちょっと待ってくださいよ。あなたはどうして男性が薬を持っていないこと知っているのですか」
朝比奈は気付かないと思っていたが、敵もさる者引っ掻くものとばかりに、決して見逃すことはなかった。
「あっ、それは、先程も言いましたが、もし男性がニトログリセリン等の処置薬を持っていたとすれば、直ぐに飲まさなければなりませんので僕も必死で探したんですよ」
真剣な表情を作って話した。
「それにしても・・・・・・」
意外に簡単に受け入れた。
「それにしても、素人が勝手なことをしてもらっては困りますね」
その言葉しか浮かなかった。
「はい、以後気を付けます」
意外な言葉に佐藤が呆気に取られていた。
「あのね。もし彼の死が病死でなく、例えば毒殺によるものだとすると、コーヒーを点てたマスターか、それを運んだあんたが犯人ということになるんですがね」
佐藤は朝比奈が現場で口にした言葉を再度繰り返した。相手のペースで進むこんな取り調べは初めてであった。
「それはどうでしょう。床に落ちて割れてしまったのですが、残っていたコーヒーの中から毒物が検出された場合はですよね。例えば、他の場所で毒物を摂取した可能性もあり、その毒が即効性のものではなく、時間が経って発症した可能性もありますよね」
どちらが調書を受けているのか分からない状態の時、取調室の扉が開いて先程の若い刑事が入ってきて、佐藤の耳元で小声で伝えた。
「えっ、胃の中からテトロドトキシンが検出されたのか」
佐藤はつい大きな声を発した。
「ああっ、テトロドトキシンでしたか。ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の細菌によって生産されるアルカロイドですね。一般的にはフグ毒として知られていて、トラフグやクサフグが有名ですが、アカハライモリ、ツムギハゼ、ヒョウモンダコ、スベスベマンジュウガニなど幾つかの生物もこの毒を持っています。致死量は2mg程度・・・・・そう言えば男性の症状は、コーヒーを嘔吐していて呼吸困難の後、暫くは心拍があったからその毒に因るものでしょう」
あの時の状況を思い出し納得していた。
「フグ毒か・・・・・しかし、男性はあの店で倒れたのだから、やはりコーヒーの中にその毒が入れられていたことになるな」
益々朝比奈が怪しく思えてきた。
「シアン化合物の様な即効性の毒物ではないので、毒の量にもよりますが摂取してから発症するまでに時間が掛かる場合もあります。ですから、残っていたコーヒーを調べた方がいいと助言したつもりですが、店のバイト君はそこまで気が付かないでしょうから、警察の指示が無ければ綺麗に掃除をしてしまい、その証拠は残っていないでしょうね」
残念そうに肩を落としてみせた。
「えっ、ちょっと待ってよ。もし、残されたコーヒーからもテトロドトキシンが検出されていれば、あんたかマスターが犯人と断定できた訳か・・・・でも、その可能性は否定できないんだよな。」
気を取り戻して言い返した。
「まあ、私的な付き合いまでは分かりませんが、僕の記憶の限りあの男性は初めての来店でしたので、僕は勿論ですが多分マスターも何処の誰だか知らない人物だと思います。それに、付け加えるとすれば、もし僕が犯人とすれば病死と判断しようとしている警察に、わざわざ事件性を匂わす忠告をしたんでしょうか」
佐藤との会話を楽しんでいるようであった。
「もしあなた達が本当に事件に関わっていなかったとすれば・・・・・・あの男性は何処かでフグ料理を食べてから店に来店し、その時に毒が体に回って亡くなってしまった」
そう言って佐藤が頭を捻っている時、他の刑事が取調室の扉を開けて入って来て、先程と同じように佐藤に伝言した。
「えーと、あなたの身元ははっきりとしているようですので、今夜はお帰りいただいて構いません。後日お話を伺うことがありましたら、その時はご協力をお願いします」
刑事の伝言に反応して手の平を返したように言い放った。
「ああっ、糸川美紀と言う女性から、僕の姉のことを聞いたのですね。もう少しお話して、できれば刑事さんの奢りでカツ丼でも食べたかったのですがとても残念です」
佐藤の態度を見て溜息を吐き、渋々取調室を出て行くことになった。エレベータで一階へ降りたところで美紀が朝比奈を待っていた。
「えっ、美紀、待っててくれたのか」
朝比奈の驚きの表情に『心配だったからでしょ』とそんなことも分からないのかと呆れ顔だった。
「無事に返されたってことは、疑いが晴れたってことなのよね」
安心はしていたものの、実際に朝比奈の姿を見てほっとしたのも事実であった。
「それはどうかな?美紀が姉さんの話したから、仕方なく開放したのが現実だろう。そんなことより、事件が起こる前に美紀と一緒に居た男が店の外に出ていただろう。警察には話してはいないけれど、美紀とはどんな関係なんだ」
自分のことより、美紀と一緒に居た男性が気になっていた。
「えっ、気になってたんた」
朝比奈の言葉に微笑んだ。
「あの男の人が倒れた時に店の外に出ていたし、そもそも美紀が男性と2人で来るなんて珍しいというか初めてのことだろ。一体どんな人物なんだよ」
朝比奈には珍しく焦って上手く呂律が回っていなかった。
「北川龍一さんと言って、日本人の父親とアメリカ人の間に生まれたハーフなの。誰かさんとは違って、東大法学部卒業の超エリートで、大学卒業後は財務省に入省して、今は外資系の大手企業に勤めているそうよ」
1度愛知県警から出ると、2人は美紀の誘導で近くにあったカフェへと向かった。
「東大法学部ってまさか・・・・・」
「そう、麗子先生の同期で、仕事の都合もあって帰国して友人と会う予定だそうよ」
「まさか姉さんが見合いを兼ねて会わせたんじゃないよな。俺に何の相談もなく」
朝比奈はカフェの入口で立ち止まった。
「さぁどうでしょう。でも、別に優作に相談することはないと思うけど」
美紀は強引に中へと連れ込んだ。
「しかしなぁ・・・・・・」
席に着くと改めて話し掛けた。
「定職にも就かない、今どんな仕事をしているのか何をしているかも話してもくれない、暇な時も誘ってもくれない・・・・・・そんなあなたに麗子先生も呆れて、気を使ってくれたのかもしれないわ」
美紀は勝手にコーヒーを2つ頼んでから答えた。
「ごめん。自業自得、俺自身が悪いのだから仕方ないよな」
運ばれたカップの中のコーヒーを見詰めながら呟くように言った。
「少しは反省できましたか?あの男性は先程も話したけど、ただ単に先生に会いに来ただけ。時間があれば何処かでお酒でもと思っていたようだったけど、麗子先生は今は仕事が溜まっていて忙しいので、私に夕食をご馳走するようにと依頼していただけなの。『ゼア・イズ』を指示したのも麗子先生で、多分優作を困らせようと考えたんじゃないのかな。でも、麗子先生を責めることはできないわよ。そもそも優作が悪いんだからね」
コーヒーを手に微笑んだ。
「えっ、なんだ、そうだったんだ。姉さんも酷いな」
安心したのも束の間、憎たらしい姉の顔が頭に浮かんだ。
「あのね、麗子先生を責めることはできないわよ。そもそも、優作が悪いんだからね」
「分かってるよ。でもその北川と言う男性は、事件が起こった時は店内に居なかったけど、何かあったのか」
朝比奈は話を変えて尋ねた。
「ああっ、それは彼に電話が掛かってきて、一旦外に出たけどその後あの男性が倒れ込んでしまって、優作が店の扉の鍵を閉めてしまったから、戻ってこられなかったのだと思う」
状況を思い出して答えた。
「そうか、事件に関わりたくないと、店には戻らず姿を消したって事なんだろう。ほんと、エリートは大変だな」
美紀の嫌味をブーメラン返しにした。
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だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
蒼穹の裏方
Flight_kj
SF
日本海軍のエンジンを中心とする航空技術開発のやり直し
未来の知識を有する主人公が、海軍機の開発のメッカ、空技廠でエンジンを中心として、武装や防弾にも口出しして航空機の開発をやり直す。性能の良いエンジンができれば、必然的に航空機も優れた機体となる。加えて、日本が遅れていた電子機器も知識を生かして開発を加速してゆく。それらを利用して如何に海軍は戦ってゆくのか?未来の知識を基にして、どのような戦いが可能になるのか?航空機に関連する開発を中心とした物語。カクヨムにも投稿しています。
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