RECTOR 〜歌で戦う者たち〜

あんこ

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 足元ばかりを見ていた
 前に進む理由も知らないまま

マイクを握った指先だけがやけに現実的だった。
冷たい金属の感触。手のひらに伝わる微かな振動。

息を吸う。
声を出そうと意識する前に、音が立ち上がった。

喉を強く使った感覚はない。力を込めたつもりもない。それなのに声は自然に伸びていく。

ーーあれ。

自分の声なのに遠くまで届いている感覚があった。
無理に張り上げていない。震えてもいない。
ただ、まっすぐに場に溶けていく。

これもマイクの力なのだろうか。

頭の中は緊張の熱で満ちていた。心臓は早鐘を打っている、それでもどこか冷静だった。

考えすぎない。上手くやろうとしない。それだけを考えて。ただ、歌い続ける。

『……ノイズ、来ます!』

通信が割り込む。

『崩落建造物の裏から反応多数!』

視線を上げた瞬間、理解した。
黒い影。形を保てないまま蠢く“それ”がいくつも確認できた。

『下位ノイズ、数十体!中規模です!』

そんな数、一般人がどうにかできる相手じゃない。
分かっている。分かっているのに。

でも。“あの数値”。
ログに残った異常。理解不能と切り捨てられた反応。
管制室の人間ははそれを信じるしかなかった。
頼む。どうか。祈りだけが渦を巻く。


こんなに近くでノイズを見るのは、初めてだった。
テレビ越しに見たことはある。ニュース映像の中で、遠くの街を覆っていた黒い靄。どこか現実感のない存在で、自分とは無関係のものだと思っていた。

なのに、数メートル先にそれはいる。
輪郭の定まらない個体。靄が人の形を真似ているだけの不完全な存在。近いはずなのに、不思議と強い恐怖は湧いてこなかった。

理由は分からない。
ただ、逃げたいとは思わなかった。

それよりも。イオはちらりと視線を逸らす。
地面に倒れたままの堂島と呼ばれていた男。

荒い呼吸。無理に動こうとすれば、さらに状態が悪化するのは明らかだった。

――早く、助けないと。

その思いだけが胸いっぱいに広がる。
視線に気づいたのか、堂島がこちらを見る。
心配そうなでもどこか覚悟を決めた目。

イオは、思わず微笑んでいた。

大丈夫ですよ。
"一緒に"助かりましょう。

言葉にはしなかった。ただ、その気持ちを込めただけだった。堂島がはっとしたように目を見開く。

おかしいかな。そりゃそうか。これだけのノイズを前に、笑っているんだから。

でも、不思議なことに負ける気がしなかった。
胸の奥が、じんわりと熱い。強気、と言うほど荒々しくない。ただ確信に近い感覚。

だってこの曲がある。
STELLAが、 いつだって背中を押してくれた曲。
勇気が欲しい時。前を向けなくなった時。
何度も、何度も救われてきた。

その記憶が、今、確かに自分を支えている。
イオは前を向く。すぐそこまで迫ったノイズ。
靄の奥から伸びる歪んだ腕。

どうか。

ーー消えて

その思いを声に乗せる。
叫ばない。叩きつけない。ただ、丁寧に。
次の瞬間。

ノイズの輪郭が、ふっと揺らいだ。
靄が薄れる。存在感が、抜け落ちる。
霧が朝日に溶けるみたいに、一体、また一体と、形を失っていく。

『……』

管制室が、一瞬沈黙する。

そして。

『下位ノイズ反応、急減しています』

抑えきれない動揺。

『現在、七体……五……』

数が、みるみる減っていく。

『――確認。戦闘圏内の下位ノイズ、消失』

短い間。

『全反応、沈静化。現区域、制圧完了』

その宣言と同時に、戦場だったはずの空間から緊張が抜け落ちた。

イオの歌はそこでようやく終わった。音が消えても、余韻だけが残る。堂島が呆然としたままこちらを見る。イオは、マイクを握りしめたまま静かに息を吐いた。

――生き残れた。

その実感が、遅れて胸に落ちてきた。

安堵のため息をついていると、通信回線の向こうがざわつき始めたのが伝わる。

『今の、ログ確認した?』

『歌唱波形とノイズ消失、完全に同期してる』

『初回起動だぞ。認証も、訓練履歴もなしだ』

抑えた声が重なり、整理されない言葉が飛び交う。
誰も騒いではいない。だからこそ、異常だと分かる。

『下位ノイズ残留反応、ゼロ。再スキャン、異常なし……現区域、制圧完了、確かです』

その言葉が落ちた瞬間、管制室の空気が変わった。
安堵ではない。理解が追いついていない時に生まれる、静けさだった。

現場では、堂島がゆっくりと息を吐いていた。
荒かった呼吸がようやく落ち着く。

そして、イオを見る。

「……なあ」

声は低く、まだ少し震えている。

「今の、見間違いじゃないよな」

イオは答えなかった。どう答えればいいのか、自分でも分からなかったからだ。

堂島は続ける。

「歌唱対応は何度も見てきた。研修生も、正式部隊もだ」

少し言葉を探すように視線を伏せる。

「だがな、攻撃部隊との連携なしで、あの数を一人で撃破した例は俺は知らない」

重い沈黙。

「イオ。お前、一体――」

言いかけて顔を上げると堂島は言葉を切った。
眉を寄せ小さく首を振る。

「……いや、違うな。悪い」

一度、深く息を吐く。

「怖がらせるつもりはなかった」

そう言ってから、今度ははっきりとイオを見る。

「助かった。ありがとう」

堂島は、できる範囲で上体を起こし短く頭を下げた。その動きにイオは慌てて前に出る。

「や、やめてください!」

声が少し裏返る。

「怪我に触りますし、それに……」

言葉を探しながら、必死に続ける。

「感謝されるようなこと、してません。ただ……」

一瞬、視線を落としてから、まっすぐに言った。

「"一緒に"、あの場から生き延びたかっただけです」

それだけだった。
堂島はしばらく黙ってイオを見ていたが、やがて小さく笑った。

「……強いな」

力を誇る強さではない。折れない、という意味での言葉だった。


その時だった。足音が複数重なって近づいてくる。

「堂島さーん!」

半泣きの声と一緒に、自分と同い年くらいの少年が駆け寄ってくる。

「現在地不明って聞いた時は、ほんとどうしようかと思いましたよ……!」

勢いそのままに、堂島に抱きつく。

「おい、重ぇ……」

その隣では、背筋を伸ばしたもう一人の少年が腕を組んでいた。

「まったく。ほんとドジなんですから、あなたは」

冷静で、きっぱりした声。

「うるせえな。もうちょっと静かにできねえのかよ」

堂島が吐き捨てるように言う。

「イオみたいに」

一瞬の沈黙。

「「……イオ?」」

二人の視線が同時にこちらを向いた。
さっきまで心配そうだった顔が、瞬時に変わる。

「はあ?」

「何、下の名前で呼ばれてんの?」

「ていうか、あんた誰?」

鬼の形相。空気がピリッと張りつめる。

「えっと、あの……」

イオは一歩引いた。

「じゃあ、僕はこの辺で……」

踵を返しかけた、その時。

「ーーダメだ」

堂島の声が、低く響いた。
イオは立ち止まる。

「悪いが、イオ、お前にはオルフェウスへ同行してもらう」

「……え?」

「総監命令だ」

淡々と続く。

「保護対象として扱うことが決定した。着いてきてくれ」

頭が追いつかない。

――何か、したかな。
不安が顔に出たのか、堂島が一瞬だけ笑みを見せる。

「大丈夫だ。俺もついてる」

そう言ってから、苦笑した。

「……まあ、この体じゃ信用ならねえか」

直後、担架が運ばれてくる。

「ちょ、待て!」

「動くな。骨が折れている」

「くそ……」

痛みに顔を歪めながら、堂島は担架に乗せられた。

「「はあ??」」

さっきの二人がまた声を揃える。

「堂島さん、どういうことですか?」

「なんでこんな一般人が、保護対象なんです?」

「はあ」

堂島は天井を仰いだ。

「お前ら、ほんと周りを見るってことを覚えろ」

それだけ言ってから、片手を振る。しっしっと追いやってるかのようだ。

「後で教えてやる。先にオルフェウスに帰れ」

「ちょっ……!」

文句を言いかけた二人は、結局言葉を飲み込んだ。
入れ替わるように、別の部隊員が近づいてくる。

「本部までご同行願います」

促され、イオは戸惑いながら車に乗り込む。
その直前。担架の上から、堂島が声を張り上げた。

「俺は堂島カケル!」

少し照れくさそうに、でもはっきりと。

「対外異常存在統合対策機関《オルフェウス》、歌唱部隊《レゾナンス》所属のフリーレクターだ!」

一拍置いて、にやりと笑う。

「もしレクターになる気になったら、俺とチームになることも考えといてくれよな!!」

「はあ!?」

即座にツッコミが飛ぶ。

「堂島さん!」

「あんた、俺とは組まないって言ったじゃねぇか!」

「ありえません!あんなどこの馬の骨とも分からないやつと!」

言いたい放題の二人にイオは思わず辟易した。
堂島はその様子を見ながら、楽しそうに目を閉じた。

車のドアが閉まる。エンジン音が、静かに響き始めた。イオは、窓の外を見つめながら思う。

――気づけば、とんでもない場所に足を踏み入れてしまったらしい。

それが、彼とオルフェウスとの、最初の出会いだった。


オルフェウスへ向かう車内は、思っていたよりも静かだった。エンジン音とタイヤが路面を噛む感触だけが、一定のリズムで続いている。

しばらく迷ってから、イオは運転席に声をかけた。

「あの……家族に連絡してもいいですか。たぶん、帰ってこないのを心配してると思うので」

自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
けれど内心では胸の奥が少しだけざわついている。

運転席の男は、ミラー越しに一瞬こちらを見てから、すぐに前へ視線を戻した。

「申し訳ありません。その件につきましては、すでにオルフェウスより連絡済みです」

「え」

「お祖父さま、お祖母さま共にお話ししました。保護対象として預かるとお伝えしたところ、安心されたご様子でしたよ」

その言葉に、イオは思わず肩の力を抜いた。

「……もう。あの二人は呑気なんだから」

自分でも、少し拗ねた声になっているのが分かる。
それを聞いて運転席の男が小さく笑った。

「すみません。先ほどの戦闘との落差が大きくて、つい」

イオもつられて小さく息を吐く。
確かに、数十分前まで命のやり取りをしていたとは思えないほど今は穏やかだった。

「それと、言い遅れました」

男は信号で車を止めると、改めて名乗った。

「私、対外異常存在統合対策機関《オルフェウス》所属。連絡調整部隊《リエゾン》の佐々木ハルヤと申します」

名前を聞いた瞬間、急に現実味が増す。

「しばらくの間、茅野さんの身の回りの調整や連絡を担当させていただきます」

丁寧で、事務的で、それでいてどこか柔らかい口調だった。イオは一拍遅れて、反射的に答えていた。

「よろしく、お願いします」

自分が今、どこへ向かっていて何が始まろうとしているのか。正直まだ何一つ分かっていない。

それでも、この人の名乗りを受け取った瞬間、もう「元の場所」には戻れないのだとはっきり理解してしまった。車は静かに速度を上げ、オルフェウスへと向かっていった。

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