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婚約
しおりを挟む「……待ってくれ」
不満を隠そうともしない声が、二人の間に割って入る。
「そんな話、聞いていない」
セシルだった。
せっかく一目惚れで結婚を申し込もうとしたところを遮られたのだ。王族に対して不敬でしかない。
しかしリズは毅然として答えた。
「今、言いました」
「いや、そういう意味じゃ――」
「でしたら問題ありませんね」
きっぱり。
(……あ)
リズはそこでふと気づく。
(相手の同意を得てない)
背中に冷や汗が走った。
(ここで断られたら――今度こそ私は終わる)
恐る恐るリヒトを見上げる。
沈黙。数秒。いや、数秒以上に感じた。
そして――
「面白い」
笑みのひとつも浮かべずそう言った。
「いいだろう。婚約の話、受けよう」
「え?」
声が間の抜けた音になる。
リズは完全に固まった。
その様子を見て、リヒトはほんのわずかに目を細める。そして一歩だけ距離を詰めた。
人混みの中。他人には聞こえない、低い声で。
「――詳しい話は、後で聞いてやる」
囁きは冷静で、けれど拒否を許さない響きを持っていた。
(後で、聞く?)
それは確認ではない。強者の圧だ。
(私、今――とんでもない人を選んだのでは?)
胸の奥が遅れてざわつき出す。
逃げるために掴んだはずの手は、気づけば自分の意思で離せなくなっていた、かのような。
「……いいだろう!」
少しだけ声を張り上げて、セシル・アーデルリヒはそう言った。驚いて思わず顔を上げる。真正面から目が合い怯む。
「今日は引こう。だがまた来るからね、リズ嬢」
笑顔は最後まで崩れなかった。
けれど。
(来る、って)
リズは、内心で小さく息を吐いた。背を向けて去っていくその姿を見送りながら、ふと、どうでもいい事実が頭をよぎる。
(そういえば、今はまだセシル殿下は八歳なのか)
王子で、未来では彼女の婚約者で、そして――
(今は、まだ自分では何一つ決められない年齢)
政も、婚約も、処遇も。すべては大人たちの手の中。
本人の意思など、どこまで通るかもわからない。
(歯がゆいだろうな)
それをどこか他人事のように考えている自分に気づく。かつては、その「未来」に縋っていた。けれど今は、もう。
リズは、無意識のうちに隣を見た。
銀白の髪を持つ少年だった。月光を溶かしたような色合いのその髪は、短すぎず長すぎず、首元にかかるほど。わずかに揺れるたび、冷たい光を反射する。
顔立ちは、まだ少年の面影を残しながらも、どこか確かに、青年へと移り変わろうとする境目にあった。
線は儚く整っているのに、目元や輪郭には揺るがない芯の強さが宿っている。
雪を思わせるほど白い肌は、夜会の灯りの下で異質なほど際立って見えた。
淡く柔らかな光を含んだ琥珀色の瞳は、感情をほとんど映さないまま、こちらを見下ろしていた。
氷のように静かで、確かな温度を秘めている。
思わず息を呑む。
この場に集う誰よりも、言葉少なに立っているだけで場の空気を変えてしまう存在だった。
聞いた話によると確か十六歳。
すでに自分の言葉で決断を下せる年齢。
その差が胸の奥で静かに形を成す。
私、本当にこの人を選んでよかったのだろうか。
答えはまだ出ない。
ただ、戻れない一歩を踏み出したことだけは確かだった。
「――お集まりいただいた皆様」
淡々とした声が、夜会場に響いた。
「お騒がせしてしまい、失礼した。どうかこのまま、ごゆっくりお楽しみを」
それだけだった。
謝罪でも説明でもない。ただの社交辞令。
だが、その一言で十分だった。
ざわめいていた人だかりは、まるで合図を受け取ったかのように静かに散っていく。
誰も異を唱えない。誰も足を止めない。
(さすが王子様だ)
リズがそう思った瞬間――
「え?」
視界がふわりと持ち上がり、気づけばリヒトの腕の中だった。ひょい、とあまりにも自然に。
「――っ!?」
「人目が多い」
短く、それだけ。
「婚約の話をするなら、落ち着いて話せる場所がいいだろう」
(こ、婚約……!)
心臓が遅れて跳ねる。
「二人きりで話でもしようか」
抑揚のない声。それが、余計に逃げ場をなくす。
「ま、待ってください! 自分で歩けます!」
「転ばれると困る」
即答だった。
「子どもだからな」
(ぐ……)
正論すぎて何も言えない。
そのまま別室へと運ばれると、夜会の音楽と喧騒は扉の向こうへ遠ざかっていった。
――静寂。
床に降ろされ、正面から淡い琥珀の瞳を向けられる。
「さて」
「――詳しい話を聞こうか、リズ嬢」
(始まった)
リヒトは椅子を引き、リズに座るよう目線で促す。
「……座れ」
命令口調ではない。
だが、拒否という選択肢も感じさせない。
リズは素直に腰を下ろした。
(さて本番だ)
向かいに腰掛けたリヒトは、少しの間、何も言わず彼女を見ていた。観察。それも、かなり冷静な。
「まず確認する」
静かな声。
「先ほどの発言は、冗談か?」
「いいえ」
「誰かに指示された?」
「されていません」
短く、簡潔に答えるたび、リヒトの視線がわずかに鋭くなる。
「……なるほど」
一拍置いて。
「では次だ。なぜ私だった」
核心。リズは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに用意していた“表向きの答え”を選んだ。
「同盟国の第一王子であり、政治的に最も影響力があり、そして――」
一度、息を吸う。
「その場で、私の申し出を拒まない方だったからです」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
リヒトは否定しなかった。
「合理的だな」
淡々とそう言ってから、今度は彼自身の話に移る。
「では、私の条件を話そう」
(条件……)
背筋が伸びる。
「第一に。これは即時の婚約ではない」
リズの目がわずかに見開かれる。
「名目上は“婚約予定”。正式な契約は、双方の国と家の合意を待つ」
「第二に。君は子どもだ」
容赦がない。
「感情的な判断の可能性を否定できない。よって――」
淡い琥珀の瞳が、まっすぐ向けられる。
「この婚約は君が撤回したいと言えば、いつでも白紙に戻す」
(……え?)
予想外だった。
「ただし」
間髪入れずに続く。
「私が“不利益”を被る形での撤回は認めない」
公平。
「第三に。この話は、君の身を守るために利用する」
「利用……?」
「第一王子セシルへの牽制、そして王宮内の過剰な干渉を防ぐ」
つまり――盾になる、ということ。
「その代わり」
声が、わずかに低くなる。
「君は、私の前では嘘をつかない」
(……)
胸が、きゅっと鳴った。
「言えないことがあるなら、“言えない”と正直に言え」
沈黙。
それから、最後の条件。
「以上を理解した上で、改めて問う」
リヒトは、逃げ道を残したまま問いを投げる。
「――それでも、私を選ぶか?」
(ずるい)
優しくはない。
甘くもない。
でも。
(この人は、私を“子ども扱い”したまま、ちゃんと一人の人間として見ている)
リズは小さく拳を握りしめた。
「はい」
はっきりと。
「それでも、私は――ヴァイスハイム殿下を選びます」
一瞬。ほんの一瞬だけ、リヒトの目が細まった。
「了解した」
それだけ。だがその一言は、どんな甘い言葉よりも重かった。
こうして。逃げのはずだった婚約は、条件付きの“契約”として動き始めた。
コン、コン。
控えめなノック音が、静かな部屋に割り込んだ。
「殿下。お時間を――」
扉がわずかに開き、黒髪の青年が顔を出す。
リヒトの側近だった。
室内の様子を見た瞬間、その表情がほんの一瞬だけ固まる。
椅子に座る幼い令嬢。向かいに腰掛ける主君。
そして――
空気が、決定後のそれだ。
「もう話は終わった」
リヒトが淡々と言う。
「公の場に戻る。準備を」
「承知しました」
側近は一礼しつつ、ちらりとリズを見る。
(……この方が?)
言葉には出さないが、視線がすべてを物語っていた。
扉が閉まり、再び二人きり。
「立てるか?」
リヒトが問いかける。
「はい」
今度はちゃんと自分の足で立った。
(当たり前だけど、もうさっきまでとは違う)
リヒトは扉に手をかけ、一度だけ、振り返る。
「今夜は、これ以上詮索させない」
淡々と。
「だが明日からは、君を見る目が変わる」
(ですよね……)
「覚悟しておけ」
それは忠告で、同時に予告だった。
扉が開き、再び夜会の光と音が流れ込む。
――もう、逃げ場はない。
(でも)
一歩、踏み出す。
(逃げるつもりも、ない)
小さな背中で、リズはそう決めていた。
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