2 / 38
絶対に見つかってはいけない夜
しおりを挟む王宮は眩しすぎるほどに明るかった。天井から下がる無数の魔法灯。磨き上げられた大理石の床。甘く香る花と料理の匂い。
その中でリズ・エーヴェルシュタインは、小さな背中をぴんと伸ばしたまま広間の入り口に立っていた。
六歳の身体に、男爵家三女という立場。本来ならただ連れてこられただけの存在。けれど中身は違う。
ここで全て決まるのだ。
パーティーの名目は、同盟国ヴァイスハイム王国の王族を迎えるための親睦会。貴族も、王族も、魔法師も、軍部関係者も集う夜。
そして彼も必ずここにいる。第一王子――セシル・アーデルリヒ。思い出しただけで喉の奥が冷える。
優しくて、穏やかで、誰からも好かれていた王子。けれど最後まで、彼女を守ることはなかった人。
(視線を合わせない。近づかない。名前を呼ばれない)
リズは心の中で淡々と条件を並べた。
「リズ、こちらへいらっしゃい」
母の声にリズは小さく頷いた。
歩幅は年相応。姿勢は完璧。表情は薄く微笑むだけ。
広間に一歩足を踏み入れた瞬間、ざわりと視線が集まる。
「まあ、小さいのにお行儀がいいこと」
「男爵家の三女だったかしら」
「可愛らしいわねぇ」
甘い声。無遠慮な視線。
リズはゆっくりと一歩下がった。
柱の影。テーブルの陰。人の流れを計算しながら、自然に位置をずらす。子どもは見逃されやすい。けれど目立てば終わり。
その時だった。広間の奥がわずかに静まる。
「――殿下がお通りです」
その一言で、空気が変わった。
(来た)
リズは、反射的に視線を落とした。
視界の端に映るのは、金糸の刺繍。王族の色。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
だめだ、見るな。見たら、思い出す。思い出したら判断が鈍る。
しかし、運命は容赦がなかった。
「おや? 君は……」
柔らかい声。背筋が凍りついた。
(最悪だ)
呼び止められた。軽やかな足音が聞こえる。地面を見つめたままの視線を僅かにあげた。
距離は、三歩もない。リズはそのままゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは記憶と寸分違わぬ姿。微笑みを浮かべた第一王子。心臓がうるさく鳴る。
「エーヴェルシュタイン家の、リズ嬢」
その名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひどく嫌な音を立てた。
(――名前を呼ばれた)
終わった、と思った。
ゆっくりと顔を上げると、そこには変わらない微笑みを浮かべた第一王子――セシル・アーデルリヒが立っていた。
未来で、私の婚約者だった男。
「やはり君か。落ち着いた佇まいだと思っていたが……名前まで美しいとは」
柔らかく、甘い声。
周囲の貴族たちが、はっと息を呑むのがわかる。
(やめて)
(それ以上、こっちを見ないで)
リズは反射的に一歩引く。
だがセシルはそれを拒絶とは受け取らなかった。
むしろ――
その瞳が、ゆっくりと細められる。恍惚。
それをリズははっきりと理解してしまった。
「これほど澄んだ目をしているとは――」
セシルは胸に手を当て、まるで恋を語る詩人のような表情で言葉を継ごうとする。
「一目惚れだ。もしよろしければ――」
周囲からまさかと囃し立てる声が聞こえる。
私はその続きを聞いてはいけないのだ。
リズは思わず後ろへ後ずさった。
小さな靴が大理石の床を打つ。そして次の瞬間。
セシルが言葉を発するより前に背中が誰かにぶつかった。硬い感触。香水ではない、冷たい空気。
(しまっ――)
逃げ場が完全に塞がれた。
「大丈夫か」
その時聞こえたのは低く抑揚のない声。
知らない声だった。
その事実に、ほんの一瞬だけ思考が止まる。
(……誰?)
振り返る余裕はない。今はそれどころじゃない。
前には第一王子。後ろには正体不明の人物。
周囲の視線が集まり始める。
(囲まれたら終わり)
頭の中で、最悪の未来が高速で再生される。
――名前を呼ばれる。
――視線が集まる。
――逃げられない。
(選択肢は一つ)
リズは勢いのまま背後の人物の袖を掴んだ。
そしてほとんど反射で口を開く。
「申し訳ありません、私はこの方に一目惚れしました。この方と結婚しようと思います。」
一瞬。本当に、一瞬だけ時間が止まった。
ざわめきが凍りつき、魔法灯の光すら静止したかのようだった。
「は?」
後ろから低く、威圧感のある声が聞こえた。
(言った)
(言ってしまった)
心臓がばくばくと鳴り始める。
(落ち着け。これは一時しのぎ。ちなみに相手はそこそこ地位のある貴族であれは、なおいい)
リズはゆっくりと振り返った。
そこで初めて相手の顔を見る。
銀白の髪。彫刻のように整った顔立ち。
感情の抜け落ちた、淡い琥珀の瞳。
血の気が、引いた。
同盟国ヴァイスハイム王国。
第一王子、リヒト・ヴァイスハイム。
――通称、氷の王子。
「名前を聞いてもいいか」
感情のない声が、静かに落ちる。
リズは一瞬だけ言葉を失った。
(最悪の中で、最善……?)
それでも逃げ場はない。
彼女は背筋を正し、淡々と答えた。
「エーヴェルシュタイン男爵家三女、リズ・エーヴェルシュタインと申します」
6
あなたにおすすめの小説
ベルガー子爵領結婚騒動記
文月黒
恋愛
その日、王都より遠く離れたベルガー子爵領は、俄かに浮き足立っていた。
何せ、ついに領民一同が待ち望んでいたベルガー子爵の結婚相手がやって来るのだ。
ちょっとだけ(当領比)特殊な領地の強面領主に嫁いで来たのは、王都の男爵家の末娘・マリア。
だが、花嫁は領主であるベルンハルトの顔を見るなり泣き出してしまった。
最悪な顔合わせをしてしまったベルンハルトとマリア。
慌てるベルンハルトの腹心の部下ヴォルフとマリアの侍女ローザ。
果たしてベルガー子爵領で彼らは幸せを掴めるのか。
ハピエン確定のサクッと読めるギャグ寄り恋愛ものです。
公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―
鍛高譚
恋愛
没落寸前の子爵家に生まれたキャル・キュレイションは、公爵家で侍女見習いとして働くことになる。
高位貴族から見れば、子爵令嬢など平民と大差ない。そんな弱い立場の彼女には、ただひとつ、とんでもない才能があった。
それは――暗算。
市場の会計をごまかす商人を見抜き、屋敷の帳簿の乱れを整え、誰も気づかなかった数字の歪みを拾い上げる。
その力はやがて公爵家の中だけに留まらず、領地経営、王宮財務局、そして国そのものを動かす大きな数字へと繋がっていく。
「魔法? ただの暗算です」
けれど、数字が見えるということは、見なくていいものまで見えてしまうということでもあった。
貴族社会の冷たい現実、王宮に渦巻く思惑、そしてなぜか彼女を放っておかない王太子。
立場は弱い。権力もない。
それでもキャルは、数字を武器に、自分の居場所を切り開いていく。
これは、公爵家の侍女見習いから始まった子爵令嬢が、暗算ひとつで王宮の帳簿を読み解き、成り上がっていくお仕事成長ファンタジーです。
転生したので前世の大切な人に会いに行きます!
本見りん
恋愛
魔法大国と呼ばれるレーベン王国。
家族の中でただ一人弱い治療魔法しか使えなかったセリーナ。ある出来事によりセリーナが王都から離れた領地で暮らす事が決まったその夜、国を揺るがす未曾有の大事件が起きた。
……その時、眠っていた魔法が覚醒し更に自分の前世を思い出し死んですぐに生まれ変わったと気付いたセリーナ。
自分は今の家族に必要とされていない。……それなら、前世の自分の大切な人達に会いに行こう。そうして『少年セリ』として旅に出た。そこで出会った、大切な仲間たち。
……しかし一年後祖国レーベン王国では、セリーナの生死についての議論がされる事態になっていたのである。
『小説家になろう』様にも投稿しています。
『誰もが秘密を持っている 〜『治療魔法』使いセリの事情 転生したので前世の大切な人に会いに行きます!〜』
でしたが、今回は大幅にお直しした改稿版となります。楽しんでいただければ幸いです。
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する
ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。
皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。
ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。
なんとか成敗してみたい。
【完結】モブ令嬢としてひっそり生きたいのに、腹黒公爵に気に入られました
22時完結
恋愛
貴族の家に生まれたものの、特別な才能もなく、家の中でも空気のような存在だったセシリア。
華やかな社交界には興味もないし、政略結婚の道具にされるのも嫌。だからこそ、目立たず、慎ましく生きるのが一番——。
そう思っていたのに、なぜか冷酷無比と名高いディートハルト公爵に目をつけられてしまった!?
「……なぜ私なんですか?」
「君は実に興味深い。そんなふうにおとなしくしていると、余計に手を伸ばしたくなる」
ーーそんなこと言われても困ります!
目立たずモブとして生きたいのに、公爵様はなぜか私を執拗に追いかけてくる。
しかも、いつの間にか甘やかされ、独占欲丸出しで迫られる日々……!?
「君は俺のものだ。他の誰にも渡すつもりはない」
逃げても逃げても追いかけてくる腹黒公爵様から、私は無事にモブ人生を送れるのでしょうか……!?
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
瑞原唯子
恋愛
だから、きっと、恋を知らないままでよかった。
伯爵令嬢のシャーロットはもうすぐ顔も知らないおじさまと結婚する。だから最後にひとつだけわがままを叶えようと屋敷をこっそり抜け出した。そこで知り合ったのは王都の騎士団に所属するという青年で——。
---
本編完結しました。番外編も書きたかったエピソードはひとまず書き終わりましたが、気が向いたらまた何か書くかもしれません。リクエストなどありましたらお聞かせください。参考にさせていただきます。
乙女ゲームのモブに転生していると断罪イベント当日に自覚した者ですが、ようやく再会できた初恋の男の子が悪役令嬢に攻略され済みなんてあんまりだ
弥生 真由
恋愛
『貴女との婚約は今夜を持って破棄させて貰おう!』
学園卒業祝いの夜会の場に、凛と響いた王太子殿下の一声。
その瞬間、私は全てを思い出した。
私が前世ではただの手芸とゲームが好きなインドア派女子大生だったこと。そして、ゲーム世界に転生して尚も趣味は変わらず、ライバルキャラですらないモブになってしまっていたことを。
幼い頃に一度出会ったきりの初恋の彼と学園で再会出来たらなぁ、なんて淡い期待を抱いて通っていたのに、道理で卒業式までなんにも起きなかったわけだ。
ーーなんて、ひとり納得していたら。
何故だが私が悪役令嬢の断罪イベントの目撃者として名指しされ、一気に渦中の人物に!?
更に、王太子以外の男性陣は皆様悪役令嬢に骨抜き。なので自然と私には、彼女の潔白に繋がる証言が求められる。
しかしながら、私は肝心の事件の日の記憶が訳あって曖昧だったので、致し方なく記憶を呼び覚ます治療を受けさせられる羽目に。
タイムリミットは1年間。
その1年間の私への護衛につけられたのは、悪役令嬢に心奪われた初恋の彼でした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる