9 / 38
ヴァイスハイム王国へ
しおりを挟む出発の準備は、思ったよりも早く整った。
王宮に実家から荷物が届く。
きちんとまとめられた木箱を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ありがとうございます」
侍女たちにそう伝えると、彼女たちは安堵したように笑った。
中身を確認するまでもない。なんていったって、貧乏男爵家だ。持たせられるものは多くない。
私は小さな鞄に、必要最低限のものだけを詰める。
中身は軽い。それでも不安よりも覚悟の方が勝っていた。
荷物を詰め終えた頃には、時刻は間もなく夕刻へと差しかかっていた。窓の外が、ゆっくりと橙色に染まっていく。
その間も、リヒト殿下は部屋の片隅で静かに待っていた。どこから取り出したのか分からない一冊の本を読みながら。声をかけることも、急かすこともない。
(本当に、ずっと待っていたんだ)
私は鞄を肩に掛け、軽く息を整える。
「準備、できました」
声をかけると殿下は本から視線を上げた。
「ああ」
短くそう答えて立ち上がり、自然な動作で私の荷物の方へ向かうそして私が持つには少し大きい鞄を、何の確認もなく手に取った。
「行くぞ」
一瞬、言葉に詰まる。
「あ、ありがとうございます」
子供扱いされることには、正直まだ慣れない。それが善意だとわかっていても、どこかむず痒い。
その様子を見て、リヒト殿下はほんの少し眉をひそめた。
「その顔、無意識か」
「何が、でしょうか」
「守られる側に回るのが、あまりに下手だ」
淡々とした口調なのに、どこか面白がっているのが伝わってくる。なぜだが全てを見透かされているような気がして意心地が悪かった。
そうして転移魔法陣を管理する王宮地下へ向かおうとした、その時。
「リズ!」
背後から少し高い声が響いた。
振り返るまでもなく誰かはわかる。
「セシル殿下」
廊下の先から現れたセシルは息を切らしていた。
殿下、と呼び止められながら来たのだろう。
無理をして抜け出してきたことは、一目で察せられた。
「やっぱり行くんだな」
「はい」
短く答えると、セシルは一瞬言葉を探すように視線を泳がせた。
「……また、戻ってくるよな?」
その問いに、私は少しだけ考える。
「王国の判断次第です。状況が落ち着けば、その可能性もあります」
肯定とも否定ともつかない返答。
それで十分だったのだろう。
セシルは唇を噛みしめ、ぐっと堪えるような表情を浮かべた。
(これで、諦めてくれるといいんだけど)
そう思った、次の瞬間。
「随分と他の男に期待させるような返しをするじゃないか」
低く落ち着いた声が割り込む。
「俺の婚約者様は」
一瞬、理解が追いつかなかった。
「……え?」
思わず目を見開く。
「何をそんなに驚く?」
そう言ってこちらを見るリヒト殿下は、先ほどまでよりもずっと素に近い表情をしていた。
「いえ……その」
私は咳払いを一つしてから、言葉を選ぶ。
「そのように、距離を詰めた話し方をされるとは思っていませんでしたので」
隣で、それを聞いていたノアが吹き出す。
「ははっ。言われてますよ、殿下」
「余計なことを言うな、堅苦しい口調も疲れるんだ」
そう返しながらも、リヒト殿下はどこか楽しそうだった。
主と側近。信頼し合っているのがよく分かる。
私は二人を見ながら、ほんの少しだけ息を吐く。
(本当に、この人たちの国へ行くんだ)
セシル殿下に挨拶を終えると、王宮地下へ続く階段を下りていく。昼間でも薄暗いそこは、石造りの壁が足音を大きく響かせた。
転移魔法陣を管理する区画に入ると、空気がはっきりと変わる。ひんやりと冷たく、張りつめているのが分かった。
床一面に刻まれた巨大な魔法陣。
幾重にも重なる紋様が、淡く光を宿していた。
(これで、本当に行くんだ)
私は足を止める。
「怖いか」
隣から、低い声が落ちてくる。
「いいえ。怖くはありません」
嘘ではない。
でも、平然としていられるほどでもない。
殿下はそれ以上、何も言わなかった。
ただ一歩、前に出る。
「陣に入れ」
促され、魔法陣の中央へ進む。
足元の紋様がじわりと光を強めた。
詠唱はない。指示もない。
ヴァイスハイム式の転移は、効率と制御を極限まで突き詰めたものらしい。
殿下が一歩、こちらに近づく。
「目を閉じろ」
「はい」
従った瞬間、空気が反転する感覚が走った。
重力がひっくり返る。音が消え、体の輪郭が曖昧になる。意識だけが強く引かれる。
一瞬――
本当に一瞬だった。
転移が終わった直後、足裏に床の感触が戻る。
遅れて、重さが来た。
(っ……)
一歩、踏み出そうとして視界が揺れる。
咄嗟に踏ん張った。膝に力を入れ何とか立ち直ろうとする。けれど、だめだった。
体がわずかに後ろへ傾いたその瞬間。背中に確かな支えが触れる。
迷いのない動きで、背中を押さえ体勢が崩れきる前に引き留められる。
「無理をするな」
低い声が、すぐ耳元で落ちた。
次の瞬間支えていたその手が動きを変える。
背中から、腕へ。視界がふっと浮き上がる。
「っ……!」
抱き上げられたのだと理解した時にはもう遅かった。
「俺の婚約者殿は、本当に素直じゃないな」
淡々とした声。
責めるでもなく、からかうでもない。
(また抱き上げられている……)
夜会で助けを求めた時と同じように。
「あ、あの、殿下――!」
慌てて声を上げると、
「黙っておけ」
即座に返される。
「落とされたいか?」
反論は、喉で止まった。
私は言われるまま腕の中で静かになる。
殿下はそのまま数歩進み足を止めた。
「ようこそ」
低く、はっきりと。
「ヴァイスハイムへ」
視界いっぱいに広がる、見知らぬ天井。
そして何より魔力密度の高い空気が、違う。
(来たんだ)
そう実感したのに、
不思議と、心は落ち着いていた。
6
あなたにおすすめの小説
ベルガー子爵領結婚騒動記
文月黒
恋愛
その日、王都より遠く離れたベルガー子爵領は、俄かに浮き足立っていた。
何せ、ついに領民一同が待ち望んでいたベルガー子爵の結婚相手がやって来るのだ。
ちょっとだけ(当領比)特殊な領地の強面領主に嫁いで来たのは、王都の男爵家の末娘・マリア。
だが、花嫁は領主であるベルンハルトの顔を見るなり泣き出してしまった。
最悪な顔合わせをしてしまったベルンハルトとマリア。
慌てるベルンハルトの腹心の部下ヴォルフとマリアの侍女ローザ。
果たしてベルガー子爵領で彼らは幸せを掴めるのか。
ハピエン確定のサクッと読めるギャグ寄り恋愛ものです。
公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―
鍛高譚
恋愛
没落寸前の子爵家に生まれたキャル・キュレイションは、公爵家で侍女見習いとして働くことになる。
高位貴族から見れば、子爵令嬢など平民と大差ない。そんな弱い立場の彼女には、ただひとつ、とんでもない才能があった。
それは――暗算。
市場の会計をごまかす商人を見抜き、屋敷の帳簿の乱れを整え、誰も気づかなかった数字の歪みを拾い上げる。
その力はやがて公爵家の中だけに留まらず、領地経営、王宮財務局、そして国そのものを動かす大きな数字へと繋がっていく。
「魔法? ただの暗算です」
けれど、数字が見えるということは、見なくていいものまで見えてしまうということでもあった。
貴族社会の冷たい現実、王宮に渦巻く思惑、そしてなぜか彼女を放っておかない王太子。
立場は弱い。権力もない。
それでもキャルは、数字を武器に、自分の居場所を切り開いていく。
これは、公爵家の侍女見習いから始まった子爵令嬢が、暗算ひとつで王宮の帳簿を読み解き、成り上がっていくお仕事成長ファンタジーです。
転生したので前世の大切な人に会いに行きます!
本見りん
恋愛
魔法大国と呼ばれるレーベン王国。
家族の中でただ一人弱い治療魔法しか使えなかったセリーナ。ある出来事によりセリーナが王都から離れた領地で暮らす事が決まったその夜、国を揺るがす未曾有の大事件が起きた。
……その時、眠っていた魔法が覚醒し更に自分の前世を思い出し死んですぐに生まれ変わったと気付いたセリーナ。
自分は今の家族に必要とされていない。……それなら、前世の自分の大切な人達に会いに行こう。そうして『少年セリ』として旅に出た。そこで出会った、大切な仲間たち。
……しかし一年後祖国レーベン王国では、セリーナの生死についての議論がされる事態になっていたのである。
『小説家になろう』様にも投稿しています。
『誰もが秘密を持っている 〜『治療魔法』使いセリの事情 転生したので前世の大切な人に会いに行きます!〜』
でしたが、今回は大幅にお直しした改稿版となります。楽しんでいただければ幸いです。
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する
ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。
皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。
ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。
なんとか成敗してみたい。
【完結】モブ令嬢としてひっそり生きたいのに、腹黒公爵に気に入られました
22時完結
恋愛
貴族の家に生まれたものの、特別な才能もなく、家の中でも空気のような存在だったセシリア。
華やかな社交界には興味もないし、政略結婚の道具にされるのも嫌。だからこそ、目立たず、慎ましく生きるのが一番——。
そう思っていたのに、なぜか冷酷無比と名高いディートハルト公爵に目をつけられてしまった!?
「……なぜ私なんですか?」
「君は実に興味深い。そんなふうにおとなしくしていると、余計に手を伸ばしたくなる」
ーーそんなこと言われても困ります!
目立たずモブとして生きたいのに、公爵様はなぜか私を執拗に追いかけてくる。
しかも、いつの間にか甘やかされ、独占欲丸出しで迫られる日々……!?
「君は俺のものだ。他の誰にも渡すつもりはない」
逃げても逃げても追いかけてくる腹黒公爵様から、私は無事にモブ人生を送れるのでしょうか……!?
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
瑞原唯子
恋愛
だから、きっと、恋を知らないままでよかった。
伯爵令嬢のシャーロットはもうすぐ顔も知らないおじさまと結婚する。だから最後にひとつだけわがままを叶えようと屋敷をこっそり抜け出した。そこで知り合ったのは王都の騎士団に所属するという青年で——。
---
本編完結しました。番外編も書きたかったエピソードはひとまず書き終わりましたが、気が向いたらまた何か書くかもしれません。リクエストなどありましたらお聞かせください。参考にさせていただきます。
乙女ゲームのモブに転生していると断罪イベント当日に自覚した者ですが、ようやく再会できた初恋の男の子が悪役令嬢に攻略され済みなんてあんまりだ
弥生 真由
恋愛
『貴女との婚約は今夜を持って破棄させて貰おう!』
学園卒業祝いの夜会の場に、凛と響いた王太子殿下の一声。
その瞬間、私は全てを思い出した。
私が前世ではただの手芸とゲームが好きなインドア派女子大生だったこと。そして、ゲーム世界に転生して尚も趣味は変わらず、ライバルキャラですらないモブになってしまっていたことを。
幼い頃に一度出会ったきりの初恋の彼と学園で再会出来たらなぁ、なんて淡い期待を抱いて通っていたのに、道理で卒業式までなんにも起きなかったわけだ。
ーーなんて、ひとり納得していたら。
何故だが私が悪役令嬢の断罪イベントの目撃者として名指しされ、一気に渦中の人物に!?
更に、王太子以外の男性陣は皆様悪役令嬢に骨抜き。なので自然と私には、彼女の潔白に繋がる証言が求められる。
しかしながら、私は肝心の事件の日の記憶が訳あって曖昧だったので、致し方なく記憶を呼び覚ます治療を受けさせられる羽目に。
タイムリミットは1年間。
その1年間の私への護衛につけられたのは、悪役令嬢に心奪われた初恋の彼でした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる