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意識の変化
しおりを挟むリヒトが気づいたのは、エマやルーカスよりも遅く、しかし確実だった。
報告書の数字。滞在日数。
ヴァイスハイムの魔力濃度と、年齢。
そして何より、リズが一度も「辛い」と言わないこと。
(言わないのではない。言えないのだな)
彼は何度も告げていた。無理はするな。
異変があれば言え。手を貸すことに、躊躇うな。
それでも彼女は、自分で何とかしようとする。
だから、リヒトは決めていた。彼女が“口に出す”までは、手を出さない。
限界は唐突に訪れた。
ある朝いつも以上に調子が悪いなと思いながら、着替えをしようと起き上がった瞬間、意識はブラックアウトし、気づいた時にはベッドの上で、浅い呼吸を繰り返していた。
魔力が制御を失い体内で渦を巻いている。
暴走――軽度だが、この年齢には致命的になりかねない。
異変に気づいて部屋に飛び込んだエマは、必死にリズの名を呼び続けていた。
「リズ様、聞こえますか。大丈夫です、すぐに落ち着きますから……」
けれど、一歩近づこうとした瞬間、肌がひりつくような感覚に思わず足を止める。
空気が、歪んでいた。
リズの体から溢れ出す魔力が、呼吸のたびに波打ち、目に見えない圧となって周囲を満たしている。
魔力を持たない者が無理に踏み込めば、体内に流れ込んでしまう濃度だ。
エマの喉が、ひくりと鳴った。
もしこのまま近づけば、自分の体が耐えられない。
最悪の場合、魔力が体内で暴走し――魔力汚染を起こす。
頭痛、吐き気、感覚の麻痺。
ひどければ、意識障害や後遺症が残る。
それを理解しているからこそ、手を伸ばせない。
「……っ」
ルーカスも同じだった。
騎士として魔力への耐性はある。
だが、それでも今のリズの放つ魔力は異質だった。
制御を失った魔力が、刃のように荒れている。不用意に触れれば、彼女を助けるどころか刺激してさらに暴走させてしまう。
実際、ルーカスが一歩踏み出した瞬間、空気がびり、と鳴った。
「……これ以上は危険だ」
低く呟くしかなかった。
助けたい。守ると誓った相手だ。それなのに、近づくことができない。エマは唇を噛みしめ、震える手を胸元で握りしめた。
*
エマの呼びかける声が遠くで反響している。
聞こえている。ちゃんと分かっている。
それでも、体が言うことをきかない。
息を吸うたび、胸の奥で魔力が暴れ、視界の端が白く滲む。自分の内側から溢れ出したそれが、部屋を満たしていくのが分かる。
(だめ……)
リズはぼんやりとした意識の中で理解していた。
これ以上、近づかせてはいけない。
エマは魔力を持たない。無理に傍にいれば、魔力が体内に流れ込み、取り返しのつかないことになる。
ルーカスだって同じだ。騎士であっても、今の自分の魔力は異常だと分かる。
助けようとしてくれているのに。守ろうとして、手を伸ばしてくれているのに。自分のせいで誰かが傷つくこと。それだけは選びたくない。
だから。
唇に、力を込める。喉が震えて、うまく声にならない。
それでも。
ここで黙っていたら、もっと悪い。
(……呼ぶしか、ない)
悔しさと、怖さと、ほんの少しの安堵を飲み込んで、リズは息を絞り出した。
「……エマ……ルーカス……」
二人が、はっと顔を上げる。
「……ちかづか、ないで……」
それだけで、十分だった。
そして、次の言葉を探す。
助けてほしい相手の名前を。
「……リヒト殿下を……」
かすれた声。
けれど、確かに意思のこもった呼びかけ。
「……呼んで……」
その一言で、エマとルーカスは理解した。
これは弱音ではない。
リズ自身が選んだ、最善の判断だと。
どれくらい時間が経ったか、扉が開く音と重い足音が脳裏に響く。
「どういう状況だ」
淡々とした声だった。
リヒトは状況を一目で理解し、ベッドの横に立つ。
息も絶え絶えなリズを見下ろし、事態を把握すると静かに言った。
「それで?」
余裕すら感じさせる声音に、エマとルーカスは戸惑う。どうすればいいのか分からず、ただ見守るしかなかった。
リズは歯を食いしばった。言わなければ。
でも言えば、負ける気がして。
喉が震える。声が出ない。
その瞬間、視界が影に覆われた。
リヒトが覆いかぶさるように身を屈めていた。
低く、しかしはっきりとした声。
「お前は――ここに、何をしに来たんだ?」
その問いは責めではなかった。
意識を引き上げるための楔だった。
はっと、リズの目に焦点が戻る。
胸が苦しい。頭が熱い。
それでも、今なら言える。
「……り、ひと、でんか……」
「なんだ」
今度の声は、驚くほど優しかった。
リズは震える息の中で、ほんの囁きほどの声を絞り出す。
「……たすけて……」
その声は、リヒトにしか届かなかった。
一瞬。確かに満足そうに彼は目を細めた。
「よく言えた」
そう告げると、リズの体を横から抱き上げる。
「応えてやろう」
リヒトは彼女を胸に引き寄せ、静かに手をかざした。
指先から流れ込むのは、整えられた魔力。
荒れ狂う波を包み込み、削り、均していく。
リズの呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
「無理をするなと言ったはずだ」
責める声ではない。
それでも、確かな不満が滲んでいる。
「……ごめんなさい……」
「謝るな」
リヒトは即座に遮った。
「頼った。十分だ」
魔力の奔流が鎮まり、リズの意識はゆっくりと沈んでいく。最後に聞こえたのは、低い声。
「次は、もっと早く呼べ」
それは命令にしては優しすぎた。
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