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休息
しおりを挟むエマが、そっと掛け布を整えながら言った。
「殿下、本当は少しお休みになられるはずだったんです」
リズは瞬きをする。
「そうなんですか?」
「ええ。でも――」
言葉を切ったエマの代わりに、ルーカスが淡々と補足した。
「一睡もされていません」
「……え」
「夜通し、この部屋に控えておられました」
さらりとした口調だったが、内容は重い。
リズは思わず天井を見上げた。
(だから、あんな近くにいたんだ)
怒られると思っていた。呆れられるとも。
でも実際は、見張られていたどころか、ずっと見られていたのだ。
(信用されてない、って思ったけど……)
それは少し、違ったのかもしれない。
守るために目を離さなかった。ただ、それだけ。
「過保護ですね」
ぽつりと漏れた言葉に、エマが苦笑する。
「殿下らしい、と言えばらしいですね」
ルーカスは否定も肯定もしなかった。
その沈黙が、答えだった。
その日は、結局のところ大事にはならなかった。
リヒトは昼前に一度だけ顔を出し、医官の確認を終えるとすぐに去っていった。部屋の中は穏やかな時間に包まれていた。
最初に訪ねてきたのは庭師だった。
年配の男で、土の匂いをまとったまま丁寧に頭を下げる。
「殿下より、部屋でも楽しめるようにと」
そう言って差し出されたのは、小さな花束だった。
色とりどりではないが、朝露を含んだ白と淡い紫の花。
「きれい」
思わず声にすると、庭師は照れたように笑った。
「この国の土に馴染みやすい花です。きっと、すぐ元気になりますよ」
その言葉にリズは小さく頷いた。
午後になると、侍女たちが部屋に集まり始めた。
エマが主導して用意したのは、ミニサイズのティーパーティー。
正式なものではなく、あくまで“おやつ”の延長のようなものだ。
「医官の許可は出ていますから」
そう言って、砂糖控えめの焼き菓子と、香りの柔らかい茶が並ぶ。
「こんなの初めてです」
正直な感想を口にすると、侍女たちは顔を見合わせて笑った。
「婚約者様、ですから」
その言い方に、まだ少しだけ照れながらもリズは茶を口に運ぶ。
夕方前には、司書がやってきた。
厳格そうな初老の女性で、普段なら規則を破ることはない人物だ。
「本来なら貸し出しは三冊までですが」
そう前置きしてから静かに続ける。
「……今日は、五冊までにしておきましょう」
差し出されたのは、魔法理論の初級書、ヴァイスハイム史、植物図鑑、簡単な経済書、そして童話集。
「いいんですか?」
「今日だけ、です」
その“今日だけ”が、なぜかとても嬉しかった。
合間合間で、エマとルーカスとも言葉を交わした。
ティーパーティーがひと段落したあと、エマは湯気の消えたカップを片付けながら、ふと思い出したように言った。
「リズ様。実はわたくし、少し驚いているんです」
「何にですか?」
「体調を崩されるまで、ほとんど弱音を吐かれなかったことに」
責める調子ではなかった。
むしろ、不思議そうな声音だった。
リズは少し考えてから、肩をすくめる。
「言っても、困らせるだけかなって」
その答えに、エマの手が一瞬止まった。
「それは……」
言葉を探すように視線を落とし、それからはっきりと告げる。
「それは、侍女としては少し寂しいです」
「え」
「頼られないのは、信用されていないみたいで」
柔らかい言い方だったが、真剣だった。
リズは目を瞬かせてから、小さく笑う。
「じゃあ、次はもう少し早く言います」
「ええ。そうしてください」
そのやり取りを、少し離れた場所で聞いていたルーカスが、咳払いをひとつした。
「……俺も、同じです」
突然の参加に、二人が視線を向ける。
「守れなかったことは事実ですが……それでも」
一瞬、言葉を切る。
「頼られないよりは、頼られた方がずっといい」
不器用だが、誠実な言い方だった。
「ルーカスさんって、騎士らしいですね」
「それは、褒め言葉でしょうか」
「多分?」
そう言って、リズはくすっと笑った。
「でも、無理はさせません」
「リズ様?」
「お二人を巻き込みたくない気持ちは、変わりませんから」
その言葉に、エマは少し困ったように眉を下げる。
「本当に、頑固なお嬢様ですね」
「よく言われます」
ルーカスは、腕を組んだまま言った。
「殿下が目を離さない理由が、分かる気がします」
「それフォローですか?」
「多分」
またその答えか、と三人で小さく笑う。
大声ではない。
けれど、確かに同じ空間を共有している笑いだった。
(守られるだけじゃない)
少しずつ、ここに居場所を作っていく。
そんな感覚を、リズは初めてはっきりと覚えた。
気づけば、日は傾き窓の外が橙色に染まっていた。
特別なことは、何も起きなかった。
ただ、花があって。お茶があって。本があって。
人が、優しかった。
(こういう日も、悪くない)
ベッドに身を沈めながら、リズはそう思った。
穏やかな一日だった。
そして、それが――今の彼女にとって、何よりの贅沢だった。
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