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力になりたい
しおりを挟む翌朝、身支度を整えて部屋を出ると、ちょうど廊下の先からリヒト殿下がこちらへ歩いてくるところだった。一瞬だけ視線が合い、すぐに逸らされる。
「おはようございます、殿下」
声をかけると、足を止めてこちらを見る。
「ああ。体調はどうだ」
淡々とした問いかけだったが、その声は昨日よりわずかに低く、硬い。よく見ると、目の下にほんのりと影があった。
「問題ありません」
そう答えると、リヒトは短く息を吐いた。
「約束は守ったようだな」
それだけ言ってまた歩き出そうとする。
責めるでも、褒めるでもない言い方だった。
——疲れてる。
そう思ったのは、たぶん気のせいじゃない。
昨日一日ずっと私のそばにいたわけじゃない。それでも、私の状態を把握して、指示を出して、政務もこなして……きっと、休めていない。
「……殿下」
呼び止めかけて、結局言葉が続かなかった。
心配です、なんて。言っていいのか分からない。
リヒトは何も言わずに去っていった。
その背中を見送りながら、胸の奥が少しだけざわついた。
私に、何かできることはないかな。
部屋に戻ってからも、その考えが頭から離れず、結局エマに相談することにした。
「エマ、ちょっといい?」
「はい、どうされましたか」
声を潜めて事情を話すと、エマは少しだけ目を丸くしてから、すぐに表情を引き締めた。
「殿下のご様子が気になる、と」
「うん。無理してる気がして」
エマは一瞬考え込むと、静かにうなずいた。
「でしたら、ノア様にお話ししてみましょう。殿下の側近ですから」
「いいの?」
「ええ。リズ様のお気持ちなら、きっと取り次いでくださいます」
その日のうちに、エマは本当にノアに話を通してくれたらしい。午後、ノアが部屋を訪れた。
「状況は聞きました」
いつも通りの穏やかな声だったが、どこか測るような視線が向けられる。
「一つ、確認させてください。リズ様は、殿下の政務にどこまで関わるおつもりですか」
「……できることなら、少しでも」
正直に答える。
「私、領地では帳簿の整理を手伝っていました。大したことじゃないけど、収支の確認とか、簡単な計算とか……」
男爵家だ。使用人も少なく、自然とそういうことは覚えた。それがここで通用するかは分からない。でも。
ノアは少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「なるほど。では、私が許可を出しますのでこっそり手伝うことにしましょう」
「本当?」
「ええ。補助的な確認作業なら、任せられるものもあります。むしろ——」
そこで言葉を切り、意味ありげにに続けた。
「殿下は“役に立ちたい”と思って動く人間を、嫌いません」
胸の奥が、すっと軽くなる。
その日の夕方、リズは小さな机に向かっていた。
広げられたのは、政務の中でも末端に近い収支報告書。
数字を追いながら、自然と背筋が伸びる。
——できることをやろう。
守られるだけじゃなくて。心配するだけでもなくて。
守られるだけでなく、婚約者として、ここに来た意味を自分の手でつかみにいくために。
リズは、ペンを取り最初の数字に線を引いた。
その日の終わり、ノアは政務室に立ち寄って簡潔に報告を済ませた。
「本日の補助確認、想定より早く終わりました。数字の抜けもありません」
リヒトは書類から目を離さず、淡々と問う。
「誰がやった」
「リズ様です」
一瞬だけ、ペンの動きが止まった。
「……頼んだ覚えはない」
「ええ。ご自身で申し出られました。領地で帳簿を扱っていたそうです」
沈黙。
やがてリヒトは視線を落としたまま言った。
「余計な負担をかけるな」
「ですが、役に立ちたいと」
ノアの言葉に、リヒトは何も返さなかった。
ただ、確認を終えた書類の束を一枚脇にずらす。
いつもより、確かに多い。
——無茶をしないと言ったはずだ。
だが、何もしないとも言っていない。
自分の立場を理解したうえで踏み込んできた。
それが余計に厄介だ。
守られることを良しとしないくせに、こちらの手を煩わせないよう最善を選ぶ。
本当に、素直じゃない。
リヒトは再びペンを走らせた。これ以上考えるのは今ではない。
主君のその様子にノアは静かに笑みを浮かべていた。
その夜、リズは自室で一人、指先のインクを拭いながら息を吐いた。
大したことはしていない。
それでも、今日一日を無駄にしなかったと思える。
少しだけ、ここに来た意味が見えた気がした。
明日もまた、できることを探そう。
そう心に決めて、リズは灯りを落とした。
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