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準備
しおりを挟むヴァイスハイムでの生活は、気づけば忙しなく過ぎていた。
政務補助として帳簿に目を通し、数字を拾い、確認を重ねる日々。
合間には侍従に呼び止められて立ち話をし、中庭では庭師の作業を眺めながら簡単な手伝いをする。
料理長とも顔なじみになり、試作だという料理を少量ずつ味見させてもらうことも増えた。
騎士たちとも自然と距離が縮んでいた。
ルーカスの部下たちは最初こそ緊張していたが、今では挨拶に軽い冗談が混じる。
気づけば、ここでの生活は「守られるだけの滞在」ではなくなっていた。
そんなある日。
部屋で書類をまとめていると、控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
入ってきたのはノアだった。相変わらず無駄のない所作で一礼すると、単刀直入に切り出す。
「王宮の案内をさせていただきますことのお知らせを」
一瞬、意味を測りかねて瞬きをする。
「……案内、ですか?」
「ええ」
それ以上でも以下でもない返事。
けれど、冗談や思いつきではないのは分かる。
「ですが私は内廷以外には出られないのでは」
そう口にするとノアはわずかに首を振った。
「殿下の判断です」
その一言で、話の重みが変わった。
「ここ数日、政務補助に集中されていましたね。殿下は、それを把握したうえで“息抜きも必要だ”と」
息抜き。
思いもよらない言葉に、思わずノアを見る。
「王宮を知らずに、ここでの役割を考えるのは酷だ、とも」
なるほど、と腑に落ちた。
ただ閉じ込めるのではなく理解させるための案内。
「それでも、自由に歩いていいとは」
「通常ならありえません」
ノアははっきりと言った。
「ですから今回は、殿下が同行されます」
その言葉に胸が小さく跳ねた。
——リヒト殿下。
考えてみれば、ここしばらく顔を合わせていない。
政務に忙しいのだろう。すれ違うことすらなかった。
少しだけ、寂しいと思っていたことに気づき、慌てて視線を落とす。
「分かりました」
そう答えると、ノアは小さくうなずいた。
「殿下なりの配慮です。“役に立とうとするばかりでは、長くはもたない”とも」
その言葉は、責めるようでも諭すようでもなかった。
「準備が整い次第、お迎えに上がります」
ノアが去ったあと、リズは椅子に座ったまましばらく動けなかった。
王宮の案内。殿下同行。
息抜き、という名の——気遣い。
守られているだけではない。
けれど、放り出されてもいない。
その微妙な距離感が、胸の奥に静かに染みていく。
その様子を見ていたエマは一度だけリズの顔をじっと見てから、にこりと微笑んだ。
「でしたら……少し、おめかししましょうか」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
「内廷以外へ出られるのは、正式なご案内ということになりますから。殿下も同行されるのでしょう?」
言われて、ようやく実感が追いついた。
王宮の“外側”へ出る。しかも、殿下と一緒に。
「でも、そんなに派手なものは……」
「派手にする必要はありません」
エマはそう言って、衣装箱の奥から一式を取り出した。エマに手伝われて身にまとったのは、ヴァイスハイム王国・騎士魔法学校幼少部の制服だった。
深い赤を基調とした上着は、子供用とは思えないほど仕立てが良い。
胸元から裾、袖口にかけて細く走る金の縁取りは派手すぎず、それでいて一目で王国の正規制服だと分かる意匠だ。
生地は軽く、触れると少しだけひんやりとする。
魔力の流れを妨げないよう織り込まれた魔法布で、動けば自然に身体に馴染む。
前はきちんと留められているが、首元は詰まりすぎていない。
白いインナーが少し覗き、そこに同じく金糸で縁取られた小さなリボンが結ばれていた。
可愛らしさを残しつつも、決して子供服には見えない絶妙なバランス。
腰から下は、膝丈より少し短いスカート。
歩きやすさを重視した作りで、裾には控えめなプリーツが入っている。
その下には黒のタイツ。肌を守るだけでなく、魔力の安定を助ける補助術式が施されているとエマが教えてくれた。
足元は、しっかりとした編み上げのブーツ。
柔らかい革製だが、足首まできちんと支える構造で、長時間歩いても疲れにくい。
実用性を最優先した形なのに、不思議と制服全体の印象を引き締めている。
仕上げに、胸元には小さな徽章。
騎士魔法学校の印であり、同時に「王宮内での通行を許可された者」である証だった。
鏡に映る自分を見て、リズは一瞬、言葉を失った。
——少し、背伸びをしたみたいだ。
けれど着られている感じはしない。
この国で学び、この国で歩くための服なのだと自然に思えた。
「とてもお似合いですよ、リズ様」
エマの言葉に、照れくさくて小さく笑う。
この服で、内廷の外へ出る。
王子の隣を歩く。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴った。
エマに整えられた制服姿のまま廊下に出ると、少し離れた位置にリヒトが立っていた。
近づくにつれて、改めてその服装に目がいく。
リヒトは、いつもの軍装をより格式高く整えたような装いだった。
漆黒を基調とした上着は身体に無駄なく沿う仕立てで、肩から胸にかけての線が凛と際立っている。
生地は重厚だが動きを妨げない魔法布で、光を受けるとほのかに艶を返した。
胸元には銀糸で刺繍されたヴァイスハイム王家の紋章。
過剰な装飾は一切なく、むしろ削ぎ落とされた印象だが、それがかえって地位の高さを物語っている。
腰には細身の剣。
儀礼用ではなく、実戦を想定した配置だと一目で分かる。
外套は着けていない。
代わりに、背中から漂うのは、王子というより「指揮官」の空気だった。
——隣に並ぶと、はっきりと分かる。
深い赤を基調にした自分の制服は、動きやすさと身分表示を兼ねたもの。
対してリヒトの黒は、国そのものを背負う色だ。
視線が合った瞬間、リヒトの目が一度リズの全身をなぞった。
ほんの一瞬。
だが、評価するような、確認するような、そんな間。
「……その格好は」
低い声が落ちる。
「案内用の制服だそうです」
言いながら、少しだけ居心地が悪くなる。
似合っていなかっただろうか。
「悪くない」
それ以上は言わない。
褒めているのかどうかも分からない。
けれど視線が逸れたあと、歩き出す速度がほんのわずかに落ちた。
——合わせてくれている。
その事実に気づき、リズは無意識に背筋を伸ばした。
王宮の回廊に、二人の足音が重なる。
赤と黒。軽やかさと重み。
並んで歩く姿は、奇妙なほど自然だった。
ただの案内ではない。
ただの付き添いでもない。
この国の王子と、
その隣に立つ者として——
リズは、初めてその自覚を持って一歩を踏み出した。
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