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見せない素顔
しおりを挟む侍従や騎士たちが行き交う回廊に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
正確には、視線の数が増えたのだと気づく。
すれ違う侍従が、一瞬だけ視線をこちらに向ける。
すぐに気づいたように姿勢を正し、深く礼を取った。
それは私に、というより――殿下の隣にいる存在へ向けられたものだった。
騎士たちも同じだ。遅れのない敬礼。けれど、視線の端でこちらを確認しているのが分かる。
さすがに王宮の外廷ともなれば、人の目は多い。
その多くが殿下に向けられ、そして一拍遅れて、隣を歩く私へと流れてくる。
落ち着かない――そう思った、その瞬間だった。
殿下は何も言わず、歩調も変えないまま、ほんのわずかに立ち位置をずらした。
人の流れと視線が集まる側に自分が立ち、私は自然と内側へ収まる形になる。
触れられてはいない。
けれど、はっきりと「守られている配置」だった。
回廊に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。ひんやりと澄んでいるのにどこか満ちている。目に見えないはずの魔力が、皮膚の上をなぞるような感覚。
「ここは?」
思わず尋ねると、殿下は一拍置いてから答えた。
「中央魔導回廊。この城の魔法機構の中枢だ」
壁には、複雑な幾何学模様の魔法陣が埋め込まれている。淡い光が脈打つように流れ、天井から床へ、床から奥へと繋がっていた。
まるで、城そのものが呼吸しているみたいだ。
「すごい……」
言葉が漏れる。
恥ずかしいほど素直な声だったのに、殿下は咎めない。
「この回廊があるから、王宮は常に結界で守られている。魔力供給、転移制御、非常時の防衛――すべてここを通る」
つまり。
ここは、王宮の心臓部。
「……私が入ってもいい場所なんですか?」
そう口にすると、殿下が初めてこちらを見た。
一瞬だけ。
けれど、その視線ははっきりと私を捉えていた。
「婚約者だからな」
それだけ言って、また前を向く。
許可でも説明でもない。事実として告げられた一言。
胸の奥が、静かに熱を持つ。
なるほど。だから皆、あんな目で見ていたのか。
私は殿下の隣を歩く存在として、ここにいる。
そう意識した途端、背筋が自然と伸びた。
回廊を出ると同時に、胸の奥にあった微かな重さがすっと和らぐのを感じる。気のせいかと思ったが、違う。
空気が、柔らかい。
魔導回廊で浴びた濃い魔力を纏った私を、殿下の魔力が中和していく。押し付けられる感覚はなく、むしろ呼吸がしやすい。
「ここは外廷だ。魔力濃度も、人の出入りも多い」
前を見たまま、殿下が淡々と告げる。
「気分が悪くなったら、すぐ言え」
心配を装った声音ではない。命令でもない。
事実を並べただけの、冷静な忠告。
それなのに、不思議と不安は湧かなかった。
大丈夫だ、と言いたくなる余裕があるのは、
きっと、この無言の配慮のせいだ。
婚約者になったから、ではない。
気遣っている、と言葉にするほど甘くもない。
それでも確かに殿下は、私が“無理をしないでいられる場所”を作ってくれている。その事実だけが、静かに胸に残った。
実務館へ向かう回廊に入ると、空気はさらに張り詰めたものへと変わった。
外廷よりも人は少ない。けれどすれ違う者たちの足取りには迷いがなく、誰もが忙しなく書類や魔導具を抱えている。
ここが王宮の中枢。
実務館――執務区画。
「ここから先は、王族と高位官僚しか立ち入らない区域だ」
殿下が淡々と告げる。
「今日案内するのは一部だけだ。政務の邪魔になる」
つまり、かなり配慮されている。
扉の前で控えていた官僚たちが、殿下の姿を認めるや否や、ぴたりと動きを止めて一斉に頭を下げた。その中に、ちらりと私を見る視線が混じる。
探るような目。
好奇と警戒が半分ずつ。
「こちらは、私の婚約者」
殿下の一言で、空気が変わった。
「アーデルリヒ王国、エーヴェルシュタイン男爵家三女、リズだ」
余計な説明はない。けれど、その紹介だけで十分だったらしい。官僚たちの表情が一瞬だけ揺れ、すぐに姿勢が正される。
「……失礼いたしました、リズ様」
“殿下の婚約者”
その肩書きが、ここでは何よりも強い。
実務館の中は、想像以上に整然としていた。
書類は魔導式の仕分け棚に収められ、帳簿は光の文字で空中に展開されている。人の手と魔法が、無駄なく噛み合っている光景。思わず視線が走る。
「興味があるか」
不意に問われ、私は一瞬言葉に詰まった。
「はい。少しだけ」
正直だ。殿下はそれを咎めることもなく、執務卓の一つに近づいた。
執務卓の上には広げられた魔導帳票を、官僚たちが次々と確認していた。数字はすでに整理され、帳簿としての体裁も整っていた。
私は少し離れた位置からそれを眺めていた。
触る必要はない。けれど、内容を追うことはできる。
……やっぱり。
「この形式、第三領の鉱山収益ですね」
ぽつりと口にすると、空気が一瞬止まった。
官僚の一人がぎょっとした顔でこちらを見る。
子供の声が割り込むことなど、想定していなかったのだろう。
「失礼ですが、リズ様。それが分かるのですか」
「はい。それで帳簿じゃなくて、分類の話ですが」
私は一歩も前に出ず、そのまま続けた。
「この収益率、表向きは安定しているように見えますが、鉱脈の更新周期から考えると二年後に一度落ちるはずです」
数人が、息を呑む。
「魔導鉱石の産出量は、一定じゃない。王宮図書室で読んだ地質報告書に似た推移がありました」
“本で読んだ”
それだけのはずなのに、言葉に確信が混じる。
官僚の一人が、慌てて別の魔導記録を呼び出した。
光の文字が空中に展開され、過去の推移が表示される。
一致している。
「確かに」
誰かが低く呟いた。
殿下は最初から口を挟まない。止めもしない。
ただ、私の言葉と官僚たちの反応を静かに見ている。
「だから、今のうちに補填案を用意しておいた方がいいと思います」
言い切ったあと、少しだけ息を吸う。
出しゃばったかもしれない。そう思った瞬間。
「続けろ」
殿下の短い一言が落ちた。
「知識として正しい。実務に落とせるかどうかは、こちらで判断する」
否定ではない。評価だ。
官僚たちの視線が、明らかに変わった。
“殿下の婚約者”ではなく、“話を聞く価値のある存在”として。私は、胸の奥で小さく息をついたーー本を読んできて、よかった。実に子供らしい安堵だった。
次の案内場所へ向かうため、私たちは魔導エレベーターの前で足を止めた。王宮の中枢を縦に貫くそれは、魔力を動力にした巨大な昇降装置だ。
「これ、初めて見ます」
思わず声が弾む。
床に刻まれた魔法陣、淡く脈打つ光、壁を流れる魔力の軌道。
子供の好奇心がどうしても抑えきれなかった。
魔導エレベーターが起動し、床下から低い振動が伝わってくる。淡く光る魔術式が壁一面に浮かび上がり、一定のリズムで脈打っていた。
「わ、」
思わず壁へ一歩近づく。
触れても問題ないとは聞いていた。
けれど、実物を前にすると好奇心が勝ってしまう。
「この術式……浮遊だ。それと上昇補助。あ、ここは重力制御……」
無意識のうちに指先が光の軌道を追う。
組み合わさる魔術式を読み解くことに夢中で、周囲のことがすっかり頭から抜け落ちていた。
「……あれ?」
気づいたときには殿下の方を完全に放置している。
しまった、と思ったその瞬間。
「婚約者を放り出すやつがあるか」
低く、けれど確かに柔らかい声。
――え?
くす、と短い笑い声が続いた。
私ははっとして振り返る。そこにいたのは、いつもの無表情な殿下ではなかった。
穏やかに、ほんの少しだけ口元を緩めた殿下。
目元まで和らいだ、作っていない笑み。
時間が、止まったように感じた。
「……っ」
声が、出ない。
その表情があまりにも自然で、あまりにも――近くて。
隣にいたノアが、目を見開いたまま固まっているのが視界の端に入る。
その空気を感じ取ったのか、次の瞬間、殿下は何事もなかったかのように、すっと表情を引き締めた。
「……何だ」
いつもの声。いつもの顔。けれど。
「いえ」
ノアは一拍置いてから、肩をすくめた。
「そのような自然な笑顔は、久しぶりに拝見したもので」
一瞬、正直すぎる答えに空気が凍るかと思ったが、殿下はため息をひとつ吐いただけだった。
「余計なことを言うな」
叱責ではない。ただの事実確認のような声音。
それでもノアは、どこか懐かしそうに目を細める。
沈黙のまま、光の流れる壁を見つめている。
私はその横顔を盗み見た。
氷の王子。
冷たい、近寄りがたい存在。
……本当に?
さっき見た、あの一瞬の笑みが胸に残って離れない。
私が知らなかった顔。きっと、多くの人が知らない顔。
エレベーターが目的階に近づき音もなく減速する。
「着くぞ」
殿下の声は、いつも通り低く落ち着いていた。
最後の案内場所へ向かう前に、私は確かに、殿下との距離がほんの少し縮んだのを感じていた。
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