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別の顔
しおりを挟む音楽が途切れた瞬間から夜会は別の顔を見せ始めた。
拍手とともに生まれた余韻はすぐに薄れ、代わりに広間を満たすのは視線と計算、そして距離感。ここからが本番だ。
「行くぞ」
小さくそう告げられ、私は頷いた。
ダンスのときとは違い、今度は一人一人と向き合う時間になる。最初に声をかけてきたのは穏やかな笑みを浮かべた壮年の貴族だった。
(この人)
頭の中で、情報が浮かび上がる。
王宮資料で見た名前。表向きは温厚、だが領地では税の徴収を強め、民の不満が高まっていた人物。
「初めてお目にかかります。リヒト殿下の婚約者、リズと申します」
教えられた通り、過不足のない礼。
「これはこれは……お噂はかねがね」
探るような視線。どこまで知っているかを測っている。私は微笑みを崩さず、深入りしない。挨拶だけで話を切り上げる。
次に近づいてきたのは年配の女性だった。
(この方は……)
長年、王国の魔導設備の保守に携わってきた人物。夜会の場では目立たないが、いなければ国が回らない。
「いつも、王国の魔法基盤を支えてくださっていると聞いています」
そう伝えると、相手は一瞬目を見開いた。
「……まあ」
「まだ勉強中ですが」
そう前置きして、言葉を添える。
「とても、尊敬しています」
それだけでその人の表情が柔らいだ。
「殿下」
小さく、囁くような声。
「良い方を選ばれましたね」
いつの間にか背後にいたリヒトに驚く。
「はい」
そう答えると、わずかに視線をこちらへ向けた。
挨拶は続く。誰に、どこまで踏み込むか。誰には、距離を保つか。すべては事前に覚えた情報と、今この場で感じる空気のすり合わせ。
(夜会ってこういう場所なんだ)
華やかできらびやかで。その裏側で、静かに価値を測られる場所。
私は息を整えた。怖くない。隣に立つ人がいるから、ではない――自分が、ここに立つと決めたから。
リヒトの歩調に合わせ、次の挨拶へ向かう。
夜会はまだ終わらない。
けれど私はもう、“流される側”ではなかった。
最後の曲が終わる。
長く続いていた夜会は気づけばざわめきも落ち着き、
談笑の輪がひとつ、またひとつと解けていく。
グラスが置かれ扉の向こうへ人が流れていくのを眺めながら、私は小さく息を吐いた。
「もう大丈夫だ。これ以上挨拶を求められることはない」
その言葉に肩の力が抜ける。
「思ったより長かったですね」
「夜会とはそういうものだ」
淡々とした返事。けれど、どこか労わるような響きがある。
大広間を出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れた。
灯りは落とされ先ほどまでの華やかさが嘘のように静かだ。
「今日はよくやった」
歩きながらぽつりと告げられる。
「初めてで、あれだけ立ち回れれば十分だ」
「ありがとうございます」
正直に言うと、足は少しだるいし頭もいっぱいだ。
でも、不思議と嫌な疲れじゃない。
「怖くはなかったか」
少しだけ間を置いてからの問い。
「……緊張はしました」
そう答えて、少し考える。
「でも、逃げたいとは思いませんでした」
隣を歩く背中を見て、続ける。
「ちゃんと、立てていた気がします」
リヒトは足を止めない。
ただ、ほんの一瞬だけ歩調を緩めた。
「それでいい」
それだけで十分だった。
やがて、分かれ道に差し掛かる。
「今日はもう休め」
「はい」
夜会は終わった。
拍手も、視線も、評価も、すべては大広間に置いてきた。今残っているのは、静かな回廊と胸の奥に残る確かな感覚だけ。
――やりきった。
その実感を抱いたまま、リヒトと別れると回廊を進む。
隣には、いつの間にか護衛についたルーカスがいた。
夜会の間、壁際に控えてずっと視線を切らさずにいたのを知っている。
「どうだった?」
歩きながら、ぽつりと聞く。
「私、ちゃんとやれてた?」
ルーカスは一瞬だけ考える素振りを見せてから、静かに答えた。
「ええ。立派でしたよ」
「本当?」
「最初のダンスも、その後の立ち回りも。壁際から見ていましたが、隙はありませんでした」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
「よかった……」
それから、数歩。
「でも……ちょっと、緊張しすぎたかもで……」
声が、少しだけ緩む。
「ずっと背筋、伸ばしてて……」
歩幅が、わずかに乱れた。
「リズ様?」
次の瞬間、足がもつれる。
「――っ」
身体が傾くより早く、しっかりと腕が伸びてきた。
「リズ様」
支えられて、顔を上げる。
「ごめ……ちょっと……」
言葉が途切れる。
「……ねる」
そう言い切ったところで力が抜けた。
完全に、意識が落ちる。
「……」
ルーカスは一瞬だけ目を瞬かせた。
それからため息ひとつ。
「……本当に、頑張られましたね」
失礼致します、と小さく告げて慎重にリズを抱き上げる。そのまま近くにいた騎士に声をかけた。
「エマをリズ様の部屋へ呼んできてくれ。至急だ」
「はっ」
夜会の灯りは、もう遠い。
今はただ、眠る小さな婚約者を無事に部屋へ戻すだけ。
部屋の扉が開いた瞬間、エマは腕に抱えられたリズの姿を見るなり、くすりと小さく笑みをこぼした。
「やはり、限界まで頑張っていらしたのですね」
そう言って、すぐにベッドの方へと導く。
ルーカスは言われるまま慎重に歩み寄り、眠るリズをそっと横たえた。
「侍女を数名呼びます」
エマの合図で、控えていた侍女たちが静かに入室する。
手際よく靴を脱がせ、ドレスを緩めると寝やすい姿勢へと整えていく。
その様子を一歩引いた位置で見届けてから、エマはルーカスへと向き直った。
「あとは、こちらでお任せください」
「承知しました」
一礼して踵を返そうとした、その前に。
「――軽かった」
思わず零れた言葉にエマは視線を向ける。
「本当に……とても」
ルーカスは、眠るリズから目を離さずに続けた。
「あの体で、夜会を戦い抜かれたのですね」
一瞬、部屋に静寂が落ちる。
エマは穏やかに微笑んだ。
「そうですね」
それから、はっきりと。
「だからこそ」
視線を上げ、ルーカスを見る。
「私たちで、守りましょう」
「……ああ」
その言葉に迷いはなかった。
後ろに控えていた騎士やリズの近くに控える侍女たちも、何も言わずに静かに頷く。
眠る少女は、何も知らない。けれど、この夜。
彼女の知らないところで確かな誓いが交わされた。
この小さな婚約者を、この王宮で、必ず守ると。
夜は、深く静まり返っていた。
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