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危機
しおりを挟む翌日、その違和感は音になって現れた。
「――ブォン……」
低く、腹の奥に響くような音。
遠くからではない。近い。王宮のどこか内部から。
「……?」
手が止まる。次の瞬間、足元――正確には床のさらに下から。微かな振動が伝わってきた。
ブォン……
ブォン、ブォン……
一定のリズムではない。けれど、偶然とも思えない。
(……王宮設備の)
頭の中で言葉が形になる。普段なら聞こえない音。魔力循環が正常なら、決して表に出ないはずの唸り。
窓の外を見る。中庭は変わらない。
庭師も、侍女も、誰も異変に気づいていない。
「まずい」
小さく呟いた、その直後。
ブォンッ――!
今度は、はっきりと。
床に刻まれた魔術式の一部が一瞬だけ淡く光った。しかしそれはすぐに消えた。まるで見間違いだったかのように。
でも。
(見間違いじゃない)
前の人生で“最初は誰も気にしなかった”音。
そこから始まった悲劇。同盟国だといっても内情を全て把握している訳では無い。その中でも確か結構大きな事件だったのを覚えている。
軽微な異常。後回しにされた違和感。
そして気づいたときには、もう遅かった。
王宮地下の魔力循環設備が連鎖的に暴走し、制御不能となった魔力が噴き上がる。
避難が間に合わず、封鎖も間に合わず。
結果多数の死者を出した、王宮設備魔法暴走事故。
公式には、《王宮魔力循環事故》
そう名付けられた。
でも、現場を知る者たちは別の名で呼んでいた。
――「沈黙の回廊事件」。
音が消えたあと回廊に残ったのは、声を上げる間もなく倒れた人々だけだったから。
胸の奥が冷たくなる。
まさか。同じことが、今――?
私は深く息を吸い状況を把握する。
リヒト殿下は今この王宮にはいなかった。
正確には、内廷にはいない。王宮の敷地内ではあるが、内廷からは距離のある場。外廷にいた。
本日は騎士団の視察。
新たに配備された部隊の動きと、訓練内容の確認。
形式的なものではなく、殿下自身が剣を取ることもある重要な予定だ。
(戻るとしても……)
頭の中で、距離を測る。
全力で戻っても、ここに着くまでにはどうしても時間がかかる。
早くて――数十分。遅ければそれ以上。
(間に合うか、間に合わないか)
本当に、ぎりぎり。
その事実が胸に重くのしかかる。
ブォン……
低く、不穏な唸りは続いている。
誰かが気づいてからでは遅い。
報告を上げて、判断を仰ぐ時間もない。
(でも)
一人で抱え込む気はない。無茶はしない。被害を出さない。殿下が戻るまでの“時間”を作るために。
外廷で剣を振るう彼が、ここへ戻って来られるように。そしてこの王宮で過ごす人達を守るために。
そのための判断を、今は私が下す。
まず向かったのはエマのところだった。
信じてもらえるかは、分からない。
自分でもうまく説明できないのだから。
それでも。誰かに伝えなければならなかった。
「エマ」
呼び止めると彼女はすぐに足を止めた。
「どうされましたか、リズ様」
その声はいつも通り穏やかで、だからこそ胸が少しだけ苦しくなる。
「……今、この王宮で」
一度、言葉を探す。
「説明はちゃんとできない。でも今、この王宮で危機が起きてる」
エマの表情がわずかに引き締まった。
「王宮設備の魔力の流れがおかしい。このままだと、みんなの命に関わるかもしない。だから、お願い」
視線を逸らさずに、続ける。
「内廷にいる全員の退避の準備をしてほしい」
一瞬の沈黙。エマは、リズの顔をじっと見つめた。
冗談ではない。思いつきでもない。
そう伝わるほど、リズの表情は真剣だった。
「分かりました」
エマは迷いなく頷いた。
「リズ様がそこまで仰るのであれば。信じて、指示を出しましょう」
そのまま振り返り通路の先へ声をかける。
「ルーカス!」
すぐに重い足音が近づいてきた。
「何事ですか」
「内廷の退避準備を。理由は後ほど。ですが緊急です」
ルーカスは一瞬だけリズを見る。
そして、深く頷いた。
「承知しました。すぐに騎士たちを動かします」
説明は必要なかった。この場にいる誰もが分かっている。これは、様子を見るべき事態ではない。
エマはすでに指示を飛ばし始めていた。
侍女たちへ。執事たちへ。内廷に関わるすべての人へ。
静かに、しかし確実に。
王宮の歯車が、“退避”という方向へ回り始める。
私はその背中を見届けながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
――まずは、これでいい。
そして。
「ルーカス。もうひとつ頼みたいことが」
「何なりと」
「殿下に、『リズが待っている』と伝えてください。それで必ず伝わるはず」
「承知しました」
ルーカスは私の言葉にしっかり頷くと、また違う騎士に指示を飛ばした。
あとはこの異変の中心へ向かい、時間を稼ぐだけ。
殿下が戻る、その瞬間まで。
「エマ、ルーカス」
二人を呼び止めると、最後の指示を出す。
「二人にお願いがある」
自然と声が低くなる。
「これから向かう場所には――」
一度、言葉を区切る。
「殿下以外、決して立ち入らせないで」
エマの瞳が揺れた。
「リズ様、それは……」
ルーカスも、はっきりと眉を寄せる。
「一人で行かれるおつもりですか」
「うん」
迷いはない。
「中央魔導回廊が供給している設備の中で、いちばん危ない場所に行く。殿下が戻られるまで、時間を稼ぐ」
言い切った瞬間、二人の表情がはっきりと曇った。
「それは危険すぎます」
ルーカスの声は、護衛としてのものだった。
「我々が同行を――」
「だめ」
きっぱりと遮る。
「巻き込みたくない。もし魔力が暴走しかけていたら、人が多いほど危険になる」
エマが一歩踏み出す。
「ですが」
「無理はしない。約束する」
視線を逸らさず、はっきりと。
「止めるんじゃない。抑えるだけ。殿下が戻るまで時間を作るだけ」
一瞬の沈黙。
「必ず無事で帰ってくる」
声が少しだけ震えそうになるのを抑える。
「私を信じて」
それから、もう一言。
「殿下のことを待つ、私を信じて」
エマは唇を噛みしめたあと、深く息を吐いた。
「……分かりました」
声は震えていない。
「ですが」
真っ直ぐにリズを見る。
「必ず、戻ってきてください」
「うん」
ルーカスも、拳を胸に当てて一礼した。
「殿下が戻られるまで、この場所は我々が守ります」
「ありがとう」
短く答えて、踵を返す。もう迷わない。
背後でエマの声が飛んだ。
「――殿下が戻られ次第、必ず避難してくださいね!」
私は振り返らず、手を上げて応えた。
中央魔導回廊へと続く通路はひっそりと口を開けている。殿下が戻るまで。
そして殿下が戻ってくる“場所”を、失わないために。私は一人で、その中へ足を踏み入れた。
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