おてんば姫宮の初恋

栗木 妙

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【終】

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 それは睦月むつきも終わりに差し掛かったとある吉日、朝から小雪の散らつく寒い日のことだった。
 夜になって更に冷え込むと、降る雪の勢いも増し、きっと明日は積もるだろうなと囁き交わされる声が、そこかしこで聞こえていた。
 火桶の熱だけでは暖を取るにも心もとない寒さの中、衾覆ふすまおおいまでを終えてからようやっと人の気配が無くなった寝所にて、こっそりと私はタメ息を吐く。
「――疲れましたか?」
 そんな私の様子に目ざとく気付いてくれたのか、隣からそんな気遣わしげな声が投げかけられた。
 振り返ると、そこには半身を起こしてこちらを覗き込むように見つめる、私と一つ衾に包まれている人の姿がある。
「そうね……朝から色々ありすぎて、少し疲れちゃったかも」
 くすっと軽く苦笑を漏らし、おもむろに横たわっていたしとねの上から身体を起こした。
 つられたように起き上がる隣の彼を見上げ、「結婚って大変ね」と、ボヤくような口調で冗談交じりに語りかける。
「こんなに気疲れするものだったとは思いもしてなかったわ。ずぅーっと誰かしらに囲まれていて、よもやねやに入るまで一人でほっと息を吐く暇も無いなんて」


 そう……今日は、ようやく迎えた婚儀の日―――。


 今日、晴れて麗景殿れいけいでんを出、後宮を出立した私は、右大臣うだいじん家――ではなく、ここ六条ろくじょうに在るやしきへと入った。私を妻として迎えるにあたり、保晃やすあきさま個人の住まいとして、もともと在った母方の亡き祖父君の邸を譲り受け、改築の手を入れてくれたのだそうだ。
 まだ真新しい木の香の漂うこの邸に足を踏み入れた時、今日からここで新しい生活が始まるのかと、心が躍った。
 そして、その新たな生活の中、隣に居るのは、今日から新しく私の家族となる人、で―――。


「昼間ゆっくり身体を休めてください。今日と同じような夜が三日間、まだ続きますからね」
 そんな言葉と共に、こちらへと差し伸べられたてのひらが、その指が、ゆっくりと私の頬を滑る。
 それが少しくすぐったくて、思わずふふっと笑い声が漏れてしまった。
「…ねえ、保晃さま?」
 大きなその掌に自分のそれを重ねて止めると、軽くおねだりでもするような上目遣いを作って、おもむろに、そう呼び掛ける。
「ようやく二人きりになれたんですもの……少しだけ、お話を、してもいい?」
 少し驚いたように瞠られた、その瞳を覗き込むように見つめて、なおも私は畳み掛けた。
「晴れて夫婦めおとになれたら、あなたにだけ打ち明けようって、ずっと心に決めていたことがあるの」
「それは、是非とも聞かせて欲しいですね」
「うん、あのね―――」


 それは、私の母上の話だ。
 この当世、元服しいみなを与えられる男子と違い、貴族の娘には、諱どころか名すら与えられる機会がほとんど無いことを、前々より母上は不満に思っていたそうだ。
 娘が一人なら、『姫』と呼べば事足りる。複数いれば、『大姫』『中姫』…だの、『一の姫』『二の姫』…だのと、個々を呼び分ける呼称は幾らでもある。幼名すら付けてもらえないこともザラだった。
 母上ご自身にしても、その例に洩れず。
 今でこそ、入内じゅだい中宮ちゅうぐうにまでお立ちあそばされているがゆえ、ちゃんとした諱もお持ちでいらっしゃるが。
 生まれた時よりずっと、祖父の三番目に生まれた娘であったことから、周囲の皆に『三の姫』と呼ばれていた。
 そのことを何ら不満に思うこともなかったが、しかしそれが一変したのは、父上と出会ってからだった。
 まだ幼い頃、初めて父上に出会い、親しくなって、名を尋ねられた時。
 そこで母上は、自分には確固とした名が無い、ということを、ようやく自覚したのだという。
 恥ずべきことだなどと思ったことは無かったそれが、好きになった人から尋ねられ答えられなかった、それに至って初めて、恥ずかしい、悲しい、と感じてしまった。
 しかし父上は、そんな悲しそうな母上を見て、『じゃあ僕が名を付けてあげる』と言ってくれたのだそうだ。
 父上から『二人の間だけで呼び合える名』を貰ったことで、誰かに――こと好きな人に自分の名を呼んでもらえる喜びというものを、母上は初めて知ることが出来た。
 だからこそ母上は、自身と同じく名を与えられることの無い貴族の姫君に同情し不憫に思うようにもなり、そして更には、自分に娘が生まれたらちゃんと名を付けて呼んであげよう、と、結婚前からそう固く心に決めていたという。
 そして生まれた私は、『雪』という幼名を付けてもらい、両親をはじめ周りの皆にその名で呼ばれて育ってきた。


「――でもね……『雪』は、あくまでも呼び名であって、ではないのよ、って」
「『真名』……? 諱のことですか……?」
「そうなんだけど……でも、少し違うの」
 私は幸いにも、宮姫として生まれ付き、更には内親王ないしんのうとして宣下せんげまでいただいたおかげで、既に『明子あかるこ』という諱をいただいている。
 しかし、母上の言う『真名』は、それではない。
「確かに諱も大切なものだけど……でも母上にとっての真名は、父上から貰った、父上だけが呼ぶことのできる名のことよ。――あれは、まだ十歳になる前のことだったかしら……これまでの諸々を話して聞かせてくれた母上が、だからあなたにも真名をあげるわ、って。いつか、あなたにも特別な誰かができたら、その名を呼んでもらいなさい、って。そう言ってくださったの」


“姫”として生まれた以上、このさき諱を付けてもらえる機会など無いかもしれない。
 しかも政略結婚が主流の世であれば、恋をした殿方と結ばれることも叶わぬやもしれない。
 ならば、せめてもの心の拠り所になるようにと、親である自分が与えてあげよう。“特別な誰かにだけ呼んでもらえる名”を。
 ――それが母上の言う、『真名』。


「私は雪の日に生まれたの。だから『雪』の名をもらったわ。その日は、ちょうど今夜のように……明け方から降り始めた雪が夜になってもなお止むことなく降り続けて、一晩越したら、みやこ中が大層な深雪みゆきに覆われていたそうよ」
 そこでふと、下げられた御簾みすの外へと視線を投げ、今は閉じられている蔀戸しとみどの向こうへと想いを馳せる。
 外は今、どのくらい雪が積もっているのだろう。
「それを教えてくれた父上がおっしゃったの。――降り積もる雪を、溢れんばかりの幸いに変えられるように、と。雪の細かな一粒一粒を積み重ねた深雪のように、小さな一つ一つの幸せを積み重ねてゆける子であるように、と」
 そして私は視線を戻す。
 隣から私を見守ってくれている、背の君となる人に。
 視線を合わせ、笑顔とともに、私はそれを告げた。


「――だから、私の真名は『みゆき』というの」


 ずっと…ずっとずっと、夢見ていた。
 その名を教えてもらって以来、いつか特別な誰かに、その名で呼んでもらえることを。
 今日、やっとその夢が叶う。
 叶えて欲しい。今こうして目の前にいる、この人に―――。


「幸、と……私がそう呼んでも、よろしいのですか……?」
「ええ、是非」
 どことなく躊躇ためらいがちな口調で、そう問いかけてくる彼の手の上に、そっと自分のそれを重ねる。
「保晃さまだから、呼んで欲しいの。――私が、ずっと大切にしてきた名、だから……保晃さまにだけ、呼んで欲しい……」
「姫……」
「お願い……二人だけで居る時は、その名で、呼んで……?」


「―――幸姫……」


 その瞬間。
 ああ、母上の言っていた好きな人に名を呼んでもらえる喜びとは、まさにこういうことなのか、と……それが実感として理解できたような気がした。


「嬉しい……なんか今、私、すごく幸せ……!」
 思わず感極まって泣きそうになってしまい、それを隠そうと、慌てて両手で顔を覆った。
 それに……嬉しいんだけど、なんだかミョーに気恥ずかしくもある。手の下でじわじわと熱を帯びていく頬に気付いて、ますます顔を上げられなくなった。
 そんな私の肩に、ふいに温かなぬくもりが載せられる。
「…ああ、やっぱり冷えてしまいましたね」
 薄いひとえの上で、肩から首筋を滑るように這う、そのぬくもりが、やがて頬を覆う私の掌に辿り着き、それを取り払った。
「お風邪を召される前に、温めてさしあげないと」
 そして、ゆっくりと身体ごと、その逞しい胸板に引き寄せられた。
 背中に回された腕が、きつく私を抱きしめる。
「幸――素敵な名をいただいたのですね。そのように大切な名を教えてくれた、そんなあなたの想いに恥じぬよう、私もあなただけを心から愛し、大切にお護りします」
 吐息の熱さまで感じるほどに耳もと近くから流れ込む、そんな心地よい声と言葉。――なんかもう、眩暈がしそうだ。
「私も今とても幸せですよ、幸姫。――でも、もっと……あなたの幸せを、どうか私にも分けてください」
「保晃さま……」
「まだ全然、あなたが足りない」
 ふいに回された腕が緩み、互いの鼓動が溶け合うかと思うくらい密着していた身体が離れる感覚を覚えて。
 それを淋しく思った私が視線を上げると、同時に片頬が、熱いほどの掌で覆われる。
 こちらを見下ろしてくる眼差しを受け止めると、頬に触れていた手の親指が、ゆっくりと唇を撫でた。――まるで催促しているかのように。
 少しの間、そのまま私たちは見つめ合い。
 やがて瞼を閉じた私の唇に、指のそれではない、あたたかなぬくもりがもたらされる―――。


 ――いま雪は、どのくらい積もっているだろう。


 どうか積もって欲しい、と、私は願う。
 真っ白な深雪で、幼い心に残された影ごと、その綺麗な笑顔を曇らせてしまうもの全てを、覆い尽くしてしまえればいい。
 積もった雪のぶんだけ全部、私が幸せに変えてあげるから。小さな幸せを見つけて、たくさんたくさん、積み重ねていってあげるから。
 だからもう、失うことを怖がらないでいいの。
 この先ずっと、何があっても私はあなたの隣にいる。そしてきっと、ずっとあなたを愛し続けていく。
 融けることの無い雪を、あなたの中に、ずっとずっと積もらせていく。


 ――二人で一緒に、幸せになりましょう、ね……?



          *



 ――まだ新しい木の香が漂う六条邸で。
 共に初夜を過ごし、これまでになく仲良しになった私たちは、無事に三日後の露顕ところあらわしも迎えられ、晴れて夫婦となったのでした。
 そんな目出度い席だというのに、当の私が睡眠不足でフラッフラだったことは……きっと言わぬが花、なのでしょうね……。


 まあ、何だかんだとありつつも……どうやら私は、今このうえもなく幸せです。






【完】




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