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【7】
しおりを挟む―― 一体、何が起こってるの……?
今この場で起こっているであろう事実の、当事者が自分であると、どうしても納得できない。――というよりは、頭が納得するのを拒否している、というのが正しいだろうか。
――何がどうなって、こうなった……?
なぜ私が、よりにもよってアルフォンス様の婚約者として、ここに居るようなハメになっているのか。
わからなさ過ぎて眩暈がする。
思わず、傍らに在る壺を載せた台に手をつくと、その場にずるずるとしゃがみ込んでしまった。
「おい、ちょっと……!?」
「大丈夫か……!?」
そこで慌てたように、目の前に立っていた二人も膝を突く気配がするも……それに対し、笑って『大丈夫です』と返せる余裕など、今の私が持ち合わせていようハズもない。
しゃがんだ姿勢で膝に突っ伏し、深く深ーく、タメ息を吐いた。
それを何回か繰り返し、何とか深呼吸で気持ちを落ち着かせようと努める。
気持ちが落ち着いたところで、何が何やらサッパリわからないことにはコレッポッチも変わらないけれど……とりあえず行動には起こせる。
「どこか落ち着ける場所にでも移るか……」
「ああ、少し彼女を休ませよう……」
「――要りません」
頭の向こうから気遣わしげに交わされるお二人の会話を、そう唐突に言葉を差し挟んで止める。
のろのろと、突っ伏した膝から頭を上げると、改めて一つ、息を吐き。
そのまま無言で立ち上がった。
「――帰ります」
「「は……!!?」」
言うや踵を返したと同時、「イヤちょっと待てぃ…!」と、背後から肩を掴まれ引き留められる。
そして、すかさず正面に回り込まれ、行く手までをも塞がれた。――ちっ、さすが腐っても騎士サマね、反応が素早いったら……!
「その結論は、いささか早計ではないのかなっ……!!」
「気持ちはわかる! わかるけど! せめてアルフォンス様の言い分も聞いてあげようっ……!!」
「それを聞いて結論を出すのは、別に後日でも構いませんよね?」
「イヤそれはそうだが、しかしっ……!!」
「その事情を知った以上、何も納得していないまま、ここに居るワケにはいきません。要らぬ誤解を招かぬためにも、まずはこの場からいなくなっておくことが、さしあたり私が取るべき最善の手段ではありませんか?」
「ウン、それは正論だねッ! 正論なんだけどッッ……!」
「君には、何も知らなかったことにしてアルフォンス様に合わせてさしあげる、という手段も残されている……!」
「論外です」
「デスヨネー……ではなく! いま君に逃げられちゃったら、俺らの立場ないから! 頼むから、ここに居てっ!」
「そんなもの、私の知ったことではございません」
「よし、改めて冷静に話し合おうか!」
「何も知らされていない人間に、話し合える余地なんて、あるはずもないでしょう」
「だからー……!!」
「いい加減、そこを通してください。――本当に、私にはここに居ていい理由なんて、何も無いのよ……!!」
言いながら、自分が情けなくなってくる。
私には何も無い。――ファランドルフの家名に相応しい家柄も、地位も、身分も、財産も、知識も、美貌も、何も、何も……!
アルフォンス様の隣に“婚約者”として立ってもいい資格を、私は何も持ってなんかいないのだ。
自分の気持ちを自覚してから……想いを寄せる人と結ばれたいという、ささやかな夢を見なかったはずはない。
しかし、相手はお貴族サマ。たとえ、想いを交わし合い結ばれたところで……平民の私は、所詮“愛人”という立場にしかなれない。よしんば無理を通したところで、平民出の妻を娶る、なんて行為は、当人の名誉を貶める結果にしかならない。――そんなもの、この国の民であれば誰もが知っているであろう当然の常識だ。
それほどに、平民と貴族との間に横たわる“身分差”という溝は深い。
愛する人と結ばれることが叶うなら愛人でも構わない――なんて、私には言えない。
私は、両親がそうであったように、愛する人と慎ましくも温かな“家庭”を作りたいのだ。それが、ささやかな私の夢。しかし、“愛人”などと呼ばれる立場となってしまったら、それは絶対に、叶えられることはなくなる。そのうえ、愛する人が自分以外の妻を持つことにだって、耐えられそうもない。割り切ることなんて、絶対に出来ない。
だから全てを諦めるしか無かったのだ。好きだと想う気持ちごと全部を、最初から無かったもののように心の奥深くへと封じ込めてしまうこと。何も持たない私には、それしか取れる道なんて見当たらなかった。
なのに、本当にこれは、なんていう追い討ちなのだろう。
よりにもよって、アルフォンス様がファランドルフ家のご出身だったなんて……そんなもの、知ってしまったら尚更、どう足掻いたところで、もはやどうにもならないではないか。
あのひとが、何を考えて私をこんな場所に連れてきたのかは知らない――知りたくもない。
どんな理由があれ、確実なのは、私がみじめな想いをすることだけ。
アルフォンス様と決して結ばれるはずもない自分を、否応も無く、痛感させられることになるだけ―――。
「…ったく、なんでこう拗れちゃうかな。――つかリュシェルフィーダ、おまえが馬鹿正直にズバズバ言い過ぎなんだよ!」
「失敬な、私はただ事実を伝えたにすぎないだろう! それを正しく知ることこそ当人のためではないか!」
「言うにしても言い方っつーもんがあるだろ、っての……!」
道を開けてくれるどころか、行く手を遮ったまま私の頭の上でそんなくだらない諍いを始めてしまったお二人に対し、だからいい加減にしてよ…と、もはや呆れてタメ息しか出てこない。
だが、ふいにその諍いが止まった。
止められたのだ。――並び立つお二人の背後から投げかけられた声によって。
「――どうなさいましたの、こんなところで?」
落ち着いて艶のある、そして明らかに女性の声だった。
目の前のお二人が、そこでハッとしたように身体を強張らせ、そして同時に振り返る。
その瞬間、背後に立つ人物を認識したお二人が、やはり同時に息を飲んだのがわかった。
――誰なの……?
お二人の態度を訝しく思って興味が湧いた私は、こそっと彼らの身体の隙間から、その人物を覗き見る。
そこに立っていたのは、一見して年嵩と思われる…だが、一方で若くも見える、年齢不詳のとても美しいご婦人だった。私と同じような…とはいえ、明らかに数段上とわかる、いかにも豪奢で煌々しい貫禄あるお衣装を身に纏っていらっしゃることから、きっとこのお方も今夜の夜会に参加されるのだろう。雰囲気から察するに、おそらく随分と雲の上にあらせられるご身分を持ったお方のお連れ様、なのではないだろうか。全身あちこちに鏤められている紅玉の赤が、とにかく印象的に視界に映える。
優雅なまでに扇子を片手に弄びながら、口元には優美なまでの微笑を絶やさず、おっとりとした口調で、その女性が続けた。
「何か問題事でも?」
「いっ…いいえ、滅相もない……!!」
そのご婦人の言葉で我に返ったように、そう返しながら、クロウさんが動く。半歩ほど前に出、おそらく失礼にならない程度の距離を保ちつつ、そのご婦人の真正面に立ち塞がった。――何故だろう、その動作は、彼女の視界から私の姿を隠すべく、壁になったようにも思えた。
それから恭しく会釈をし、目の前のご婦人へと向かい、改まったようにクロウさんが言葉を告げる。
「ご挨拶が遅れまして大変申し訳ございません。――ファランドルフ公爵夫人におかれましては、ご機嫌うるわしく……」
―――はぃ……?
にこやかながらも無理やり絞り出したようなクロウさんのその言葉を、耳にした瞬間、私も固まる。
――いま…何て言った……??
空耳でなければ今、クロウさんの口から『ファランドルフ公爵夫人』なんて言葉が、聞こえたような気がしたけど……?
「挨拶なら、後ほど改めて受け取るわ、クロウリッド」
おそらく口上を述べようとしたクロウさんが、そんなセリフにやわらかく…しかしピシャリと、まさに有無を言わせず、遮られた。
「あなたとはお久しぶりよね。でも、ごめんなさいね。わたくしは、そちらにいらっしゃるお嬢さんに会いにまいりましたの」
「へっ……?」
――わっ…わわわわわ、私ですかーっ……!?
公爵夫人なんぞに会いに来られるとか、あまりにも心当たりが無さすぎて、うっかり聞き間違いしてしまったかとも思ったが……こちらに向けられた麗しい流し目と、覗いていた私のそれが、ばっちり合ってしまって。
紛れもなく、このご婦人の目的は私だと、否応も無く理解した。
「貴女なのでしょう? アルフォンスの連れてきた女性、というのは」
「――――!!?」
そうか…そうだった…と、そこでようやく思い至る。
ファランドルフ公爵夫人…ということは、つまり、このお方は……、
――アルフォンス様の、お母様……!!
そら堂々と入り口から二人並んで入ってきましたしねっ、それが普通にお母様のもとまで報告がいったとしても、何ら不思議ではないだろう。
――でもって、息子の“婚約者”と思われる女を、わざわざ自ら出向いて確認しにいらっしゃった、と……?
誤解だよ!! と、許されるものならその場で思いっきり叫びたかった。
だが、当然ながらそんなことは出来ず。かといって、他にどんなリアクションを返していいのかもわからず。
どうしよう…と、迷って硬直しているしかできない私を、こちらに向けられている公爵夫人の視線から、ふいに広い背中が遮ってくれた。
「…失礼ですが、何か思い違いをなさっていらっしゃるのでは?」
それは、クロウさんだった。
もはや“失礼にならない程度の距離”どころか、さらに大きく一歩、まさに公爵夫人へと詰め寄るようにして前に出た彼が、その身体を張って私と夫人の間の壁になってくれようとしているのが、ありありと見てとれる。
そして、背中に回された手が動き、指が何らかの合図を寄越してきた。――うん、これは、『ここは何とかするから今のうちにとっとと逃げろ』って意味だな? そうだな? たとえそうじゃなかったとしても、そう受け取るぞ私は?
それを認識したと同時、ぐっと腰に腕を回された感触が伝わり、耳元近くから「行こう」という囁きが降ってくる。
「ここは一旦、逃げといた方がよさそうだ。なるべく目立たないようにな」
エイスさんがさりげなく、やはり公爵夫人の視線から私を隠すように立ち、密やかに行く先を指で指し示した。
願っても無いと、私も言葉を出さないまま素直に頷き、彼の誘導に従って一歩を踏み出す。
――そのまま、スムーズにその場から立ち去れたのであれば、きっと何も問題は無かったのに……!
やはり極度の緊張下に置かれると人は、普段通りの行動がとれなくなるのだろうか。なんやかやと食い下がってくる公爵夫人の言葉をなんだかんだと理屈をつけてあしらおうとするクロウさんの奮闘ぶりが、すぐ近くで聞こえてくるだに、余計に緊張にも拍車がかかる。その所為もあり、目立たないように、気付かれないように、物音を立てないように、と、二人の様子を横目で窺いつつ必要以上におっかなびっくり歩いていたためか、自分の足元への注意が殊の外おろそかになってしまっていたらしい。
ふと気付いたら傍らに置かれていた壺が、思いのほか目の前にあって。
ハッとして避けようとするも、だが既に私は、その台にしたたかに足をぶつけてしまっていた後だった。
ガタッ…! と、思った以上に大きな音が響き、痛いと思う間もなく、台の上の壺がグラリと傾ぐのが目に映る。
――やばい、落っことしちゃう……!!
こんな高価そうな壺、壊したって弁償できないよ! と、アワ食って落とす前に防ぐべく、私は壺へと向かって手を差し伸べた。
「おい、危ないっ……!!」
しかし、そんな声と共に身体が引き戻され、そのままエイスさんに抱きこまれるようにして庇われる。
彼の腕にがっちり包まれてなお、しかし壺の割れる音が一向に響いてこない。――ということは、エイスさんが私を庇いつつ、壺も受け止めてくれた、ということ? …サスガです近衛騎士サマ。
ほっと安堵の息を吐いた、と同時、そして私は再び硬直することになった。
「―――なにやってるの?」
背後から飛んできた、そんな言葉が耳に飛び込んできたから。――もはや聞き慣れた、その声の主を、私はよく知っている。
「…これは、どういう状況?」
やや苛立ったようにも聞こえる、そんな声を、言葉を、聞きたくなくて。
おそらく、こちらを見つめているであろう、その視線から逃れるようにして、私は身を翻すやエイスさんの背中に隠れた。
――あんな話を聞いてしまったら……あのひとの前で、私はどんな顔をしたらいいの?
こうやって顔を合わせてしまうことが怖くて、こんな場所から、早く立ち去ってしまいたかったのに。
――どうして……? どうして、よりにもよって今、戻ってきちゃうの……!
「まあ、アルフォンス! ちょうどよかったわ」
そこに差し挟まれた声で、ようやくアルフォンス様は、その場にいた“もう一人”の存在に気付いたらしい。クロウさんが壁になってくれていた所為で、その姿が目に入っていなかったのだろう。
「――母上……!?」
アルフォンス様にしては珍しい、驚きの感情が、その声音にありありとうかがえる。
エイスさんの身体に隠れながらもこっそり覗き見てみたところ、案の定、その表情にもありありと驚きの色が見え。その隣に立っていたアレクさんに至っては、明らかに“何てこった…!”とでも言いたげに、片手で額を押さえたポーズで天を振り仰いでいる。
…そこからうかがえるに、どうやらこちらのお二人にとっても、この場でのお母上サマの登場は、予想外にもホドがある出来事、だったみたいだ。
「どうして……母上が、こんなところにいらっしゃるのです……」
「あなたを探していたからに決まっているでしょう?」
何とか気を取り直したように発された、そんなアルフォンス様の言葉、ではあったが。
その言葉尻に被さるように即、どことなくうきうきとした返答が返ってくる。
「だって、初めてじゃない。あなたが、こういう場に女性を連れてくるなんて。何故すぐにわたくしのところへ来てくれないの。水臭いわ」
「ですから、それは……」
「待ちきれなくて、それで探していたのよ。――ねえ、早く紹介してちょうだい。こちらの彼女でしょう、連れてきたのは」
再び視線を投げられて、ギクリとする。
そこで、その場の皆の視線が私へと集まるのがわかる。
――違うのに……そうじゃないのに……!
それに耐えきれず……思わず身体を縮こませるように俯くと、唇を噛み締めた。
こつ…と、そこで絨毯の上を歩く、静かな足音が聞こえてくる。
その足音は、こちらに近付いてくるようだった。
そして、エイスさんの背中に張り付いたままでいる私の隣で、ぴたりと止まる。
おそるおそる顔を上げて見やると、すぐ目の前にアルフォンス様が立っていた。
でも、その瞳は私の方を見つめてはおらず。その場から、お母様に視線を投げている。
そして、口を開いた。
「彼女は―――」
「――ただの使用人ですっ!!」
咄嗟に身体が動いていた。
俯いていた顔を上げ、気付けば公爵夫人を睨むように見上げながら、そう怒鳴るように声を張っていた。
「お騒がせして申し訳ありません。大事な夜会だとは知らず、軽率な真似をいたしました」
「――何を……!?」
何事か言いかけようとしたアルフォンス様の言葉を、遮るように私は「本当に申し訳ありませんでした」と勢いよく頭を下げる。
「このことは如何様にもお詫びいたします。今すぐにでも退出させていただきます。ですが、アルフォンス様に非はございません、すべては分を弁えぬ私が仕出かしたことです、くれぐれも誤解などなされませんように、お願いいたします」
言い切って頭を上げるや、そしてすぐさま踵を返した。
「ちょっと待って……!!」
しかし、その腕が掴まれる。――隣に立つアルフォンス様の手によって。
「君は何を言ってるんだ!? どうして、そんな嘘を……」
「――嘘なんかじゃ、ありませんっ……!」
言いながら、掴まれた腕を力任せに振り払う。
そうされたのが意外だったか、さも驚いたかのように瞠られた瞳をキッとした視線で睨み付けながら、私は告げた。
「そもそも、あなたから言い出したことでしょう? ――選択肢の一方を、私は選んだだけです」
こちらを見つめるアルフォンス様の表情に、そこでハッとしたような色が浮かぶ。
そう、私は選んだだけ。――“嫁”か“使用人”かという、与えられた選択肢の一方を。
いつか言った自分の言葉を、ようやくそこで思い出してくれたようだ。
その表情を目の当たりにして、私の口許にも、知らず知らず自嘲のような笑みが零れる。
「…あなたの言葉を、今は何も聞きたくはありません」
最後にそれを告げて、再び私は踵を返した。
もう腕を掴まれ引き留められることは、なかった―――。
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