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ヒント4 ハルカさんは満足しました
しおりを挟む瀬奈は両膝を抱きかかえるように体を縮め、物影に隠れて顔を伏せた。
物影から飛び出せば、ハルカの視界に入るだろう。それほど距離は離れていない。
本音を言えば、そうしたい。飛び出して、ぎゅっと抱きしめてしまいたい。
けれども、そうするわけにはいかない。
たぶん。きっと。
「行かなくて、いいのか?」
「行かない。行けない。次郎さんもわかってるでしょ。私達が行ったら、きっと決意が鈍っちゃう。鈍らせちゃう。あの子は強くないから。私も、強くないから」
「……少し意外、かな? 瀬奈っちは、そんな割り切った考え方ができる子じゃないと思っていたけど」
「秋斗を信じてるだけよ」
「なるほど。確かに秋斗に任せた方が安心かもしれない。君たち二人が揃ったら、きっとハルカを引き留めてしまうだろうから」
「……」
視線を交わす事もなく。
それだけ言うと、二人は押し黙った。
◇◇◇
「私、今。意地悪な子になっちゃってます。最低です。神様が、最後に私に。こんな素敵な贈り物をしてくれたのに」
ハルカが秋斗に語りかける。
秋斗としては、むしろ。
どうしてそんなに笑顔でいられるのかと、思っていた。
たとえ嘘でも。本心を隠すための笑顔だとしても。
「これが全部、全部。私の夢で。目が覚めたら、病院のベッドの上で。今日も薬を飲んで、いつか元気になるんだって信じて頑張って。そんな一日をずっと繰り返して」
ぽつり、ぽつりと。たどたどしく。
ハルカは、心の内をさらけ出す。
「つまらない日常でした。退屈で、辛くて、苦痛ばかりの人生でした」
手を空に掲げる。
透き通るように白い肌。
手の平の向こうに透けて見えるのは、夕焼けに染まりつつある空の色。
「でも、それでも」
生きていた。
「希望は、あったんです」
風向きが変わる。
追い風から、向かい風。向かい合うハルカの方から、秋斗の方へ。
ハルカの長い髪が流れて、空中に舞った。
「やりたい事は、沢山ありました。元気になったら、あれもやろう。これもやろうって。お父さん、お母さんとよく話をしていました」
「……全部、やっちまえばいいじゃねぇか。きっと誰も、止めやしない」
「誰にも止めてもらえないなんて、寂しすぎます。一人は、寂しいです」
「俺達がいるだろ」
「うーん。たしかに、皆さんと一緒にいるのは楽しいです」
手を組み、顔を伏せて。考え込む仕草。
わかりやすい仕草。わかりやすい表情。
この子は、そうやって生きてきた。
何も知らない、子供のように。
希望に満ちた、子供のように。
そう振舞ってきた。
周囲から望まれるままに。
「けど」
その先は、予想できた。
彼女は、もう。決めているのだろう。
「きっとこれ以上は、欲張りです。私、こう見えて欲深いですから。もっと、もっと。何でもかんでも欲しくなって、我慢できなくなっちゃいます」
この子はきっと、わがままを言うのに慣れていない。
もっと素直になればいいのに。
人に甘えるのが、下手なのだ。
「そして、気づいたらみんないなくなって。ひとりぼっちになって。そうしてから。また、後悔するんです」
顔を上げる。
その顔には、笑顔。
「だから」
いつものように。
最後まで、自分らしく。
「ここでお別れします。また希望を無くしちゃうのは辛いですから、楽しい気持ちのまま。今の幸せな気分のまま、いなくなってしまうのが一番いいんです。私、とても満たされちゃってますから。満足しちゃいました。とても、楽しかった」
そして、最後の言葉を告げる。
「さよなら、です。秋斗さん」
風の音が。
秋斗の耳を襲う。
邪魔だ。風の音も、二人の距離も。
思わず、秋斗は手を伸ばす。
もっと近くで、話がしたい。
でも、伸ばした手はハルカの元まで届かなくて。止められなくて。
無我夢中に、言葉を探す。
「待て!」
あんな笑顔でお別れなんて、嫌だ。
あんな顔でお別れなんてしたら、絶対に後悔する。
うまい言葉は見つからないけれど、秋斗は必死に言葉をつむぐ。
「そんな顔で別れるなんて、嫌だ。笑顔ってのは、もっと、こう。体の内から自然とあふれ出てくる。そういうもんなんだよ! お前のそれは、違う。本心を隠すための笑顔だ。そんなの、本当の笑顔じゃない」
「……本当の笑顔、ですか?」
「そうだ。さっきベンチに座って話してた時、お前思わず笑っただろう? あのときのお前の笑顔、めちゃくちゃ可愛かったぞ! 男なら誰だって惚れちまう。それぐらい、ドキドキする笑顔だった」
「何ですか、それ。口説いてるんですか? 駄目ですよ、瀬奈さんに怒られちゃいます」
「口説いてねぇよ。もう一度、笑顔を見せてくれって言ってるんだよ」
滅茶苦茶だ。支離滅裂だ。
あるいは、瀬奈や次郎ならば。うまい言葉を見つけられたのかもしれない。
だからこそ、秋斗が選ばれたのかもしれない。
でも、そんな事知るかとばかりに、秋斗は全力でハルカに向き直る。
ハルカは、震える声でそれに答えた。
「……それは。とっても難しいです」
「難しくない。本当は、難しくないはずなんだ。自分の感情を、表に出すことなんて」
「難しいです。だって、そんな事したら」
笑顔。
ドキリとするような。
切なくて、儚くて。
ハルカの想いが伝わってくるような、そんな表情。
心に秘めた、本当の感情を。表に出す。
けれども、その瞳からは。
一筋の涙がこぼれて、頬に伝った。
「どうしたって、泣いちゃいますもん」
一度あふれ出した涙は、とめどなく。
彼女の頬を濡らす。
嗚咽。
ハルカが目を閉じる。
そうして、彼女は。
静かに。けれども、声を上げて泣いた。
◇◇◇
「はぁー、すっきりしました。確かにこのほうが気分よく逝けそうです」
「そりゃ、何より」
「私、秋斗さんに泣かされちゃいました。秋斗さんは女泣かせです。極悪人です」
「とんだ風評被害だよ。俺は、可愛い女の子に全力投球しているだけだ」
「もう、またそんな事言って! 瀬奈さんの耳に入っちゃいますよ」
ハルカが、顔を寄せてくる。
そうして、耳元でこうささやき掛けてきた。
「――瀬奈さんの事。好きなんでしょう?」
「は、」
赤面。
顔から火が出るかのように。秋斗は両手を振ってうろたえた。
「はは、何を言っているでござる。拙者、可愛い女の子はみんな愛しているでござれば」
「うわっ! 嘘、下手っ。隠さなくていいんですよー。というか、隠しているつもりだったんですか? 目の前でいちゃいちゃされるこっちの身にもなって下さい。リア充爆発しろ! 盛大に散れ!」
ハルカは、握った拳を秋斗の胸に叩きつけた。
どすんとした衝撃が伝わってくる。
そしてハルカは、笑った。先ほどまでとは違い、今度は少し意地の悪い笑みだ。
「えへへ。こういうの、少し憧れてたんです。秋斗さんと瀬奈さんみたいな、そんな関係。また一つ、願いが叶っちゃいました」
秋斗は、拳をコツンとハルカの額に当てる。
「お前、やっぱりそっちの方がいいよ。ずっと同じような笑顔浮かべてるより、絶対そっちの方が楽しそうだ」
「はい。楽しいです。とっても」
と。
ハルカは、良い事を思いついたとでも言わんばかりに。再び意地の悪い笑みを浮かべた。
ハルカの顔が近づいてくる。
やがて、ハルカの唇が触れる。秋斗の頬に、そっと。囁くように。
柔らかい感触。
暖かい感触。
ハルカの髪が、秋斗の肩を撫でる。
間近で見たハルカの瞳は、まだ濡れていて。
うっすらと施された化粧は、涙で乱れていて。
掛かる吐息が、秋斗の心を乱した。
笑みを浮かべたまま離れるハルカ。
秋斗は思わず頬に手を触れ、その場に立ち尽くす。
「ちょ……え?」
「ふふ、ファーストキスです。本当は唇にしてみたかったですけど……これ以上は、瀬奈さんに怒られちゃいますから。だから、我慢します。これ以上は、来世で! 私が大好きになった人とっ。来世ってあるのか判りませんけど! けどけど!」
呆然としていた秋斗が苦笑する。
がんばれ、と。
秋斗が言えた義理でもないのだが、心の底から応援したくなる子だ。
ひとしきり叫んだハルカはいったん呼吸を整え、再び息を吸い込んだ。
そうして、声と共に。一気に吐き出す。
「秋斗さん。瀬奈さんと次郎さんも! 聞こえてますよね!」
背筋を伸ばし、精一杯声を張り上げて。
最後の言葉を残そうと。
秋斗は姿勢を正した。
ハルカの最後の言葉を、胸に刻み込むために。
きっと瀬奈や次郎も、同じようにしているだろう。
「みなさん! ほんっとうに、ありがとうございました! 楽しかったです。私、みなさんの事。ぜったい忘れません! 忘れませんから! ぜったいに!」
空気と共に。
笑顔と共に。
涙と共に。
そう叫んで、ハルカは深々とお辞儀をする。
たっぷりと十秒ほど頭を下げたのち、ハルカは頭を上げた。
そうして。
最後に、笑顔で。
「ありがとうございました」
それだけ言って。
彼女は、完全に日が落ちる前に。
夕闇の中にまぎれ、溶けて。
消えた。
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