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第三章 男装姫は言えない秘密を抱く
第十八話 男装の理由
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嵐は、時を追うごとに激しさを増していく。
花緒を抱きかかえて走る燦と別れ、久遠はなんとか一人で宝物殿まで辿り着いた。
日紫喜家の屋敷は広い。しかも政が行われる公の場と、日紫喜家の者が暮らす私的な場は、板塀や生垣で複雑に区分けされている。
天禄殿も宝物殿も屋敷の北側にあるのだが、ここまで来る間に既にかなりの時を要した。その間にも、雨風はみるみる強くなっていく。
火輪剣を日紫喜家の宝物殿にいる舎人に預け、胸を撫でおろしたのも束の間――次は、燦の部屋のある邸まで走って戻らねばならない。
ただでさえ嵐が怖くて腰が引けている。この風雨の中を燦の部屋まで走り切れるだろうか。
(しかも、これじゃあ男装していることを知られてしまうよ)
風雨のせいで久遠の覡服は濡れ、透けている。その上、胸の膨らみを隠すための晒も、いつの間にかほどけて緩んでいた。
この姿で燦の部屋に戻れば、すぐに久遠が女であると知られてしまう。
(かと言って、ずっと宝物殿にいるわけにもいかないし……)
宝物殿の舎人も、雨戸を閉め終えたらここを離れるはずだ。いつ止むとも知れない嵐の中、一人で夜を明かすのは怖い。
空には厚い黒雲が渦を巻いている。日はすっかり隠れ、今が夕方なのか夜なのか、それすらも分からない。
(そうだ、花緒様……!)
ふと、花緒の顔が頭に浮かぶ。
花緒ならば久遠が女であることを知っている。上に羽織る衣一枚でも借りられれば、あとは自分の力でなんとかできる。
幸い、花緒の暮らす邸はここから近いではないか。
(……行ってみるか!)
久遠は花緒の部屋に向かって走った。庭のほうから回って中を覗くと、ちょうど戸を閉めようとしていた花緒と目が合った。
「……久遠? 大変、早く中へ!」
びしょ濡れの久遠を見つけた花緒が、誰にも見られぬように縁側から久遠を中へ通した。
「たまたま貴方がいることに気が付いて良かったわ」
「申し訳ありません。花緒様しか頼れる方がいなくて……しかもこんなにずぶ濡れで、お部屋を汚してしまうかも」
「あら、気にしないで。私が風主・和暮家の姫だということを忘れたの? とりあえず衣を脱いでちょうだい」
花緒は手際よく床に敷布を広げる。久遠はその上におずおずと遠慮がちに座った。
「衣を、ここで脱ぐのですか?」
「ええ、そうよ。すべて脱いでね。火鉢を側に置くわ」
「……はい」
久遠は恐る恐る帯に手を掛けた。人前で衣を脱ぐというのは初めてかもしれない。
こんなことを十六夜の父に知られたなら、何をされるか分かったものではない。久遠が女であることは、他人に知られてはならない秘密だからだ。
その秘密を以前、花緒に漏らしてしまったことで、今日こうして助けてもらえているのだが。
久遠は震える手で、濡れた衣を一枚ずつ脱いでいく。裸になった肌の上を、冷たい雨の雫が伝った。恥ずかしさと寒さで、久遠は両腕で胸元を隠して俯いた。
「あら……貴方、本当に女だったのね」
花緒は久遠の肩から新しい小袖をふんわりと掛け、正面に向かい合うように座った。
目を閉じてぶつぶつと何か唱えたかと思うと、花緒の手元から風がふわっと吹き上がる。その風は久遠の全身を渦のように包んだ。
驚いて何も言えずにいる間に、久遠の体はすっかり乾いて、寒さも引いていた。
「えっ……? これは一体……」
「久遠は初めて見るわよね。これが威風の才よ」
――威風の才。燦が使った炎武の才と同じく、天から主家に授かった術だ。
才の名称を知ってはいても、見るのはもちろん初めてである。
「本来は、衣を乾かすために使うような才ではないのよ。私は力が弱いから、これくらいのことしかできないだけで」
「いいえ、花緒様。ありがとうございます。すごい力です!」
「嫌だわ、お世辞は結構よ。さあ、濡れた衣もこちらにちょうだい」
花緒が久遠の覡服を乾かしている間、久遠は火鉢の前で足を抱えて待った。
ふと壁のほうに目をやると、先ほどの祭祀で花緒が身に着けていた衣が掛けてある。この衣も、汚れを落として花緒の威風の才で整えたのだろうか。
間近で見ると、天禄殿で見た時よりも更に美しく見えた。
「これが気になる?」
花緒が久遠の顔を覗き込む。
「はい。とても綺麗だなと思って。花緒様によくお似合いでした」
「きっと貴方にも似合うと思うわよ」
「僕が!? 滅相もありません! 花緒様のようなお美しい方にこそ、似合う衣です」
「気付いていないかもしれないけど、貴方もとても綺麗よ。男装なんかしているのが勿体ないくらい。前から聞きたかったのだけど、自ら望んで男の格好をしているの?」
「いえ、そういうわけではありません……」
肩から羽織った小袖の襟をぎゅっと寄せる。
本当は、久遠も女の格好をしたい。こうして美しい衣を目の前にすると、尚更そう思う。胸が高鳴るのを感じ、あの衣に袖を通した自分の姿を想像する。
「ここで着てみてもいいわよ。人払いをしてあるから誰も来ないわ」
「で、でも……」
「いいから、さあ立って」
花緒は先に立ち上がり、掛けていた衣を下ろす。
「褶と裙を帯で留めて……裙は和暮家の紋様入りだけれど、構わないかしら?」
「はい、もちろんです」
花緒の手が久遠の腰に回り、紕帯を結ぶ。
心の臓が止まってしまいそうだ。
ずっと男として生きてきた。女物の衣も、長い髪を留める釵子も、美しく磨かれた宝珠も、無縁のものだと思っていた。
(自分の姿を見るのが怖いと思うなんて……)
花緒に背中を押され、姿見の鏡の前に進み出る。怖くて目を開けられない。
「せっかくなら、髪も綺麗にしましょう」
花緒は久遠の髪紐を解いた。高く一つに結っていた濡れ髪が肩に垂れ、雫がぽたぽたと滴り落ちる。
久遠は瞼を上げた。
髪から垂れた水滴で衣が濡れるのも忘れて、呆然と立ち尽くした。
鏡に映った自分の姿に、息を呑む。
言葉が出てこない。
(僕が、女の姿を……)
足がガタガタと震え出す。十六夜久遠とは誰なのだ――自分で自分が分からなくなり、苦しくて息ができない。
「久遠、とても似合うわよ」
花緒の言葉に、ハッと我に返る。溢れ出しそうな涙をなんとか堪える。
「花緒様、僕……」
「こうすると、やはり男には見えないわね。華奢だし小柄だし。なぜ無理して男装をしているの?」
「それは、本当は……」
花緒に問われ、改めて自分の心に問うてみる。
(僕は、男装なんかしたくない。僕は女だ)
それが、子どもの頃から一度も認められなかった久遠の本心だ。
男装を拒んだら、祖父や父に何をされるか分からない。その恐怖から、これまで自分の気持ちに蓋をしてきた。
しかし、女の衣に袖を通した自分を見てしまったら、もう認めるしかない。
男装を止めたい。女として生きたい。
(なぜ、僕は男として育てられたんだ――)
その時、久遠は突然頭痛に襲われ、その場でよろめいた。
花緒に肩を支えられ、なんとか体勢を戻す。
「嫌な質問をしてしまったのね。答えたくなければ無理しなくていい。貴方の事情に立ち入るつもりはなかったの。ごめんなさい」
「とんでもありません。なぜ男装をしているのか、僕自身も分からないのです。ただ、幼い頃に祖父と父から厳しく言われました。男装をしなければ、ここから出さないと……」
「ここというのは?」
「……蔵の中です。十六夜の里に、誰も使っていない蔵があって……僕はずっとそこに」
堪え切れず、久遠の両目から涙がこぼれる。花緒が衣ごと久遠を抱き締めた。
「怖い思いをしたのね。嵐を怖がっていたのも同じ理由かしら」
「一人で蔵にいた時に、嵐が来て……それで……」
泣きじゃくる久遠の頭を、花緒が優しく撫でた。
それからどれくらい時が経っただろうか。部屋の外ではようやく嵐がおさまったようで、静寂の中から虫の声が響いてくる。
久遠は花緒の腕から離れ、無言で頭を下げた。
「久遠、落ち着いた?」
「……花緒様、本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ。ねえ、そろそろ貴方の髪を乾かしてもいいかしら? 風邪を引くと思うの」
「え?」
確かに、先ほど髪紐を解いてから、濡れたままの髪をそのままにしてあった。
せっかくの祭祀の衣が、再び濡れてしまっている。
「すっ、すみません! すぐに脱ぎます!」
「いいわ。そのままで」
花緒が久遠の背中側に回り、長い髪を手櫛でまとめる。そして再び、威風の才を使った。
久遠の髪が、風にふんわりと浮かぶ。
その瞬間――。
久遠を再び、激しい頭痛が襲った。
目の前が真っ暗になり、頭の中を濃い靄のようなものがぐるぐると回って締め付ける。
「……ううっ……ああ……」
「久遠? 大丈夫?」
「あ、頭が……痛くて」
割れるような痛みに、久遠は両手で頭を抱える。しばらく耐えていると、突然ふっと霧が晴れたように痛みが引いた。
そして、その痛みの後に押し寄せたのは、今までなかったはずの記憶。
一度も思い出せなかったぼんやりとした過去が、なぜか鮮明になっていく。
「ああっ……!!」
「どうしたの? 久遠!」
「僕、僕は……!」
知らない記憶が、久遠の頭の中になだれこんでくる。
美しい衣を身に纏った女が、雪の中に這いつくばっていた。
――このままでは、蘇芳を陽主にお返しできない!
――卑怯者!
――罪はなかったことにはならない!
鬼気迫る言葉が、次々と耳に飛び込んでくる。
目の前にあるのは、炎に包まれ今にも崩れ落ちそうになった建物。
真っ白な雪に広がる、赤い染み。
(この光景を、僕はどこかで――)
「――久遠、久遠!」
花緒の悲鳴で、久遠は現実に引き戻される。
全身の力が抜けて、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「花緒様ごめんなさい、私は……いや、僕は……」
靄が、晴れていく。
まるで、その靄によって自分の過去を隠されていたように感じる。
(燦様と同じ夢だった)
そうだ、思い出した。
炎に焼かれる建物、叫ぶ女――久遠が思い出した過去の記憶は、燦の夢の中身と重なる。
今は、燦の夢見をしているわけではない。あの炎に包まれた建物の記憶は、確かに久遠自身のものだ。
(……僕は、誰なんだ?)
花緒を抱きかかえて走る燦と別れ、久遠はなんとか一人で宝物殿まで辿り着いた。
日紫喜家の屋敷は広い。しかも政が行われる公の場と、日紫喜家の者が暮らす私的な場は、板塀や生垣で複雑に区分けされている。
天禄殿も宝物殿も屋敷の北側にあるのだが、ここまで来る間に既にかなりの時を要した。その間にも、雨風はみるみる強くなっていく。
火輪剣を日紫喜家の宝物殿にいる舎人に預け、胸を撫でおろしたのも束の間――次は、燦の部屋のある邸まで走って戻らねばならない。
ただでさえ嵐が怖くて腰が引けている。この風雨の中を燦の部屋まで走り切れるだろうか。
(しかも、これじゃあ男装していることを知られてしまうよ)
風雨のせいで久遠の覡服は濡れ、透けている。その上、胸の膨らみを隠すための晒も、いつの間にかほどけて緩んでいた。
この姿で燦の部屋に戻れば、すぐに久遠が女であると知られてしまう。
(かと言って、ずっと宝物殿にいるわけにもいかないし……)
宝物殿の舎人も、雨戸を閉め終えたらここを離れるはずだ。いつ止むとも知れない嵐の中、一人で夜を明かすのは怖い。
空には厚い黒雲が渦を巻いている。日はすっかり隠れ、今が夕方なのか夜なのか、それすらも分からない。
(そうだ、花緒様……!)
ふと、花緒の顔が頭に浮かぶ。
花緒ならば久遠が女であることを知っている。上に羽織る衣一枚でも借りられれば、あとは自分の力でなんとかできる。
幸い、花緒の暮らす邸はここから近いではないか。
(……行ってみるか!)
久遠は花緒の部屋に向かって走った。庭のほうから回って中を覗くと、ちょうど戸を閉めようとしていた花緒と目が合った。
「……久遠? 大変、早く中へ!」
びしょ濡れの久遠を見つけた花緒が、誰にも見られぬように縁側から久遠を中へ通した。
「たまたま貴方がいることに気が付いて良かったわ」
「申し訳ありません。花緒様しか頼れる方がいなくて……しかもこんなにずぶ濡れで、お部屋を汚してしまうかも」
「あら、気にしないで。私が風主・和暮家の姫だということを忘れたの? とりあえず衣を脱いでちょうだい」
花緒は手際よく床に敷布を広げる。久遠はその上におずおずと遠慮がちに座った。
「衣を、ここで脱ぐのですか?」
「ええ、そうよ。すべて脱いでね。火鉢を側に置くわ」
「……はい」
久遠は恐る恐る帯に手を掛けた。人前で衣を脱ぐというのは初めてかもしれない。
こんなことを十六夜の父に知られたなら、何をされるか分かったものではない。久遠が女であることは、他人に知られてはならない秘密だからだ。
その秘密を以前、花緒に漏らしてしまったことで、今日こうして助けてもらえているのだが。
久遠は震える手で、濡れた衣を一枚ずつ脱いでいく。裸になった肌の上を、冷たい雨の雫が伝った。恥ずかしさと寒さで、久遠は両腕で胸元を隠して俯いた。
「あら……貴方、本当に女だったのね」
花緒は久遠の肩から新しい小袖をふんわりと掛け、正面に向かい合うように座った。
目を閉じてぶつぶつと何か唱えたかと思うと、花緒の手元から風がふわっと吹き上がる。その風は久遠の全身を渦のように包んだ。
驚いて何も言えずにいる間に、久遠の体はすっかり乾いて、寒さも引いていた。
「えっ……? これは一体……」
「久遠は初めて見るわよね。これが威風の才よ」
――威風の才。燦が使った炎武の才と同じく、天から主家に授かった術だ。
才の名称を知ってはいても、見るのはもちろん初めてである。
「本来は、衣を乾かすために使うような才ではないのよ。私は力が弱いから、これくらいのことしかできないだけで」
「いいえ、花緒様。ありがとうございます。すごい力です!」
「嫌だわ、お世辞は結構よ。さあ、濡れた衣もこちらにちょうだい」
花緒が久遠の覡服を乾かしている間、久遠は火鉢の前で足を抱えて待った。
ふと壁のほうに目をやると、先ほどの祭祀で花緒が身に着けていた衣が掛けてある。この衣も、汚れを落として花緒の威風の才で整えたのだろうか。
間近で見ると、天禄殿で見た時よりも更に美しく見えた。
「これが気になる?」
花緒が久遠の顔を覗き込む。
「はい。とても綺麗だなと思って。花緒様によくお似合いでした」
「きっと貴方にも似合うと思うわよ」
「僕が!? 滅相もありません! 花緒様のようなお美しい方にこそ、似合う衣です」
「気付いていないかもしれないけど、貴方もとても綺麗よ。男装なんかしているのが勿体ないくらい。前から聞きたかったのだけど、自ら望んで男の格好をしているの?」
「いえ、そういうわけではありません……」
肩から羽織った小袖の襟をぎゅっと寄せる。
本当は、久遠も女の格好をしたい。こうして美しい衣を目の前にすると、尚更そう思う。胸が高鳴るのを感じ、あの衣に袖を通した自分の姿を想像する。
「ここで着てみてもいいわよ。人払いをしてあるから誰も来ないわ」
「で、でも……」
「いいから、さあ立って」
花緒は先に立ち上がり、掛けていた衣を下ろす。
「褶と裙を帯で留めて……裙は和暮家の紋様入りだけれど、構わないかしら?」
「はい、もちろんです」
花緒の手が久遠の腰に回り、紕帯を結ぶ。
心の臓が止まってしまいそうだ。
ずっと男として生きてきた。女物の衣も、長い髪を留める釵子も、美しく磨かれた宝珠も、無縁のものだと思っていた。
(自分の姿を見るのが怖いと思うなんて……)
花緒に背中を押され、姿見の鏡の前に進み出る。怖くて目を開けられない。
「せっかくなら、髪も綺麗にしましょう」
花緒は久遠の髪紐を解いた。高く一つに結っていた濡れ髪が肩に垂れ、雫がぽたぽたと滴り落ちる。
久遠は瞼を上げた。
髪から垂れた水滴で衣が濡れるのも忘れて、呆然と立ち尽くした。
鏡に映った自分の姿に、息を呑む。
言葉が出てこない。
(僕が、女の姿を……)
足がガタガタと震え出す。十六夜久遠とは誰なのだ――自分で自分が分からなくなり、苦しくて息ができない。
「久遠、とても似合うわよ」
花緒の言葉に、ハッと我に返る。溢れ出しそうな涙をなんとか堪える。
「花緒様、僕……」
「こうすると、やはり男には見えないわね。華奢だし小柄だし。なぜ無理して男装をしているの?」
「それは、本当は……」
花緒に問われ、改めて自分の心に問うてみる。
(僕は、男装なんかしたくない。僕は女だ)
それが、子どもの頃から一度も認められなかった久遠の本心だ。
男装を拒んだら、祖父や父に何をされるか分からない。その恐怖から、これまで自分の気持ちに蓋をしてきた。
しかし、女の衣に袖を通した自分を見てしまったら、もう認めるしかない。
男装を止めたい。女として生きたい。
(なぜ、僕は男として育てられたんだ――)
その時、久遠は突然頭痛に襲われ、その場でよろめいた。
花緒に肩を支えられ、なんとか体勢を戻す。
「嫌な質問をしてしまったのね。答えたくなければ無理しなくていい。貴方の事情に立ち入るつもりはなかったの。ごめんなさい」
「とんでもありません。なぜ男装をしているのか、僕自身も分からないのです。ただ、幼い頃に祖父と父から厳しく言われました。男装をしなければ、ここから出さないと……」
「ここというのは?」
「……蔵の中です。十六夜の里に、誰も使っていない蔵があって……僕はずっとそこに」
堪え切れず、久遠の両目から涙がこぼれる。花緒が衣ごと久遠を抱き締めた。
「怖い思いをしたのね。嵐を怖がっていたのも同じ理由かしら」
「一人で蔵にいた時に、嵐が来て……それで……」
泣きじゃくる久遠の頭を、花緒が優しく撫でた。
それからどれくらい時が経っただろうか。部屋の外ではようやく嵐がおさまったようで、静寂の中から虫の声が響いてくる。
久遠は花緒の腕から離れ、無言で頭を下げた。
「久遠、落ち着いた?」
「……花緒様、本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ。ねえ、そろそろ貴方の髪を乾かしてもいいかしら? 風邪を引くと思うの」
「え?」
確かに、先ほど髪紐を解いてから、濡れたままの髪をそのままにしてあった。
せっかくの祭祀の衣が、再び濡れてしまっている。
「すっ、すみません! すぐに脱ぎます!」
「いいわ。そのままで」
花緒が久遠の背中側に回り、長い髪を手櫛でまとめる。そして再び、威風の才を使った。
久遠の髪が、風にふんわりと浮かぶ。
その瞬間――。
久遠を再び、激しい頭痛が襲った。
目の前が真っ暗になり、頭の中を濃い靄のようなものがぐるぐると回って締め付ける。
「……ううっ……ああ……」
「久遠? 大丈夫?」
「あ、頭が……痛くて」
割れるような痛みに、久遠は両手で頭を抱える。しばらく耐えていると、突然ふっと霧が晴れたように痛みが引いた。
そして、その痛みの後に押し寄せたのは、今までなかったはずの記憶。
一度も思い出せなかったぼんやりとした過去が、なぜか鮮明になっていく。
「ああっ……!!」
「どうしたの? 久遠!」
「僕、僕は……!」
知らない記憶が、久遠の頭の中になだれこんでくる。
美しい衣を身に纏った女が、雪の中に這いつくばっていた。
――このままでは、蘇芳を陽主にお返しできない!
――卑怯者!
――罪はなかったことにはならない!
鬼気迫る言葉が、次々と耳に飛び込んでくる。
目の前にあるのは、炎に包まれ今にも崩れ落ちそうになった建物。
真っ白な雪に広がる、赤い染み。
(この光景を、僕はどこかで――)
「――久遠、久遠!」
花緒の悲鳴で、久遠は現実に引き戻される。
全身の力が抜けて、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「花緒様ごめんなさい、私は……いや、僕は……」
靄が、晴れていく。
まるで、その靄によって自分の過去を隠されていたように感じる。
(燦様と同じ夢だった)
そうだ、思い出した。
炎に焼かれる建物、叫ぶ女――久遠が思い出した過去の記憶は、燦の夢の中身と重なる。
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