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第六章 男装姫は孤高の王の夢を見る
第三十九話 自分の幸せ
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「一葉! 早く屋敷の中に入って!」
「桔梗姫様! でもそこは姫様のお部屋ですから」
「いいのよ。あなたの部屋まで戻っていたら、ますます濡れるから。さあ!」
桔梗姫の手招きに応じて、一葉は縁側から姫の部屋に上がる。都の方角から広がる黒い雲は、あっという間に久靄領の空を覆った。
一葉が雷鳴に耳をふさぐと、桔梗姫が急いで雨戸を閉める。
「一葉、無事でよかったわ。あなたは嵐が苦手だと聞いていたから、心配したの」
「ご心配をおかけしました。すぐに嵐雲に気付いたので、なんとか戻って来られました」
「早く嵐が去ってくれたらいいわね。こればかりは待つしかないけれど」
「はい……」
桔梗姫から借りた手巾で濡れた髪を拭いていると、再び雷鳴が轟いた。雨音も徐々に激しさを増している。
なんだろう、先ほどから嫌な予感が収まらない。
都の方角で雷が鳴るのは凶兆だ。
ここ数か月、一度も起こらなかった嵐が突然起こったのはなぜだろうか。都で、燦に何かあったのではないかと心配でならない。
(花緒様と初めて出会った日の嵐は、前の王が病に倒れたことが原因だった。燦様の身にも、何かあったのかな)
胸がばくばくと鳴り、なんだか息苦しい。
隣では、桔梗姫がいつもと変わらない様子で筆をとり、文を書き始める。しばらくして何かを思い出したようにふっと顔を上げると、一葉を振り向いた。
「ねえ、一葉は今日、私の文を届けてくれたわよね? 従者の方とは会えた?」
「はい。先方の従者の石川様という方に、確かに文をお渡ししました」
「で? その石川という者から何か言われなかった?」
「何か……ですか?」
「もったいぶらないで! 大切な話があると言うから、わざわざ二人きりになれるように貴方に遣いを頼んだのよ」
「…………」
裏で示し合わせていたのか、と合点がいった。
桔梗姫はもうすぐ想い人に嫁ぐのだろう。だから、この屋敷での一葉の仕事もなくなる。一葉の今後の身の振り方を考えてくれているのだ。
ほかの奉公先を探せと言って、一葉を追い出すこともできたはず。それなのに、わざわざ嫁ぎ先を世話してくれようとしている。桔梗姫の優しさが身に沁みた。
(でも、私は……)
石川に嫁げば、幸せになれるのだろうか。
いや、そもそも一葉が幸せを求めていいのだろうか。
黙り込む一葉に、桔梗姫は呆れた顔で「うーん」と唸った。
「気が進まないの? お相手があまり好みではなかった?」
「そういうわけではないのです! 石川様はとても優しくて、私のことも大切にしてくださる方だと思います。でも石川様が素敵な方だからこそ、私よりも相応しいお相手がいらっしゃるのではと……」
一葉が俯く。すると桔梗姫は、明らかに苛立った様子で一葉の顔を睨みつけた。
「もう! いつまでもウジウジと! いい加減にしなさい!」
「ひえっ、き、桔梗様?」
「見ているだけで腹が立つわ。どんな辛い過去があるのか知らないけれど、貴方はこれから何十年も生きていかなければいけないのよ? 自分のことは、自分で幸せにするの! 残りの何十年を楽しく生きることを考えなさい!」
「そ、それは仰る通りですが……私が幸せになることを、天は望みません」
「ふざけないで!」
これまでに見たことのないほどの桔梗姫の勢いに、一葉は気圧されて仰け反った。桔梗姫はそれに構わず、床の上をずいずいと一葉に詰め寄る。
「一葉はまだ十八でしょう? たった十八年で、よくもそんなにウジウジ育ったものだわ。綺羅ノ国にはたくさんの人が暮らしているのだから、天は貴方のことだけ気にしていられない。貴方が幸せになろうが不幸になろうが、天はまったく興味なしよ。さあ言いなさい。本当はどうしたいの? 石川とかいう男が嫌い?」
「嫌いではありません! でも……好きでもありません」
「じゃあ、どんな男が好きなのよ」
「どんな男って……それは、私みたいにウジウジしていなくて、辛いことや困難があっても逃げずに立ち向かっていけるような……そんな強い人のお側にいられたら、嬉しいかも」
「嬉しいかも……じゃないでしょ? はっきり言いなさい」
顔からこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、桔梗姫が一葉を見つめる。
桔梗姫の言うことはもっともだ。明快で、合理的。
(自分のことは、自分で幸せにする……?)
もしも一葉が十六夜家のことなど気にせず、自分の幸せだけを考えていいのなら――多分、選ぶ道は一つ。
「……姫様。私は、自分の運命をなかなか受け入れることができず、ずっと逃げていました。でもそんな時、困難にも強く独りで立ち向かう人に出会ったのです」
「あら、やっぱりそういう相手がいるんじゃない。それでそれで?」
「私は、燦様のことが好きです。一緒にいると、私も強くなれるんです。燦様は私のことを守ると言ってくれたけど、私だって燦様を幸せにしたい。心の傷を癒して差し上げたいし、背負った荷を下ろしてほしい」
「その燦様とやらも、同じことを考えているかもしれないわよ」
「……そうでしょうか」
「私は燦様じゃないんだから知らないわよ! 直接確かめてきなさい」
「直接!?」
「燦様の気持ちは燦様に聞かないと分からないでしょ? こんなところでウジウジしている暇があったら、燦様に会いに行けば? ……ところで燦様って誰よ」
首を傾げた桔梗姫の表情が面白くて、つい一葉の口から笑いが漏れた。
一葉の言う燦様というのが、綺羅ノ王――日紫喜燦であることを知ったら、きっと桔梗姫は顎が外れるくらい驚くのだろう。
(姫様のおかげで、心が軽くなったわ)
天が一葉を赦してくれるかどうかは分からない。でも、何もせず後悔するより、自分にできることをやったほうがいいに決まっている。
もしも燦が一葉のことを受け入れてくれるなら、一葉も燦の側にいたい。ようやく自分で自分の気持ちを認めることができた。
「桔梗姫様、ありがとうございます。私、嵐が収まったら一度都に行ってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。あ、お土産もよろしく」
「はい! お任せください」
一葉は笑顔で頷いた。
燦が病に罹っていませんように。辛い目に遭っていませんように。
一葉は燦の姿を目に浮かべ、祈るように目を閉じた。
「桔梗姫様! でもそこは姫様のお部屋ですから」
「いいのよ。あなたの部屋まで戻っていたら、ますます濡れるから。さあ!」
桔梗姫の手招きに応じて、一葉は縁側から姫の部屋に上がる。都の方角から広がる黒い雲は、あっという間に久靄領の空を覆った。
一葉が雷鳴に耳をふさぐと、桔梗姫が急いで雨戸を閉める。
「一葉、無事でよかったわ。あなたは嵐が苦手だと聞いていたから、心配したの」
「ご心配をおかけしました。すぐに嵐雲に気付いたので、なんとか戻って来られました」
「早く嵐が去ってくれたらいいわね。こればかりは待つしかないけれど」
「はい……」
桔梗姫から借りた手巾で濡れた髪を拭いていると、再び雷鳴が轟いた。雨音も徐々に激しさを増している。
なんだろう、先ほどから嫌な予感が収まらない。
都の方角で雷が鳴るのは凶兆だ。
ここ数か月、一度も起こらなかった嵐が突然起こったのはなぜだろうか。都で、燦に何かあったのではないかと心配でならない。
(花緒様と初めて出会った日の嵐は、前の王が病に倒れたことが原因だった。燦様の身にも、何かあったのかな)
胸がばくばくと鳴り、なんだか息苦しい。
隣では、桔梗姫がいつもと変わらない様子で筆をとり、文を書き始める。しばらくして何かを思い出したようにふっと顔を上げると、一葉を振り向いた。
「ねえ、一葉は今日、私の文を届けてくれたわよね? 従者の方とは会えた?」
「はい。先方の従者の石川様という方に、確かに文をお渡ししました」
「で? その石川という者から何か言われなかった?」
「何か……ですか?」
「もったいぶらないで! 大切な話があると言うから、わざわざ二人きりになれるように貴方に遣いを頼んだのよ」
「…………」
裏で示し合わせていたのか、と合点がいった。
桔梗姫はもうすぐ想い人に嫁ぐのだろう。だから、この屋敷での一葉の仕事もなくなる。一葉の今後の身の振り方を考えてくれているのだ。
ほかの奉公先を探せと言って、一葉を追い出すこともできたはず。それなのに、わざわざ嫁ぎ先を世話してくれようとしている。桔梗姫の優しさが身に沁みた。
(でも、私は……)
石川に嫁げば、幸せになれるのだろうか。
いや、そもそも一葉が幸せを求めていいのだろうか。
黙り込む一葉に、桔梗姫は呆れた顔で「うーん」と唸った。
「気が進まないの? お相手があまり好みではなかった?」
「そういうわけではないのです! 石川様はとても優しくて、私のことも大切にしてくださる方だと思います。でも石川様が素敵な方だからこそ、私よりも相応しいお相手がいらっしゃるのではと……」
一葉が俯く。すると桔梗姫は、明らかに苛立った様子で一葉の顔を睨みつけた。
「もう! いつまでもウジウジと! いい加減にしなさい!」
「ひえっ、き、桔梗様?」
「見ているだけで腹が立つわ。どんな辛い過去があるのか知らないけれど、貴方はこれから何十年も生きていかなければいけないのよ? 自分のことは、自分で幸せにするの! 残りの何十年を楽しく生きることを考えなさい!」
「そ、それは仰る通りですが……私が幸せになることを、天は望みません」
「ふざけないで!」
これまでに見たことのないほどの桔梗姫の勢いに、一葉は気圧されて仰け反った。桔梗姫はそれに構わず、床の上をずいずいと一葉に詰め寄る。
「一葉はまだ十八でしょう? たった十八年で、よくもそんなにウジウジ育ったものだわ。綺羅ノ国にはたくさんの人が暮らしているのだから、天は貴方のことだけ気にしていられない。貴方が幸せになろうが不幸になろうが、天はまったく興味なしよ。さあ言いなさい。本当はどうしたいの? 石川とかいう男が嫌い?」
「嫌いではありません! でも……好きでもありません」
「じゃあ、どんな男が好きなのよ」
「どんな男って……それは、私みたいにウジウジしていなくて、辛いことや困難があっても逃げずに立ち向かっていけるような……そんな強い人のお側にいられたら、嬉しいかも」
「嬉しいかも……じゃないでしょ? はっきり言いなさい」
顔からこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、桔梗姫が一葉を見つめる。
桔梗姫の言うことはもっともだ。明快で、合理的。
(自分のことは、自分で幸せにする……?)
もしも一葉が十六夜家のことなど気にせず、自分の幸せだけを考えていいのなら――多分、選ぶ道は一つ。
「……姫様。私は、自分の運命をなかなか受け入れることができず、ずっと逃げていました。でもそんな時、困難にも強く独りで立ち向かう人に出会ったのです」
「あら、やっぱりそういう相手がいるんじゃない。それでそれで?」
「私は、燦様のことが好きです。一緒にいると、私も強くなれるんです。燦様は私のことを守ると言ってくれたけど、私だって燦様を幸せにしたい。心の傷を癒して差し上げたいし、背負った荷を下ろしてほしい」
「その燦様とやらも、同じことを考えているかもしれないわよ」
「……そうでしょうか」
「私は燦様じゃないんだから知らないわよ! 直接確かめてきなさい」
「直接!?」
「燦様の気持ちは燦様に聞かないと分からないでしょ? こんなところでウジウジしている暇があったら、燦様に会いに行けば? ……ところで燦様って誰よ」
首を傾げた桔梗姫の表情が面白くて、つい一葉の口から笑いが漏れた。
一葉の言う燦様というのが、綺羅ノ王――日紫喜燦であることを知ったら、きっと桔梗姫は顎が外れるくらい驚くのだろう。
(姫様のおかげで、心が軽くなったわ)
天が一葉を赦してくれるかどうかは分からない。でも、何もせず後悔するより、自分にできることをやったほうがいいに決まっている。
もしも燦が一葉のことを受け入れてくれるなら、一葉も燦の側にいたい。ようやく自分で自分の気持ちを認めることができた。
「桔梗姫様、ありがとうございます。私、嵐が収まったら一度都に行ってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。あ、お土産もよろしく」
「はい! お任せください」
一葉は笑顔で頷いた。
燦が病に罹っていませんように。辛い目に遭っていませんように。
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