砂漠の国の最恐姫 アラビアン後宮の仮寵姫と眠れぬ冷徹皇子

秦朱音|はたあかね

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1巻

1-1

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   第一章 私はランプの魔人ではありません!


「お父様! 今夜バラシュにいらっしゃるのが、皇子様御一行だっていうのは本当ですか?」

 いつにもまして高く弾んだザフラお姉様の声が、窓の外から響いてくる。一体なんの騒ぎだろうかと、私は二階にある私の部屋の窓の側で様子をうかがった。

「……ザフラ! そんな大声で言うものではない! 誰かに話を聞かれて、皇子様が命を狙われでもしたらどうする気だ!」
「えっ、でもぉ」

 お父様に叱られたお姉様は、下を向いてもぞもぞとドレスの裾を揺らした。
 聞けば、皇子が都からわざわざここ辺境バラシュの街まで、狩りをするためにやってくるそうだ。御一行は、バラシュから隣国ナセルに繋がる砂漠の手前に天幕を張り、しばらく滞在するらしい。
 何もない灼熱しゃくねつの砂漠で、皇子たちは一体何を狩るというのだろう。
 不思議に思いながら、私は膝の上に寝そべった愛猫ルサードの背中を撫でた。

「我がハイヤート家は皇子様のお世話をおおせつかっている。街の者には彼らが皇族であることを絶対に知られるな。ザフラ、お前が御一行のお世話をするんだ。皇子様に見初みそめられでもしたら、これほどの幸運はないぞ」
「本当ですね、お父様! 私、皇子様に見初みそめられるように頑張ります!」

 誰かに話を聞かれることを心配していたはずなのに、お父様とザフラお姉様はやけに大声だ。私は呆れて窓辺に頬杖をついた。

「ザフラお姉様ったら、大声を出すなと言われたばかりなのに。それに、相手が皇子様だとしても、見ず知らずの方の妻になって幸せになれると思ってるのかしら?」

 ついつい漏れた私の心の声に返事をするように、膝の上のルサードが「にゃあ」と鳴いた。
 私――リズワナ・ハイヤートは、砂漠の国アザリムの商人の末娘だ。
 父は隣国ナセルとの交易で財を成したいわゆる成金で、アザリムとナセル両国の王族からも名を知られるほどの豪商。
 この国の慣習に従って四人の妻をめとり、私はその四人目の妻の子として生まれた。しかし、理由わけあって、私は腹違いの姉たちからひどく嫌われている。
 少しでも姉たちに近寄るとけものを見るかのような目でさげすまれるので、いつしか私は自分の部屋に引きこもってひっそりと暮らすようになった。
 姉たちと顔さえ合わせなければ割と平和に暮らせるし、山ほどの財産を持つ我がハイヤート家では、何もせずに引きこもっていてもお金に不自由することはない。
 時折、お母様が今も生きていてくれたら……と思うことはあるけれど、姉たちとの面倒ないざこざに巻きこまれるよりは、引きこもり生活のほうがずっといい。
 幸い、私には愛猫のルサードという友人もいるから、日々退屈することはないのだ。
 ここアザリムは剣の国、隣国ナセルは魔法の国と言われている。
 アザリムの中でも砂漠に近いこのバラシュの街はナセルとの交易で成り立っていて、毎朝街中で開かれている市場バザールには、ナセルから取り寄せた珍しい魔道具がいつも所狭しと並ぶ。
 実はこの魔道具の大半は、父がナセル商人から仕入れているものだ。
 もうけることしか頭にない根っからの商人である父は、ナセルの隊商キャラバンとの商談の場に、必ずと言っていいほど私を同席させる。
 何を隠そうこの私、面紗めんしゃの下の素顔を見た者が口を揃えて、「まるで神話の女神ハワリーンの生まれ変わりのように美しい」と大騒ぎするほどの美女なのである。
 絹のような滑らかな肌に、宝石のごとく輝く瞳。
 すらっと伸びた腕は、ランプさえ持てないのではと心配されるほど細く、華奢きゃしゃな体つきは世の男性の庇護欲を刺激するらしい。
 そんな私の容姿を一目見ただけで、父の取引先であるナセルの商人たちは目を輝かせて骨抜きになる。こちらが何も言わなくたって、次々と父に有利な条件を提示してくれるというわけだ。
 もちろん、タダではない。
 父に有利な取引条件を提示する代わりに、私を妻に迎えたいと申し出てくるナセル商人も少なくなかった。
 しかし商売に役立つ駒である私を、父が易々と手放すわけがない。商売上どうしても断れない縁談には、私ではなく姉たちを嫁がせていった。
 まるで生贄いけにえのように嫁がされる姉たちが私を恨んでいびり倒すのも、仕方のない話だ。
 これが砂漠の国アザリムの端っこに暮らす、私――リズワナ・ハイヤートの日常。
 でも、皆が考えていることと、真実はちょっと違う。
 本当の私は、決して女神ハワリーンの生まれ変わりなどではない。
 実は私の頭の中には、前世の記憶が残っている。
 私の前世は数百年前、アザリムがまだアザルヤードと呼ばれていた昔に、この地で生きた一人の女性。史上最恐と言われる、女戦士アディラ・シュルバジーなのだ。

(まさか、華奢きゃしゃで繊細なこの私が、歴史に名を残すあの最恐女戦士の生まれ変わりなんて……誰も想像できないだろうけど)

 ルサードの背中を撫でる私の手は細くて白くて、傷一つ付いていない。アディラとして生きていた頃には考えられなかったほど、綺麗な手だ。
 前世の私アディラは、女戦士として大陸中の戦地を回り、隣国との激しい戦いに身を投じていた。
 すべては祖国を守るため、主君である皇帝陛下を守るため。
 そして、愛した人を守るため。
 戦いが終わっていつか平和な世が訪れたら、ずっと想いを寄せていた相手に自分の気持ちを告げるつもりでいた。
 前世の私が愛した相手ひとの名は、ナジル・サーダといった。
 武官の私とは正反対の穏やかな彼は、若くして国の宰相を務める逸材だった。私と彼は主君であるイシャーク・アザルヤード皇帝陛下に忠誠を誓い、イシャーク陛下を守るために共に奮闘した。
 私は戦地で、ナジルは都で。離れた場所にいても、お互いを信頼し、それぞれの守るべきものを命がけで守る。それが私とナジルの間の約束。
 いつしかその約束は私たち二人の絆となり、そして私の心の中では、その絆は愛情に変わっていった。
 しかしナジルのほうは、私と同じようには想ってくれなかったようだ。
 すべての戦いが終わってアザルヤードの都に戻った私を待っていたのは、ナジルが別の女性と結婚する、という報せだった。
 ナジルは、それが私にとって残酷な言葉になるとも知らず、幸せそうな顔で言った。『ずっと愛していた人が、やっと私の妻になってくれるんだ』と。
 聞けば彼の結婚相手の女性は、優しくて穏やかで、守ってあげたくなるようなはかなげな女性。戦いでボロボロになった傷だらけの私の、対極にいるような人だった。
 私は自分の恋心を抑えつけ、最愛の相手の幸せを祝福した。
 でも、心は苦しかった。

『もしも生まれ変わってまたあなたに出会えたら、来世こそあなたの妻になりたい――』

 戦勝を祝う船上の宴で海を見ながら一人、そう呟いたところまでは覚えている。
 しかし、私のアディラ・シュルバジーとしての記憶は、それが最後だ。
 前世の私がその後どんな人生を送ったのか、どんな風に死を迎えたのか。今の私はもう覚えていない。
 ただ、もう一度生まれ変わったら今度こそ、愛する人と結ばれたい――そう強く願ったアディラとしての気持ちだけは、今の私の心にもしっかりと刻まれている。

(だから、見ず知らずの相手と結婚するなんて、私には考えられないわ)
「にゃん!」

 前世に想いをせて呆けていた私が手を緩めた瞬間、ルサードがひょいっと私の腕から飛び出した。

「ルサード! どこに行くの?」
「みゃあぁ」

 窓の外に飛び出したルサードは、壁のくぼみを伝って器用に地面に下りていく。しっぽをフリフリ、呑気のんきにお散歩に出かけるようだ。

「もう……! 今日は大人しくしておかないと駄目だと言ったのに」

 よりによって都から皇子様がやってくる日に外出するなんて、面倒ごとに巻きこまれる予感しかしない。
 私は棚の上にあった面紗めんしゃを急いで身に付けると、もう一度窓から身を乗り出して、左右をキョロキョロと見渡した。
 お父様もお姉様もすでに屋敷の中に戻った後のようで、目の届く範囲には誰もいない。

(今なら、誰にも見つからずに近道できそう)

 私は窓枠に飛び乗ると、両手を振ってその場で勢いを付けた。

「はっ!」

 小さく息を吐いて、二階から地面に飛び下りる。空色のシフォンドレスの裾が風にふんわりと揺れ、私は音もなく地面に着地した。
 華奢きゃしゃで繊細なはかなげ美女というのは、世をあざむくための仮の姿。
 お父様もお姉様も知らないけれど、本当の私は自分でも驚くほどの怪力の持ち主で、おまけに剣術にもけている。
 誰かに剣術を習ったこともなく、特別な訓練を受けたわけでもない。
 物心ついた時にはすでにこの力を身に付けていたから、きっと私は前世の記憶だけではなく、能力まで受け継いだのだろう。
 二階から飛び下りることなんて朝飯前だ。普通に生活していても、少し気を抜くとついついこの怪力を使ってしまいそうになる。
 もしも今の私の力を誰かに知られたら、今世でも最恐の称号を手に入れてしまうのでは……? なんて思うこともしばしば。
 だから今世の私は、この力をひた隠しにして生きている。
 それに、心の奥底に息づくアディラとしての私が願うのは、前世で愛したナジル・サーダにもう一度出会って結ばれることだ。そのためには、前世の彼の婚約者がそうであったように、か弱くてはかなげな女でいようと決めた。
 女神ハワリーンの生まれ変わりであるかのように自分をいつわり、強さを隠してでも。
 アザリムに古くから伝わる神話の中に、人は数百年ごとに生まれ変わって再び出会う、という記述がある。今自分が出会っている人はすべて、前世でも関わりのあった人なのだという。
 その神話を信じるならば、きっとナジル・サーダも今、この世界のどこかで生きている。もう出会っているかもしれないし、これから出会うのかもしれない。
 彼が私と同じように前世の記憶を持っているとは限らない。しかし神話によると、何か一つは必ず、前世の自分が持っていたものを引き継いで生まれ変わるのだとか。
 もしも奇跡的に彼に出会えたら、前世では伝えられなかった恋心を、今度こそ伝えたいと思う。
 私が前世から引き継いだものが「アディラとしての記憶」だったのは、叶わなかった恋を来世で成就させたいという、アディラの強い気持ちの表れだと思うからだ。

(……って、そんなことはさて置き、ルサードはどっちに行ったのかしら?)

 立ち上がって辺りを見回すと、ルサードはしっぽを振りながら建物の向こうの角を曲がっていくところだった。

「ルサード、待って!」

 ドレスの裾をたくし上げ、私は急いでルサードの後を追う。ルサードにあの角を曲がられてしまえば、きっと彼の姿を見失ってしまうだろう。
 しかしちょうど建物の角まできたその時、お父様と見知らぬ男が身を寄せて話をしているのが目に入った。私は二人に見つからないよう慌てて一歩うしろに下がると、壁の陰に身を隠す。

(わあ、危なかった。全力で走るのを見られるところだったわ)

 胸に両手を当てて、音を立てないように細く息を吐く。
 私は華奢きゃしゃで繊細、か弱くて絶対に走ったりしないはかなげな女……そう何度も自分に言い聞かせながら、お父様たちに見つからないように背中を壁にぴったりと付けた。
 建物の向こうのほうから、ルサードの「みゃあん」という勝ち誇った声が聞こえる。私につかまらないよう、わざとお父様の近くに歩いていったのだろう。後でみっちりお説教をしなければいけない。
 私がすぐ側にいることに気が付かないまま、お父様は低く小さな声で見知らぬ男にささやいた。

「……それで、手に入るのか?」
「いやぁ、ハイヤート様。さすがにそれは難しいですよ」
「そこをなんとか。我がハイヤート家の命運がかかっているのだ。二千スークは払うが、どうだろう」
「ううむ、探してはみますが、いかんせんすぐに見つかるような代物ではなく……」
(なんの話? おかしな取引の相談でもしているのかしら)

 壁の陰からそっと覗いてみると、ターバンとひげでほとんど顔の見えない初老の男がお父様の隣で項垂うなだれていた。
 そのさらに向こうのほうで、ルサードは屋敷のへいに登り、その上をテテッと軽やかに走っていく。

(あの子、屋敷の外に出る気なのね)

 ルサードは豪商のお父様が買ってきた隣国ナセルの猫で、ここアザリムでは高値で取引される珍種だ。誰かに捕まって売り飛ばされでもしたら大変なことになってしまう。
 お父様たちに見つからないようにルサードに追いつくには、どうやら屋根を伝っていくしかなさそうだ。
 私は背にしていた壁のくぼみに手をかけて、一息に屋根の上までよじ登った。

「――今晩宴をもよおすんだが、これまでとは比べられないほど重要な客なんだ。宴の後、客が天幕に戻られるまでには準備をしておきたい」
「今晩までというと、納期まであと半日しかないじゃないですか! いくらナセル商人で最も顔が広いと言われる私でも、そんな短期間で魔法のランプを手に入れられるわけがない……ん?」

 お父様と話していた見知らぬ男は、困った顔のまま天を仰いだ。
 ……そう。天を、仰いでしまった。
 屋根の上にいた私と、見知らぬ初老の男。
 私たちの視線がバッチリと合い、お互いにそのままの姿勢で固まった。

「……ハイヤート様」
「なんだ? 二千で駄目なら三千スークでどうだろう。いや、言い値でいい。いくらが希望だ?」
「お代は結構です。もしも今晩までにご要望の魔法のランプをお持ちできたら……あの屋根の上にいらっしゃる女神ハワリーンを私の妻としていただけませんか」
「は? 屋根の上?」

 お父様は怪訝な顔で、男と同じ方向――つまり、屋根の上にいる私を見上げた。

(うう、なんと言い訳したらいいんだろう)

 体が弱くて部屋に引きこもってばかりの娘が、よりにもよって屋根の上で一人、威風堂々と立っているのだ。
 こんな高いところにどうやって登ったのかと聞かれても、上手くごまかせる気がしない。

「リ、リズワナ?」
「……はい、お父様。残念ながらリズワナです」
「お前、なぜそんなところに? どうやって登った⁉」
「え? それはその……あっ、今日は風が強かったので吹き飛ばされたのかも。ほら私、華奢きゃしゃはかないので」

 ……ああ、失敗した。
 こんなおかしな言い訳が通じるわけがない。

「……なるほど。リズワナ、窓は不用意に開けるものではないぞ。今晩から、こちらのジャマール殿の妻となる大切な体だ」
(ほっ、なんとかお父様を騙せたわ……って、私がこの男の妻に⁉)

 若く見積もっても私の三倍は生きていそうな初老の男は、私の顔を見上げて「うんうん」と頷いている。

「お父様! 私はとても体が弱いですし、まだ十八歳の若輩者です」
「ああ、女神ハワリーンよ! うちにはすでに三人の妻がいる。若いあなたのこともきちんと指導してくれるはずだ。安心して私に嫁いできてほしい」
「ええっ? 私、四人目の妻なんですか?」

 とんでもないことになった。
 愛する人と結ばれるという前世の願いを叶えたいがゆえに、私はわざわざ華奢きゃしゃはかなくてか弱いフリをしながら、十八年もひっそりと自分を隠して生きてきたのだ。
 それなのに、突然こんな年の離れた見知らぬ相手に嫁ぐことになるなんて、絶対にお断りしたい!

(とりあえず、この場から逃げよう)
「――あああっ! お父様、ジャマール様! あちらから竜巻が来ますっ‼ 風神ハヤルがお怒りなんだわ!」

 私が大声で遠くを指差すと、お父様とジャマールはつられて私の指した先を見るため背中を向けた。

(さあ、今のうち。とりあえずこの場から逃げるわよ!)

 私は屋根の上を全力で走り抜け、愛猫ルサードが向かった先――バラシュの街の方角へ急いだ。


   ◇


 異国の珍しい果実や香辛料、香油、装飾の施された骨董品。
 通りの両側にずらっと並ぶ露店の隙間をうように、猫のルサードは軽やかに駆けていく。
 私はルサードの姿を見失わないように、人の間をすり抜けながら石畳いしだたみを進んだ。

(それにしても、今日もバラシュの街は平和ね)

 街の人々だけでなく荷を運ぶロバまでが自由に往来しているこの通りは活気に溢れていて、あちこちで人々の明るい笑い声が湧き上がっている。
 しかし一見平和なこの街は、つい数年前までピリピリとした緊張感に包まれていた。隣国ナセルとの関係が悪化し、戦場からも近かったこの街は、いつ両国の戦に巻きこまれてもおかしくない状態だったのだ。
 その頃を思うと、今のこの市場バザールの明るい賑わいは嘘のよう。
 両国の国境に近いこのバラシュの街がここまで再興したのはすべて、アザリムの第一皇子アーキル・アル=ラシードの功績だと言われている。何年も両国の力が拮抗きっこうしていたところにアーキルが成人して参戦すると、あっという間にナセル軍を倒して制圧してしまったそうだ。

(なんでも、アーキル皇子が自ら兵を次々に斬り殺し、一夜で血の海を作ったとか……ああ、怖い怖い!)

 昼夜問わず戦い続けるアーキル軍の陣営はまるで不夜城のようだったと、ナセルの商人から聞いたことがある。
 戦地での功績は、とかく大げさに語られがちだ。アーキルの武功の噂だって、真実かどうかなんて分からない。しかし、彼が冷酷で残虐な人物であることは間違いないだろう。

「そんな恐ろしい人が来るとも知らず、バラシュの人たちはみんな呑気のんきね……。あっ、ルサード! 見つけたわ!」

 市場バザールの裏、細い路地に入っていくルサードが、私の視界を横切った。見失わないように目を見開いて、私は露店の間を抜けてその路地に飛びこむ。

「ルサード、どこにいるの?」

 誰もいない路地を、そろそろと進む。
 陽の光が石壁にさえぎられた一本道の路地は、昼間にもかかわらず薄暗い。
 ここまで来ると市場バザールの賑わいはほとんど聞こえず、目の前の細い路地はどこまでも続いているように見える。

(もしかして、この道じゃなかったのかしら)

 ルサードとは別の道を来てしまったのかもしれない。このまま進むのを諦め、私は市場バザールに戻ろうと足を止めた。
 ――すると、その時。
 歩いてきた方向に振り返ると、私の体が何かにぶつかった。

「きゃあっ!」

 目の前には、大柄で人相の悪い一人の男が立っていた。ルサードを捜すことに気を取られて、人の気配に気が付かなかったとは情けない。男はゴツゴツした手で私の口をおおうと、腕を掴んでそのまま石壁に背中を押し付ける。

(物盗りかしら……それとも?)
「お前、可愛い顔をしてるじゃないか。俺と一緒に来てもらおう」

 なるほど、これはきっと物盗りではなく人買いの類だ。
 私を都まで連れていって、後宮ハレムの奴隷として売るつもりだろう。

(ああ、私ったら華奢きゃしゃはかない女のはずなのに……こんなところで本性を明かさなければいけないなんてね)

 この男には、私に手を出したことを後悔してほしい。
 もちろん、あの世でね。
 私は人買いの男と目を合わせたまま、彼の腰にぶら下げてあった短剣ダガーを右足でひょいっとり上げる。
 不意をつかれて驚いた男の腹にりを一発らわせ、なぎ倒す。するとその勢いで、男の体が音を立てて割れた地面にめりこんだ。
 私は宙に浮いた短剣ダガーを右手で取ると、男の背中に腰かけて、首筋にそれを当てた。

「あなた、誰か他に仲間はいらっしゃるの?」

 うつ伏せに倒された大男からは、返事がない。

「このバラシュの街は、とっても治安がいい場所なんです。あなたの仲間はどちらにいるのかしら。暴れられる前に根こそぎっておく必要がありますから教えてください」

 やはり、返事はない。

「あれ? どうしました? 致命傷ではないはずなんだけど……おーい」

 座っていた背中から降りて、男の前髪を掴んで顔を上げさせる。するとその男の口からではなく、私の背後の方向から別の男の声がした。

「無駄だ。気を失っている」
「え?」

 振り向くと、そこには白い長衣カフタンをまとった男性が二人立っていた。口元まで隠すようにターバンを被っているので顔はほとんど見えない。
 私も慌てて自分の面紗めんしゃを整え、できるだけ彼らに顔を見せないようにうつむいた。

(どう考えても、私がこの人買いの男をしたところを見られたわよね)

 後から現れたこの二人も、バラシュの人間ではなさそうだ。人買いの仲間なのか、それとも別の街から来た旅人か。
 いずれにしても、急いでルサードを捜しに行きたい今、この人たちと深く関わるのは面倒だ。とりあえず、この場をごまかすために一芝居打とう。

「こっ、怖かったですぅ……助けてくださってありがとうございましたっ!」
「いや、俺たちは何もしていない。お前がその男をり倒したように見えたが?」
(……あ、はい。やっぱり騙されませんよね)

 手前に立って話す男の瞳は、印象的な瑠璃るり色。口調は偉そうな上に冷たいが、人買いの仲間ではなさそうだ。
 ということは、後ろにいる優男も害はないだろう。ターバンの隙間から覗く優男の目は穏やかで、女を捕まえて奴隷として売り飛ばそうなんていう緊迫した気配は感じられない。
 私はその場に短剣ダガーを投げ捨て、間に合わせの笑顔を作って立ち上がった。
 武器も捨てたし、私が彼らの敵ではないことは伝わったはずだ。さっさとここから立ち去って、ルサードを捜しに行こう。
 しかし、二人の横をすり抜けて市場バザールに戻ろうとした私の手首を、後ろにいた優男が思い切り掴んできた。

「なんですか、突然」
「失礼。ついでに少々伺いたいことがあるのですが」
「……だからって、いきなり手首を掴むなんてひどいです。私は今、猫を捜していて急いでいますから、これで失礼します」
「猫ですか? どんな?」
「毛が白くて……とても珍しい猫なので、見たら印象に残るかと」

 私は二人と顔を合わせぬよう、地面に視線を落とした。
 するとその刹那せつな瑠璃るり色の瞳の男があっと言う間に私の腕を引き、優男から引き離したかと思うと、私の体と腕を壁に押し付けて自由を奪う。

(――動きが速いわ! 一体この男、何者なの⁉)

 彼はきっと、私が下を向いたことで、腰元に武器でも隠し持っていると勘違いしたのだ。自分が斬られる前に私の動きを封じようと動いたのだろう。
 道で偶然鉢合わせただけの小娘をここまで警戒するとは、なんという見かけ倒し、臆病おくびょうな男だろうか。


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