砂漠の国の最恐姫 アラビアン後宮の仮寵姫と眠れぬ冷徹皇子

秦朱音|はたあかね

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1巻

1-2

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 しかし、女戦士アディラの生まれ変わりであるこの私よりも素早い身のこなし。心は臆病おくびょうでも、相当の手練れと見た。
 男の瞳が、氷のように冷たく光り、真っすぐ私に刺さる。

「お前、何者だ?」
「ええっとですね。私は、その……」
「ナセルに近いこの街には、魔法を使える者もいるということか?」
「魔法、ですか?」
「お前のような小さな体で、あんな巨体の男を倒せるわけがない。魔法を使ったのか? それとも魔道具か?」
「は? 一体何をおっしゃってるの?」

 少々話が飛躍していて、頭の整理が追い付かない。
 確かに隣国ナセルは魔法の国と言われてはいるが、私が人買い男をなぎ倒したのは、ただの実力だ。私はナセルの者ではないので魔法は使えないし、今は魔道具だって持っていない。

「私は魔法を使えません、魔道具もありません」
「それでは、お前がこの男を倒したことの説明がつかない」
「女神ハワリーン様のご加護かもしれませんね。このバラシュの地は、昔からハワリーン様のお膝元と言われておりますから」

 腕も脚も壁に押し付けられて身動きが取れないまま、私は目の前の瑠璃るり色の瞳をじっと見た。
 ターバンの隙間から覗く男の瞳は、異様な雰囲気を醸し出している。目の周りに刻まれた深いクマのせいで、美しいはずの瑠璃るり色は随分とくすんで見えた。

(なんだろう、この瞳。すごく見覚えがあるような)

 私たちは瞬きもせずお互いの動きを牽制しながら、至近距離でしばらくにらみ合う。

(……と、それどころじゃなかった。このままじゃ、ルサードがますます遠くへ行ってしまうわ)

 こんなところで、見知らぬ男と時間を無駄にしている場合ではない。
 私は体を素早くねじって男の腕からすり抜けると、男の長衣カフタンの隙間から琥珀こはく色の宝石のついた長剣サーベルを抜き取った。
 シャン――と、長剣サーベルが空を切る音が路地の石壁に反射する。その短い音が鳴り終わる前に私は二人の足の間を通り抜け、彼らの背後に回った。 
 突然私が視界から消えたことに驚いた男たちには、一瞬の隙ができた。その隙に私は長剣サーベルを持ち直し、後ろから優男の背中に剣先を突きつける。

「ごめんなさい。急いでいますので、これで」

 体に突き刺してはいないものの、私の持つ長剣サーベルの先は優男の長衣カフタンいて背中に直接触れている。
 優男がつばを飲む音が聞こえる。

「……お前、その長剣サーベルが使えるのか?」

 優男の背中の向こうから、瑠璃るり色の瞳の男が驚いた表情で私を見つめている。
 こんなに細くてか弱そうな外見をした私が、屈強な男を一撃で気絶させ、その上男性用の長剣サーベルを振り回しているのだ。驚くのは当然だろう。
 確かにこの長剣サーベルは装飾がたくさん施されていて、武器として扱うには少々重たい。そんじょそこらの女性では、持ち上げることすら難しいはずだ。
 私は長剣サーベルを男に向けて放り投げた。

「ごめんなさい。お返ししますね。どうかお二人とも気を悪くせず、バラシュを楽しんでください!」

 二人に軽く手を振って、私は市場バザールの方向に走る。
 背後で男たちが私を呼び止める声が聞こえた気がしたが、振り返ることはしなかった。


 路地を引き返して市場バザールまで戻ってきても、やはりルサードの姿はどこにも見当たらない。露店と露店の隙間にまで目をらしながら、市場バザールの人の流れの中を歩いてルサードの姿を捜す。

ルサードあの子、私に見つからないように逃げているわね)

 先ほどの瑠璃るり色の瞳の男が言っていた通り、『剣の国』と言われる我がアザリムに対し、隣国ナセルは『魔法の国』だと言われている。
 ナセルで生まれたルサードも、そのあたりにいる普通の猫とは違い、不思議な力を持っている。
 昼間はごく普通の白猫だ。
 しかし夜になって月を目にすると、ルサードは猫から獅子ライオンに姿を変える。その上、まるで神話に出てくる神のように、獅子ライオンに変化したルサードは人の言葉をも操ることができる。
 もしもどこかの盗賊がルサードを捕まえて売り飛ばそうとしようものなら、命の保証はない。
 もちろんルサードの命ではなく、盗賊のほうの。
 太陽はすでに傾きかけて、間もなく夕焼けが街を包むだろう。市場バザールの露店も店じまいの準備を始めている。

「あら、ハイヤートのお嬢様じゃないですか?」

 金物屋の店主の女性が、商品を片付けながら私の顔を覗きこんだ。

「え? ごめんなさい、どなただったかしら」
「女神ハワリーンの生まれ変わり、リズワナ様ですよね? やっと嫁ぎ先がお決まりになったとか。おめでとうございます!」
「嫁ぎ先? 私の?」
(……なんの話だったっけ)
「リズワナ様、嫁ぎ先が決まったんですか?」
「お相手は誰なんだい? え、ナセルの隊商キャラバンの男だって?」
「随分と年が離れた男に嫁ぐんだねぇ」
「ちょっと家格が合わないんじゃないのかい」

 側にあった露店の女店主たちがわらわらと私の周りに集まってきて、次々に会話に参戦してくる。あっという間に私はおしゃべり好きの店主たちに周りを囲まれてしまった。

「奥様、嫁ぎ先とは一体なんのことでしょうか?」
「リズワナ様ったら! まさかお聞きになっていないなんてことはないでしょう? ジャマールとかいうナセルの商人が、リズワナ様を妻に迎えると言って、浮かれながら仕入れに出ていきましたよ」
「あっ、そうだったわ……!」
(しまった! ルサードを捜すことに必死になって、ジャマールのことをすっかり忘れていた!)

 そう言えばお父様が、ジャマールに何か交換条件のようなものを出していた気がする。夕方までに何かを準備できたら、お代をもらわない代わりに私をめとりたい、とかなんとか言っていなかっただろうか。
 彼がお父様の出した条件を満たさなければ、きっとこの縁談は立ち消えになる。なんとしても縁談は阻止したい。年の離れた男の四番目の妻になんて、絶対になりたくないんだから!

(昼間の二人の会話を思い出すのよ、リズワナ!)
「お父様とジャマールはなんと言っていたっけ……あっ、そうだわ! 魔法のランプ!」
(そうだそうだ、そうだった!)

 お父様とジャマールの会話の内容を思い出し、私はパンと両手を合わせた。
 確かジャマールは、『魔法のランプなんて手に入れられるわけがない』と、お父様にかけあっていた。お父様がジャマールに頼んだのは、ランプだ。しかも、ナセルとの交易でしか手に入らない、珍しい魔法のランプ。

「奥様!」

 私は初めに声をかけてきた露店の店主の手を取る。

「ジャマール様は、魔法のランプを仕入れに行ったのですか?」
「ええ、昼すぎに仕入れに行くと言って出かけていくのを見ましたが……。魔法のランプなんて、一生に一度手に入るかどうかの代物です。見つかるわけがないよ!」

 店主の女性はそう言ってガハハと笑った。
 魔法のランプがなかなか見つからない品物だということは、私だってよく分かっている。問題は、その珍しいものを万が一ジャマールが手に入れてしまった時のことだ。
 彼はランプを手に入れたら、直接その足でお父様のもとに向かうだろう。そのお父様は今頃皇子たちをお迎えするために、必死で宴の準備をしているはずで……

(とりあえず、私も皇子の宴とやらに向かわなきゃ!)
「ありがとうございます。私はちょっと体が弱くて、持病の物忘れでご迷惑をおかけしました。ゲホゲホ」
「いえいえ、リズワナ様ならもっといい相手がいらっしゃっただろうにねぇ……って、そんなこと言っては駄目だね。お幸せに!」

 娘である私が、お父様が決めた縁談を断る立場にないことは分かっている。が、とにかく今回の結婚は、なんとしてでも避けたい。
 私は店主たちに手を振ると、市場バザールを後にしてお父様のもとに向かった。


   ◇


 皇子の天幕は、バラシュの街の高台から見下ろせる場所に設けられていた。
 万が一の刺客に備えて、背中側をがけに面した場所にしようと考えたのだろう。さすがにこの高さでは、がけの上からの奇襲は不可能だ。

(でも残念だったわね。こんな急ながけだって、私みたいに軽々降りられちゃう人もいるんだから)

 天幕を挟んだ向こう側では皆が焚火たきびを囲み、まさに宴が始まろうとしている。
 料理や酒が次々に運ばれていく傍らには、着飾った女性たちが集まって、黄色い声で騒いでいた。これでもかというほど宝石をジャラジャラと身に付けたザハラお姉様の姿も見える。

「……さてと、お父様とジャマールはどこかしら」

 忙しそうに行き来する人たちの中で、一層派手な服装をしたお父様の姿はすぐに見つかった。魔法のランプを手に入れられたら、ジャマールは真っ先にお父様のもとに向かうはずだ。しばらくこの場所から見張っていよう。
 がけの端に腰かけて両足をゆらゆらと揺らしながら、私はジャマールの登場を待った。

(魔法のランプなんて見つからなければいいのに……)

 そんな気持ちが頭の中でぐるぐると回る。
 私はお姉様と違って、皇子に取り入って後宮ハレムに入りたいなんて、一度も考えたことがない。かと言って、年の離れたジャマールの四人目の妻になることだって、心の底から勘弁願いたい。
 ハイヤート家の四人目の妻だったお母様が亡くなってからというもの、私には家族と呼べる人がいなくなった。
 側にいるのは、私を商売道具としか考えていないお父様に、私を目の敵にするお姉様たちだけ。嫌な思いをさせようなんていう気持ちは微塵みじんもないのに、私はお姉様たちにとって邪魔者でしかなかった。
 無条件に愛し、愛される。お父様やお姉様たちとも、そんな関係の家族になりたかった。しかし四番目の妻が産んだ娘が「家族の一員に入れてほしい」と願うなんて、贅沢すぎるのだろうか?
 前世で想い人から愛されなかった私は、「愛されたい」という気持ちが人一倍強いのかもしれない。

(アディラはナジル・サーダに愛されたかった。せっかく生まれ変わったのだから、今世こそ自分の恋を叶えたいと思っている。だけど……)

 ナジル・サーダと再会して結ばれたいと願うアディラとしての私と、前世の恋に区切りをつけて、新たにリズワナとして生きたい私。
 前世から数百年が経った今、私はこの相反する二つの気持ちを抱えて、どうしたいのか自分でもよく分からなくなっている。
 アディラ・シュルバジーとリズワナ・ハイヤート。
 どちらも私であることには変わりないのに、二つの人格の感情が自分の中で次々と入れ替わる。

「……今そんなことを考えても仕方ないか。生まれ変わったナジルに、今世で会えるかどうかも分からないんだし」

 いずれにしても、アディラにもリズワナにも共通しているのは、年の離れた相手の、しかも四番目の妻になんて、絶対になりたくないということだ。
 私はため息をつきながら、ふと天幕のほうに視線を移した。
 すると、何やら白い塊が素早い動きで疾走していくのが目に入る。茂みから飛び出してきたその塊は天幕の間をすり抜けて、一番がけ側に近い大きな天幕に飛びこんでいく。

(今の白い塊! あれってルサードじゃなかった⁉)

 私は思わず立ち上がり、空を見上げた。
 すでに夕刻。空には間もなく月が輝き始めるだろう。

(こんな人の多い場所で、ルサードが月を見たらどうなるかしら)

 獅子ライオンの姿に変わったルサードを目にしたら、皇子もその従者たちも、きっと大騒ぎになるだろう。皇子を危険に晒した罪で、お父様の首だって一瞬のうちに飛ばされてしまう。

「もう! だから今日は外に出ないほうがいいと言ったのよ!」

 どこからか、風に乗ってシタールの響きが聴こえてきた。そろそろ宴が始まる。今のうちにルサードを連れて、急いでこの場を離れなければ。

(魔法のランプのことで頭がいっぱいだったのに、もうルサードったら!)

 ルサードが駆けこんだ天幕を目がけて、私はがけの急斜面を伝って下りていった。


   ◇


「ルサード? ここにいるのは分かっているのよ」

 天幕の中にそっと忍びこんでみたのだが、そこには誰もおらず、静まりかえっている。耳に入るのは、遠くで奏でられるシタールの音色と人の笑い声だけだ。
 狩りに来ているにしては豪華すぎる調度品の数々に、何度も目を奪われながら、私はキョロキョロとルサードの姿を捜す。
 テーブルの上に置かれたランプのほのかな灯り、どこからか漂ってくるサンダルウッドのお香の匂い。
 日が落ちた後のほの暗さのせいか、天幕の中は物憂げで気怠けだるい雰囲気だ。
 天幕の中央に敷かれた絨毯じゅうたんはまごうことなき一級品で、絨毯じゅうたんの表面を手のひらでそっと撫でると、最高の手触りにため息が出た。きっと身分の高い人のために、最高級の素材で作られたものだろう。

「この絨毯じゅうたんは一体どれくらいするのかしら。素材の染色、織り方の技術、模様の出し方……すべてが素晴らしいわ」

 サンダルウッドの香りのせいでついつい力が抜けた私は、そのお高そうな絨毯じゅうたんの上に寝転んでみた。すると天幕の端に積み上げられた木箱の隙間から、ルサードのしっぽが覗いているのが見えた。

「そんなところにいたのね、ルサード。早く戻りましょう」
「……」
「ねえ、もう月が昇るわ。皆に見つかる前に行くわよ」
「……にゃぁ……ぁ」

 絨毯じゅうたんの上をうようにして木箱のほうに近付くが、眠くなってしまった様子のルサードは両目を閉じている。
 早くここを出なければと分かっているのに、私のほうまでルサードにつられて眠気に襲われる。
 重いまぶたをなんとか開きながら、手を伸ばし、ルサードのしっぽの先を掴んだ。


   ◇


「…………プが……煙だ! 早く……火を消し止めろー!」
(……ん? 何?)
「……早く水を持ってこい! 殿下、危険ですから天幕の外へ!」
(危険? 水? 何かが燃えてるの?)

 大声で騒ぐ人たちの声で、私は意識を取り戻して飛び起きた。ここはどこだったかと辺りを見回すが、目の前が真っ白なモヤで包まれていて身動きが取れない。

(何よ、この白いモヤは。まさか……煙⁉)

 自分がルサードを探して天幕の中に忍びこんだのだということを、ようやく思い出した。木箱の隙間に隠れていたルサードを見つけて、しっぽを掴んだところまでは覚えている。
 まさか私は、あのままこんな場所で居眠りをしてしまったというのだろうか。

「殿下、早く外へ!」
「……いや、ランプが絨毯じゅうたんに落ちてくすぶっていただけだ。もういいから下がれ」
「しかし……!」
「早く行け!」
「ははあっ! では、煙を出すために入口は開けておきますので……!」
「ああ、早く一人にしてくれ。お前たちがうるさくて休むこともできん」

 煙の向こう側から聞こえた男たちの会話の内容から、私はよりにもよって、最も入ってはいけない天幕に入ってしまったのだと悟った。ここはきっと、このアザリムの皇子が使う天幕だ。

(やけに豪華な調度品や絨毯じゅうたんが置かれていると思ったわ。それにしても、なぜ私はこんなところで居眠りなんか……)

 あっさり眠気に負けるなど、前世で最恐と呼ばれたアディラの名がすたる。情けない気持ちにとらわれたが、今はそんなことを考えている場合ではない。なんとかこの場を切り抜けなければ。
 ここアザリムの皇帝の後宮ハレムには多くの妃がいて、皇子や皇女も多いと聞く。
 悪名高い冷徹皇子アーキルを筆頭に、多くの皇女たち、そしてアーキルとは年の離れた弟の第二皇子。弟皇子の方はまだ五歳くらいだと聞いたことがある。

(だから煙の向こうにいるのは、冷徹皇子のアーキルね。背は高いし声は低いし、ものすごく不機嫌そうな話し方……)

 白い煙の向こうから一歩一歩、皇子が私のいるほうに近付いてくる足音がする。
 天幕の入口から差しこむ月の光に照らされて、皇子の姿は逆光で黒い影のように見えた。
 その黒い影が、煙の出所、くすぶっていた絨毯じゅうたんに向けて何かをかぶせる。その辺りに落ちていた布で、火を消したのだろう。
 天幕の入口から少しずつ煙が吐き出され、徐々に視界が開けた。このままいけば、私とルサードも皇子に見つかってしまう。

(相手が皇子でなければ一発お見舞いして気絶させた隙に逃げるんだけど。さすがに皇子には乱暴できないわ)

 兵たちの首を斬って血の海を作ったという残虐な皇子に見つかるなんて、万事休すとしか言いようがない。とりあえず木箱の裏にでも身を隠そう。
 煙を吸わないように両手で口を押さえ、その場で私は体を反転させた。すると私の足に、コツンと何かがぶつかった。
 先ほどテーブルの上に置かれていたランプだ。

(ああ、ランプが絨毯じゅうたんの上に落ちて火が燃え移ったのね)
「……誰だ」

 物音に気付いた皇子が、地をうような低い声で呟く。

(しまった! 気付かれた!)

 慌てて身を縮めてみたが、もう遅かった。皇子は扇で煙を仰ぎ、私の側に落ちていたランプを見つけて手で拾う。
 扇の風に吹かれて煙が晴れ、皇子の顔が私の目の前にハッキリと現れた。
 褐色かっしょくの肌に、無造作にまとめられた黒髪。精悍せいかんな印象の顔の中で、くすんだ瑠璃るり色の瞳だけがギロリと異様に目立っている。

(この瑠璃るり色の瞳……市場バザールで見た長衣カフタンの男と同じ色ね)

 瞳に気を取られて油断した瞬間、私の頭上めがけて皇子の長剣サーベルが勢いよく振り下ろされる。
 長剣サーベルに埋められた琥珀こはく色の石を目印に、私は剣の動きを瞬時に読み取りながら体をねじって避けた。

「ひえっ、やめてください」
「何者だ。刺客か」
「違います、誤解なんです!」

 宙に残った煙を斬るように、皇子はシャンシャンと音をさせながら長剣サーベルを振り回す。さすがナセルとの戦いで活躍した皇子だけあって、剣筋は確かだ。
 それでも、この元・最恐女戦士の私を斬ることは難しいと思うけれど。
 皇子の剣を次々に避け続けていると、彼もこれは不毛な戦いだと察したのだろう。腕をおろしてため息をつき、絨毯じゅうたんの上に長剣サーベルを投げ捨てた。
 木箱の上に飛び乗って構えていた私と、再び真っすぐに視線が合う。

「お前は――」

 瑠璃るりの瞳をさらにくもらせ、皇子は顔をしかめた。

「お前は、ランプの魔人なのか?」
「ラ、ランプの……え? はあっ⁉」

 思いも寄らない問いが飛んできた。
 どこからどう見てもごく普通の人間である私に向かって、「ランプの魔人」呼ばわりだなんて。
 ふざけて言っているのかとも思ったが、目の前の皇子の表情はいたって真面目だ。

「ランプの魔人って……私がですか?」
「宴の前に、商人ハイヤートが言っていた。俺のために世にも見事な贈り物を準備している、と。それがこのランプとお前のことか?」

 先ほど拾ったランプを指差して、皇子はあごを上げ、偉そうに私を見下ろす。 
 どうやらこの冷徹皇子はなんの変哲もないただのランプを、魔法のランプだと勘違いしているらしい。
 魔法のランプと言えば、ナセルに伝わる昔話に出てくる魔道具の一つ。
 ランプをこすると煙と共に中から魔人が現れ、主人の願いを三つだけ叶えてくれると言われている。
 とても珍しい魔道具で、一生に一度出会えたら奇跡という代物だ。

(やっぱりジャマールには本物の魔法のランプは準備できなかったみたいね。それはそれでよかったんだけど……)

 なかなか問いに答えようとしない私に苛立った様子の皇子は、私を見下ろしたまま口元を引きつらせている。
 確かに、ランプの火が燃え移った絨毯じゅうたんから煙が出ていたから、まるで私がその煙と共にランプの中から現れたように見えたかもしれない。

(でも、あれは魔人が現れた時の煙ではなくて、ただの火事ですから!)
「あの、私は決して魔人などではなく……」
「ハイヤートはなかなかの仕事をしてくれたようだ。まさかこの俺に偽物は寄越すまい。もしも偽物のランプをみついだりしたら、おのれの首が一瞬で飛ぶことくらい、よく分かっているだろうから」
「はい、もちろん本物です! 私は正真正銘のランプの魔人ですっ!」

 木箱から急いで下りると、私は皇子の前で丁寧に頭を下げた。

咄嗟とっさに嘘ついちゃった……)

 皇子の天幕にこっそり忍びこんだ上にランプの魔人を名乗るなど、私はなんと馬鹿なことをしているのだろう。すぐに嘘だと見抜かれるに決まっているのに。
 しかし、もしも皇子にランプが偽物だと知られたら、お父様の首が飛ぶだけではおさまらない。最悪の場合、ハイヤート家は一家もろとも処刑されてしまうかもしれない。
 皇子が勝手に面倒な勘違いをしたくせに、なぜ私たちがこんな目にあわなければならないのだろうか。腹立たしくて、無理矢理ひねり出した笑顔もひくひくと引きつってしまう。

(今は何時ごろかしら。この上ルサードまで見つかってしまったら、大変なことになるわ)
「……にゃあん」
(ああ、ルサードのことを思い出した途端これだ)

 背後から私を呼んだルサードの鳴き声に振り向こうとすると、皇子は私の腕を力いっぱい掴んで止めた。

「あれはなんだ」
「私の飼い猫でして……ちょっと手を放していただいても?」
「あれが猫なものか。見ろ」
「え?」

 煙を吐き出すために天幕の入口が開いていたのが、私の運の尽きだった。
 ルサードのいる角度からはちょうど今宵の明るい月が見える。白くて小さいはずのルサードの体は、みるみるうちに大きくなっていく。
 白毛は月光を浴びて輝きながら長く伸び、獅子ライオンのたてがみに変わる。
 十も数え終わらないうちに、ルサードはすっかりたくましい白獅子ホワイトライオンの姿に変身してしまった。
 しかし皇子はルサードの姿に驚くこともなく、口の端を上げてニヤリと余裕の笑みをたたえる。


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