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1巻
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「なるほど。ランプの魔人は白獅子を操ると言われているからな」
「ああ……そ、そうですね。なにしろ私は本物のランプの魔人なので。白獅子を操るくらいお手の物です」
「ランプの魔人は、主人である俺の願いを三つ叶えてくれるんだろう?」
掴んだままの私の腕をぐいっと引かれ、鼻が触れるほどの至近距離に、皇子の顔が迫る。彼の冷たい瑠璃色の瞳の中に、私の姿が映しだされて揺れた。
「皇子様……」
「アーキルと呼べ。俺はアザリムの第一皇子、アーキル・アル=ラシードだ」
「アーキル様、ですね」
「様もいらん、アーキルでいい。それで、お前の名は?」
「私はリズワナと申します。そっちにいる白獅子がルサードです」
「リズワナに、ルサードか。よく聞け、ランプの魔人リズワナよ。早速一つ目の願いだ」
アーキルはやっと私の腕を放したかと思うと、側にあった寝台の上に私を座らせた。そして長衣を脱いで椅子にかけ、同じ寝台に身を投げ出して寝そべる。
「魔人よ。俺の一つ目の願いは」
「……あの! 実は私、魔人の中でも新人でして……願いは三つではなく、一つのみでお願いできませんか?」
「話が違う。今すぐハイヤートを連れてこい。首をはねてやる」
「いやいや! ごめんなさい! 願いは三つでいいです、頑張ります!」
(うう、上手くごまかせなかったわ)
どうやらこの男の願いとやらを三つ叶えるまで、私は彼から解放されないようだ。地位も権力も財力もすべて手にしているアザリムの第一皇子が、一体私にどんな無茶な願いを吹っかけようというのだろう。
助けを求めてルサードに視線を送るが、獅子の姿になったルサードは、呑気に私の足元までやってきてあくびをするのみだ。
(……もう、ルサードの役立たず! いいわ。とりあえずアーキルの願いを聞こうじゃないの)
半ば自暴自棄になった私は、寝転んでくつろぐアーキルのほうに向き直った。
「さあ、一つ目の願いをどうぞ!」
「俺は生まれてから今まで、まともに眠ったことがない。一度朝まで眠ってみたいのだ……お前にできるか?」
「え?」
(朝まで眠りたい……ですって?)
毎日部屋に引きこもって寝てばかりの私には、まったく理解できない願いだ。そもそも人は、眠らずに生きていられるものだろうか?
「眠らないまま、ずっとこれまで生きてきたのですか?」
「ああ、眠れないんだ。眠り薬を香に入れたところで、なんの役にも立たない」
(お香に眠れる薬を……? ああ、だから私もルサードも、お香の匂いであっさり眠ってしまったのね)
皇子が眠れるように天幕に準備してあったお香の力に、まんまと私たちが引っかかってしまったというわけだ。それさえなければ、きっと今頃ルサードを連れて屋敷に戻れていただろうに。
しかし今はそんなことよりも、皇子の体質のほうが本題だ。
「まったく眠れないなんて、私には想像がつきません。魔法や呪いの類でしょうか?」
「ああ。だからナセルの魔道具が頼みの綱だった」
アーキルは目を閉じ、寝台の上で足を組む。
私のことをランプの魔人だと勘違いしているからか、皇子という立場のくせに随分と気安い。初めて会う相手に簡単に自分の弱みを喋るなど、少々他人に気を許しすぎではないだろうか。
「……分かりました。上手くいくかどうかは分かりませんが、とりあえずやってみましょう」
「ほう、どうするのだ」
「まあ、お待ちください。ルサード、アーキルの枕になれるかしら?」
たてがみを撫でながら囁くと、ルサードはさも面倒くさそうに腰を上げる。私は寝台に敷布を広げ、ルサードをその上に座らせた。
そしてアーキルの腕を引き、ルサードのお腹が枕になるようにもう一度彼を横たわらせた。
「どうです?」
「うむ……毛が柔らかくて、悪くはない」
「でしょう? ではもう一度目を瞑ってください。ルサードを枕にして、私が語る神話を聞いているうちに、きっとアーキルは眠ってしまうと思いますよ」
ランプの魔人であることを疑われないように、私は努めて堂々と背筋を伸ばして微笑んだ。
実を言うと、いつもルサードを枕にして眠っているのはこの私だ。フサフサで柔らかい白い毛に包まれながら、ルサードが語るアザリムの神話を聞いて、毎晩床についている。
魔法の国ナセルから来たルサードは、白獅子に姿を変えると、人の言葉を話せるようになる。彼の語る神話はとても耳ざわりがよくて、まるで子守歌のように私を夢の世界へと誘ってくれる。
そして何よりも、この白くてフワフワした毛に包まれていると癒されて自然と眠気に襲われるのだ。アーキルにもその心地よさを味わってもらおう。眠れないなんて言わせない。
「神話、か」
「ええ、アザリムとナセルがまだ一つの大国だった頃のお話をしましょう」
私がルサードのしっぽを撫でながらそう言うと、アーキルの表情がわずかに曇った。
「……アーキル、もしかして神話はお嫌いでしたか?」
「そんなことはない。神話というと、神だの悪魔だのが出てくるのか?」
「神は登場しますが……今日のお話に悪魔は出てこないですね」
(私のことをランプの魔人だと勘違いするだけあって、アーキルは魔人や悪魔がお好きみたい。おかしな趣味ね)
アーキルは「分かった」と頷くと、もう一度ルサードのお腹に頭をのせて目を閉じた。瑠璃色の瞳にばかり目がいって気付かなかったのだが、彼のまつ毛はとても長くて、目を閉じた姿はまるで神話に出てくる神のように美しい。
「……どうした? 早く始めてくれ」
「あっ、失礼しました。眠たくなったら何も言わず眠ってくださって大丈夫ですよ」
「もしも俺が眠れなかったら?」
「その時は責任を取って、私は魔法のランプの中に退散しますね」
「それは困る」
目を閉じたまま、アーキルは軽い笑みを浮かべた。
しかし、これから眠ろうかというのに、なぜかアーキルの笑みは引きつっていて、体にも力が入って強張っている。
まるで何かに怯えているようにも思えた。
(眠れるのかどうか、そんなに不安なのかしら……。でも大丈夫。ルサードの温かさと白毛に包まれて、眠くならない人なんていないはずよ)
アーキルにどんな呪いや魔法がかけられているのかは知らない。
でも、ルサードは魔法の国ナセルで生まれた不思議な力を持つ白獅子なのだ。ルサードの力があれば、アーキルを眠らせることくらい容易いはずだ。
そして、私が神話を語るのは、アーキルが眠れなかった時のための予防線。
気になる場面で語りをやめて、「続きはまた明日!」とでも言っておこう。そうすればアーキルは物語の先が気になって、簡単に私やお父様の命を奪えなくなるはずだ。
ルサードに目配せをして、私は口を開いた。
昔々、この場所にはアザルヤードという大きな国がありました。
北にはアザルヤード山脈、南にはナーサミーン山脈。ナーサミーンの山からは魔石がたくさん採れました。その魔石を使った魔道具は、アザルヤード全土に行き渡っていました。
ナーサミーン山脈のずっとずっと南にある海は、海神バハルによって治められていました。
海神バハルは陸に憧れていました。ナーサミーンの山々を眺めては、あの山の向こうには何があるのだろう、向こう側に行ってみたいとずっと考えていました。
そんな海神バハルの心につけこんだのが、風神のハヤルでした。
ハヤルも陸に憧れていましたが、いくら陸に向かって飛んでも、毎度ナーサミーンの山々に邪魔されて、山の向こう側に行けないのです。
『ナーサミーンの山々の向こう側には、きっと貴重な宝が眠っているに違いない。その宝を独り占めするために、ナーサミーンが我々の邪魔をしているのだ』
そう考えた風神ハヤルは、海神バハルに言いました。
『共に陸に上がり、ナーサミーンの山を崩して向こう側へ行こう』
海神バハルはその申し出を喜びました。一度でいいから陸に上がってみたいと、ずっと思っていたからです。しかし、バハルには心配の種もありました。
『ナーサミーンの山には、山神ルサドが住んでいると聞く。山を崩せば、ルサドの怒りを買うのではないだろうか』
しかし風神ハヤルはどうしても山の向こうの宝を手に入れたいと思っていましたから、必死で海神バハルを説得しました。
やがて根負けした海神バハルは、風神ハヤルと共に陸を攻め、ナーサミーンの山々を削ることに決めました。
ハヤルはすべての力を使って、ナーサミーンの山に大風を吹きつけました。バハルはハヤルの風を利用して波を高く荒らげ、山に向かって高波を打ち付けました。
山神ルサドは風神と海神に怒りましたが、自分だけでは二神に敵う力はありません。あっと言う間にナーサミーンの山々は削られ、高くそびえ立っていた山頂は崩れて砂となり、山の向こう側にその砂が溜まって砂漠になりました。
『もう少しだ、海神バハルよ。もっと山を削れば、我々は山の向こう側に行ける。宝を手にすることができる』
風神ハヤルが勝利を確信したその時、力尽きた山神ルサドの向こう側から、すさまじい咆哮が響いてきました。
そのあまりの大きさと崇高さに、風神ハヤルと海神バハルは思わず動きを止めて陸のほうを眺めました。
すると、削られて砂になったナーサミーンの山の向こうから、巨大な白獅子が現れたのです。山を一足で跨げるほどの大きなその白獅子は、太陽の光を反射して輝く白いたてがみに雄々しくて立派な尾、そして瑠璃色の瞳を持っていました。
白獅子はもう一度空に向かって雄叫びを上げた後、海神と風神に向かって言いました――
(……)
(…………寝た?)
神話を語る私の側で両目を閉じたアーキルから、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。試しに話すのを止めてみても、気付いて目を開ける様子もない。
(これは、眠っているわよね?)
ルサードはしっぽでアーキルの胸をポンポンと軽く叩きながら、大きく口を開けてあくびをしている。
獅子の姿のルサードは人の言葉を話せることをアーキルに知られないよう、彼が眠るまではあえて口を噤んでいたようだ。
「ルサード。アーキルは寝てる?」
『……ああ、眠ったようだな』
「よかったぁ……さすがルサード! ねえ、今のうちにここから逃げられないかしら?」
『俺は今、枕にされているんだぞ。俺が動けば、皇子は気付いて目を覚ますだろう。それにこのまま逃げたら、ハイヤート家はただではすまん』
「それはそうだけど……元はと言えばルサードがこんなところに来るからいけないのよ! あなたが勝手に散歩にさえ出なければ、こんなことにはならなかったんだから!」
『……静かに、リズワナ』
ルサードは鼻をひくつかせながら、天幕の入口のほうに顔を向けた。
あまりの夜風の冷たさに、つい先ほど天幕の入口を閉めたばかりだったのだが、ルサードはじっとその閉じた入口のほうを見つめている。
(外に誰かが、いるの?)
外の物音に耳を澄ませ、私もルサードと同じ方向を見つめる。
天幕の周りは静寂に包まれている。が、ルサードが感じたのと同じであろう異変を、私もすぐに感じ取った。
夜風と虫の鳴き声に混じって、砂が踏みつぶされるようなかすかな音が聞こえてくる。
その瞬間、私は側にあったアーキルの長剣を手に取って、天幕の外に飛び出していた。
◇
――翌朝。
眠りこけた私の耳元で、穏やかな呼吸音が聞こえる。
左耳がこそばゆくて片目を開けてみるが、まだ辺りは薄暗くてよく見えない。
(日の出もまだじゃない。もうひと眠りしようかしら)
日中の暑さが嘘のように、砂漠の朝晩は空気が冷える。私がルサードの温もりを求めて寝台の上で体を寄せると、突然私の腰のあたりからぐいっと何者かに引き寄せられた。
「ルサード……?」
頬が温かな肌に触れる。しかしルサードの肌にしては、毛がなくて滑らかだ。毛のないところも肌触りがいいものだなんて思いながら、私はルサードの肌に頬をすり寄せる。
「ルサードなら猫に戻ったぞ」
「……あら、そう。もうすぐ朝だものね」
(ん? じゃあ私は誰と喋ってるの?)
一気に目が覚め、私は寝台の上で飛び起きた。
そこは、ハイヤート家の自分の部屋ではなかった。
見慣れない豪華な天蓋、柔らかな敷布、珍しいお香の匂い。
そして私の目の前には、ランプの灯りに照らされた褐色肌のたくましい男が、満面の笑みを湛えて偉そうに寝そべっている。
「きゃあっ! 誰なの⁉」
「ランプの魔人リズワナ。お前はもう昨晩のことを忘れてしまったのか?」
「あっ、ランプの魔人……そうだ、そうでした! 私はランプの魔人リズワナですよ。本物のやつです」
乱れた髪を慌てて整えながらルサードの姿を捜すと、白猫に戻ったルサードは天幕の入口近くで爪をカリカリと研いでいた。
(慌てて焦って、振り回されるのは私だけなのね)
私の恨めしい心の声が届いたのか、ルサードは爪を研ぐのを止め、「にゃあ」と鳴いてこちらに歯を見せた。
昨夜、アーキルが眠った直後のこと。
天幕の外に人の気配を感じた私は、皇子の長剣を拝借して天幕の外に飛び出した。
宴が終わって闇に包まれた、皇子の天幕から少し離れた場所。そこには、見張り役だった騎士たちが何人も倒れていた。辺りには、昨晩アーキルの天幕で焚かれていたものと同じサンダルウッドの香りが漂う。
どうやら第一皇子がここにいることを知って、命を狙いにきた不逞の輩がいるようだ。その刺客は見張りの騎士たちをお香で眠らせ、物陰に身を隠していた。そして天幕から飛び出した私の背中を狙って、突然斬りかかってきたのだ。
刺客は、たった一人。
単独で来たところを見るに、本気でアーキルの命を狙ったわけではないらしい。
私はアーキルの長剣でさっさと刺客をお片付けした後、倒れていた騎士たちの側の木に縄でくくりつけておいた。しばらくして騎士たちが意識を取り戻せば、その時に刺客の始末をどうにかしてくれるだろうと見越して。
ついでに刺客の近くに、アーキルの長剣を放り投げておいた。これで騎士たちは、刺客をやっつけたのはアーキル本人だと勘違いするだろう。
そんな緊迫した事件があったのに、ルサードはすべて私に任せてアーキルと共に寝台でゆっくり休んでいた。『枕代わりの俺が動いたら、せっかく眠ったアーキルが目を覚ますだろう』とかなんとか、とにかく言い訳ばかり。
呆れた私も、ルサードの背中の毛に埋もれてふて寝をしたのだった。
……と、そこまでは記憶しているのだが、いつの間にか私はルサードの背中からずり落ちて、アーキルの隣で熟睡していたらしい。
「男の人の隣で夜を明かすなんて……もう私、お嫁に行けないわ!」
私が絶望して寝台の上で頭を抱えていると、アーキルはいたくご機嫌な様子でハハッと声をあげて笑った。
「なぜ笑うんです?」
「魔人も一丁前に嫁に行くのかと思ってな」
「そっ、そうですよ。魔人には魔人の人生っていうものがあります。これでも一応、私も恋する乙女なんですから!」
「恋する乙女か。それなら、俺の後宮に来ればいい」
「ああ、後宮ですか…………はっ、後宮ッ⁉」
驚いて寝台から転げ落ちそうになった私の腕を掴み、アーキルは私を抱きこむようにして自分の横に寝かせる。
彼のはだけた衣の隙間からは鍛え上げられた褐色の肌が見え隠れし、私は気が動転して顔を背けた。
「やめて! 嫁ぐ前に傷物になりたくないし、私には心に決めた人がいるんです!」
「俺の後宮に入れてやると言っているんだ。もっと喜べ」
「私は愛する相手と結ばれたいんだってば!」
「愛する相手? 魔人の愛する相手とはどんなやつだ? 相手も魔人なのか?」
「それは……何百年も昔の前世の想い人です! 私は今もずっと、生まれ変わった彼を探しているので」
「まさか、人は数百年ごとに生まれ変わるとかいう神話を信じているのか? 魔人のくせにおかしな女だ。何か相手に関する手がかりはあるのか?」
私の頬に手を当てて、アーキルは私の顔を無理矢理自分のほうに向ける。
人の話を真面目に聞く気など微塵もないのだろう。あからさまに私を馬鹿にしたような満足気な笑顔が憎たらしい。
「私の愛した人は、アーキルと違って穏やかで理知的でした」
「ほう。ひどい言われようだ」
「生まれ変わった時に、前世の自分が持っていたものを何か一つは引き継ぐというじゃないですか。だから私は今世でも、彼を見分けられるんじゃないかと思っているんです。きっと彼は今世でも穏やかで優しい性格だと思います。アーキルと違って」
「穏やかで優しい男など、この国にどれだけいると思っているんだ? その分では、愛する相手とやらには出会えそうもないな」
「そんなことありません! 他にも例えば……そうだ! 彼の右胸には獅子の形をした珍しい痣がありました。その痣を持っている人を探せばきっと……」
「獅子の痣だと? これのことか?」
「え?」
アーキルは体を起こし、右半身だけ衣から腕を抜いた。
露わになった彼の褐色の肌は、あちこち傷だらけだ。
(そうだった。アーキルは以前、ナセルと戦って戦地に血の海を作ったという噂があるものね。この傷はその時のものなんだわ)
前世では私も体中を傷だらけにして戦ったものだ。アーキルの体に刻まれた傷の一つ一つが、まるで自分の傷のようにも思えて、私は思わず彼の体に手を伸ばした。
伸ばした私の指の先、彼の右胸には青白い痣。
そっとその痣に触れてなぞってみるが、アーキルの言う通り、確かに獅子の形をしているように見える。
(ナジルと同じ、獅子の痣……)
何か一つは必ず、前世の自分が持っていたものを引き継いで生まれ変わる――神話に記されていた一節を信じるならば、もしや……
「アーキルが彼の生まれ変わりなの?」
「知らん。これは生まれた時からある痣だ。それに前世など覚えているわけがないだろう」
「……そうですよね。彼とあなたは全然違うもの。アーキルとは違って、彼はもっと穏やかで優しかった! それに……」
「騒ぐな。まだ早朝だぞ」
アーキルは私の口を手でふさぎ、反対側の手で私の腕を寝台に押し付ける。
ちょうどその時、私の騒ぐ声を聞きつけたのか、一人の騎士が天幕の外からアーキルを呼んだ。
「アーキル殿下、ご無事でしょうか!」
「……ああ、無事だがどうした?」
「いえ、少し見ていただきたいものがありまして、こちらに来ていただけませんか」
騎士の声がけに、アーキルは気怠そうに立ち上がる。椅子にかけてあった長衣を肩から羽織ると、そのまま天幕の外へ出ていった。
天幕の中には呆然とした私と、ルサードだけが残された。
(……一体どうして? 信じられないけど、あの痣は間違いなくナジルと同じものだった)
アーキルに押し倒された姿勢から体を起こすと、ルサードが私のもとに戻ってきて膝に乗る。
「にゃあぁ! にゃあっ!」
ルサードが言いたいことは分かっている。
騎士がアーキルを呼びに来たのは、天幕の外で木に縛り付けられている刺客を見つけたからに違いない。
身分を隠して狩りに来た先で皇子が刺客に狙われたとあっては、アザリムの一大事だ。アーキルの長剣を刺客の側に置いてきたから、今頃騎士たちは、刺客を倒したのはアーキル自身だと勘違いしているだろう。
アーキルを守れなかった自分たちの無能ぶりを、大いに反省してほしい。主君を守れずして騎士を名乗るなど、許されることではない。
(ああ、でも今の私はそれどころじゃないわ。あの冷徹皇子のアーキルが、ナジル・サーダの生まれ変わりかもしれないんだもの)
期待していたのとは違う、ナジルとの想定外の再会に、混乱して頭が働かない。
にゃあにゃあとうるさいルサードに促されて私は寝台から立ち上がり、天幕の入口から外を覗いてみた。アーキルと騎士たちは、気絶したままの刺客を前にコソコソと何かを話している。
(ほら、あの偉そうな態度。ナジルとは似ても似つかないのに……)
やはり、彼がナジルの生まれ変わりだなんて信じることはできない。
一度頭を冷やして冷静になりたい。一旦ここから逃げてしまおうか。しかし私が急に姿を消したとあれば、お父様の命の保証はない。
(たとえ愛されていなくても、私にとってはたった一人の父親だもの。殺されるのを指をくわえて見ているわけにはいかない)
頭を抱えて悩んでいるうちに、アーキルが騎士たちとの話を終えて、こちらに戻ってきてしまった。
「リズワナ! 最高だ、気に入ったぞ!」
大層ご機嫌な様子で、アーキルは天幕の中に飛びこんでくる。
ルサードと二人で絨毯の上に座りこんでいた私を軽々と抱き上げると、その場でくるくると回って子どものようにはしゃいだ。
「きゃあっ! アーキル、一体何が気に入ったんですか? 目が回りますから下ろして!」
「あれはお前がやったんだろう? 俺を眠らせるための魔法を使っただけでなく、刺客まで返り討ちにしてくれるとはおもしろい!」
アーキルの腕の中にいる私を見て、天幕の入口近くから中を覗いている騎士たちは言葉を失っている。
「皆さんが驚いているじゃないですか、とりあえず放して! 私はアーキルが朝までぐっすり眠れるように、邪魔者を縛っておいただけなので……」
「素晴らしい、気に入った。このままお前をアザリムの都まで連れていく。俺の後宮に入れ。いいな?」
「ええっ⁉ そんな強引な……!」
騎士たちの間で、どよめきが上がる。
もしも許されるのなら、私もそっちのどよめく側に入りたかった。
冷酷無慈悲で有名なアーキル殿下が、見知らぬ女を後宮に入れると宣言しているのだ。私だってどよめきたい。
それなのに私は今、その皇子の腕の中にいる当事者だ。
(これってどう見ても、アーキルが旅先で女を寝所に連れこんでるようにしか見えないわよね。まさか私のことを、ランプの魔人だと思う人はいないだろうし……)
やっとのことでアーキルの腕から下ろしてもらった私の前に、見慣れた男性がひょこっと顔を出した。天幕の入口にずらっと並んでいる騎士たちをかき分けて、天幕の中に入ってくる。
「……失礼します、アーキル殿下。私はここバラシュの商人、バッカール・ハイヤートでございます」
「ああ……そ、そうですね。なにしろ私は本物のランプの魔人なので。白獅子を操るくらいお手の物です」
「ランプの魔人は、主人である俺の願いを三つ叶えてくれるんだろう?」
掴んだままの私の腕をぐいっと引かれ、鼻が触れるほどの至近距離に、皇子の顔が迫る。彼の冷たい瑠璃色の瞳の中に、私の姿が映しだされて揺れた。
「皇子様……」
「アーキルと呼べ。俺はアザリムの第一皇子、アーキル・アル=ラシードだ」
「アーキル様、ですね」
「様もいらん、アーキルでいい。それで、お前の名は?」
「私はリズワナと申します。そっちにいる白獅子がルサードです」
「リズワナに、ルサードか。よく聞け、ランプの魔人リズワナよ。早速一つ目の願いだ」
アーキルはやっと私の腕を放したかと思うと、側にあった寝台の上に私を座らせた。そして長衣を脱いで椅子にかけ、同じ寝台に身を投げ出して寝そべる。
「魔人よ。俺の一つ目の願いは」
「……あの! 実は私、魔人の中でも新人でして……願いは三つではなく、一つのみでお願いできませんか?」
「話が違う。今すぐハイヤートを連れてこい。首をはねてやる」
「いやいや! ごめんなさい! 願いは三つでいいです、頑張ります!」
(うう、上手くごまかせなかったわ)
どうやらこの男の願いとやらを三つ叶えるまで、私は彼から解放されないようだ。地位も権力も財力もすべて手にしているアザリムの第一皇子が、一体私にどんな無茶な願いを吹っかけようというのだろう。
助けを求めてルサードに視線を送るが、獅子の姿になったルサードは、呑気に私の足元までやってきてあくびをするのみだ。
(……もう、ルサードの役立たず! いいわ。とりあえずアーキルの願いを聞こうじゃないの)
半ば自暴自棄になった私は、寝転んでくつろぐアーキルのほうに向き直った。
「さあ、一つ目の願いをどうぞ!」
「俺は生まれてから今まで、まともに眠ったことがない。一度朝まで眠ってみたいのだ……お前にできるか?」
「え?」
(朝まで眠りたい……ですって?)
毎日部屋に引きこもって寝てばかりの私には、まったく理解できない願いだ。そもそも人は、眠らずに生きていられるものだろうか?
「眠らないまま、ずっとこれまで生きてきたのですか?」
「ああ、眠れないんだ。眠り薬を香に入れたところで、なんの役にも立たない」
(お香に眠れる薬を……? ああ、だから私もルサードも、お香の匂いであっさり眠ってしまったのね)
皇子が眠れるように天幕に準備してあったお香の力に、まんまと私たちが引っかかってしまったというわけだ。それさえなければ、きっと今頃ルサードを連れて屋敷に戻れていただろうに。
しかし今はそんなことよりも、皇子の体質のほうが本題だ。
「まったく眠れないなんて、私には想像がつきません。魔法や呪いの類でしょうか?」
「ああ。だからナセルの魔道具が頼みの綱だった」
アーキルは目を閉じ、寝台の上で足を組む。
私のことをランプの魔人だと勘違いしているからか、皇子という立場のくせに随分と気安い。初めて会う相手に簡単に自分の弱みを喋るなど、少々他人に気を許しすぎではないだろうか。
「……分かりました。上手くいくかどうかは分かりませんが、とりあえずやってみましょう」
「ほう、どうするのだ」
「まあ、お待ちください。ルサード、アーキルの枕になれるかしら?」
たてがみを撫でながら囁くと、ルサードはさも面倒くさそうに腰を上げる。私は寝台に敷布を広げ、ルサードをその上に座らせた。
そしてアーキルの腕を引き、ルサードのお腹が枕になるようにもう一度彼を横たわらせた。
「どうです?」
「うむ……毛が柔らかくて、悪くはない」
「でしょう? ではもう一度目を瞑ってください。ルサードを枕にして、私が語る神話を聞いているうちに、きっとアーキルは眠ってしまうと思いますよ」
ランプの魔人であることを疑われないように、私は努めて堂々と背筋を伸ばして微笑んだ。
実を言うと、いつもルサードを枕にして眠っているのはこの私だ。フサフサで柔らかい白い毛に包まれながら、ルサードが語るアザリムの神話を聞いて、毎晩床についている。
魔法の国ナセルから来たルサードは、白獅子に姿を変えると、人の言葉を話せるようになる。彼の語る神話はとても耳ざわりがよくて、まるで子守歌のように私を夢の世界へと誘ってくれる。
そして何よりも、この白くてフワフワした毛に包まれていると癒されて自然と眠気に襲われるのだ。アーキルにもその心地よさを味わってもらおう。眠れないなんて言わせない。
「神話、か」
「ええ、アザリムとナセルがまだ一つの大国だった頃のお話をしましょう」
私がルサードのしっぽを撫でながらそう言うと、アーキルの表情がわずかに曇った。
「……アーキル、もしかして神話はお嫌いでしたか?」
「そんなことはない。神話というと、神だの悪魔だのが出てくるのか?」
「神は登場しますが……今日のお話に悪魔は出てこないですね」
(私のことをランプの魔人だと勘違いするだけあって、アーキルは魔人や悪魔がお好きみたい。おかしな趣味ね)
アーキルは「分かった」と頷くと、もう一度ルサードのお腹に頭をのせて目を閉じた。瑠璃色の瞳にばかり目がいって気付かなかったのだが、彼のまつ毛はとても長くて、目を閉じた姿はまるで神話に出てくる神のように美しい。
「……どうした? 早く始めてくれ」
「あっ、失礼しました。眠たくなったら何も言わず眠ってくださって大丈夫ですよ」
「もしも俺が眠れなかったら?」
「その時は責任を取って、私は魔法のランプの中に退散しますね」
「それは困る」
目を閉じたまま、アーキルは軽い笑みを浮かべた。
しかし、これから眠ろうかというのに、なぜかアーキルの笑みは引きつっていて、体にも力が入って強張っている。
まるで何かに怯えているようにも思えた。
(眠れるのかどうか、そんなに不安なのかしら……。でも大丈夫。ルサードの温かさと白毛に包まれて、眠くならない人なんていないはずよ)
アーキルにどんな呪いや魔法がかけられているのかは知らない。
でも、ルサードは魔法の国ナセルで生まれた不思議な力を持つ白獅子なのだ。ルサードの力があれば、アーキルを眠らせることくらい容易いはずだ。
そして、私が神話を語るのは、アーキルが眠れなかった時のための予防線。
気になる場面で語りをやめて、「続きはまた明日!」とでも言っておこう。そうすればアーキルは物語の先が気になって、簡単に私やお父様の命を奪えなくなるはずだ。
ルサードに目配せをして、私は口を開いた。
昔々、この場所にはアザルヤードという大きな国がありました。
北にはアザルヤード山脈、南にはナーサミーン山脈。ナーサミーンの山からは魔石がたくさん採れました。その魔石を使った魔道具は、アザルヤード全土に行き渡っていました。
ナーサミーン山脈のずっとずっと南にある海は、海神バハルによって治められていました。
海神バハルは陸に憧れていました。ナーサミーンの山々を眺めては、あの山の向こうには何があるのだろう、向こう側に行ってみたいとずっと考えていました。
そんな海神バハルの心につけこんだのが、風神のハヤルでした。
ハヤルも陸に憧れていましたが、いくら陸に向かって飛んでも、毎度ナーサミーンの山々に邪魔されて、山の向こう側に行けないのです。
『ナーサミーンの山々の向こう側には、きっと貴重な宝が眠っているに違いない。その宝を独り占めするために、ナーサミーンが我々の邪魔をしているのだ』
そう考えた風神ハヤルは、海神バハルに言いました。
『共に陸に上がり、ナーサミーンの山を崩して向こう側へ行こう』
海神バハルはその申し出を喜びました。一度でいいから陸に上がってみたいと、ずっと思っていたからです。しかし、バハルには心配の種もありました。
『ナーサミーンの山には、山神ルサドが住んでいると聞く。山を崩せば、ルサドの怒りを買うのではないだろうか』
しかし風神ハヤルはどうしても山の向こうの宝を手に入れたいと思っていましたから、必死で海神バハルを説得しました。
やがて根負けした海神バハルは、風神ハヤルと共に陸を攻め、ナーサミーンの山々を削ることに決めました。
ハヤルはすべての力を使って、ナーサミーンの山に大風を吹きつけました。バハルはハヤルの風を利用して波を高く荒らげ、山に向かって高波を打ち付けました。
山神ルサドは風神と海神に怒りましたが、自分だけでは二神に敵う力はありません。あっと言う間にナーサミーンの山々は削られ、高くそびえ立っていた山頂は崩れて砂となり、山の向こう側にその砂が溜まって砂漠になりました。
『もう少しだ、海神バハルよ。もっと山を削れば、我々は山の向こう側に行ける。宝を手にすることができる』
風神ハヤルが勝利を確信したその時、力尽きた山神ルサドの向こう側から、すさまじい咆哮が響いてきました。
そのあまりの大きさと崇高さに、風神ハヤルと海神バハルは思わず動きを止めて陸のほうを眺めました。
すると、削られて砂になったナーサミーンの山の向こうから、巨大な白獅子が現れたのです。山を一足で跨げるほどの大きなその白獅子は、太陽の光を反射して輝く白いたてがみに雄々しくて立派な尾、そして瑠璃色の瞳を持っていました。
白獅子はもう一度空に向かって雄叫びを上げた後、海神と風神に向かって言いました――
(……)
(…………寝た?)
神話を語る私の側で両目を閉じたアーキルから、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。試しに話すのを止めてみても、気付いて目を開ける様子もない。
(これは、眠っているわよね?)
ルサードはしっぽでアーキルの胸をポンポンと軽く叩きながら、大きく口を開けてあくびをしている。
獅子の姿のルサードは人の言葉を話せることをアーキルに知られないよう、彼が眠るまではあえて口を噤んでいたようだ。
「ルサード。アーキルは寝てる?」
『……ああ、眠ったようだな』
「よかったぁ……さすがルサード! ねえ、今のうちにここから逃げられないかしら?」
『俺は今、枕にされているんだぞ。俺が動けば、皇子は気付いて目を覚ますだろう。それにこのまま逃げたら、ハイヤート家はただではすまん』
「それはそうだけど……元はと言えばルサードがこんなところに来るからいけないのよ! あなたが勝手に散歩にさえ出なければ、こんなことにはならなかったんだから!」
『……静かに、リズワナ』
ルサードは鼻をひくつかせながら、天幕の入口のほうに顔を向けた。
あまりの夜風の冷たさに、つい先ほど天幕の入口を閉めたばかりだったのだが、ルサードはじっとその閉じた入口のほうを見つめている。
(外に誰かが、いるの?)
外の物音に耳を澄ませ、私もルサードと同じ方向を見つめる。
天幕の周りは静寂に包まれている。が、ルサードが感じたのと同じであろう異変を、私もすぐに感じ取った。
夜風と虫の鳴き声に混じって、砂が踏みつぶされるようなかすかな音が聞こえてくる。
その瞬間、私は側にあったアーキルの長剣を手に取って、天幕の外に飛び出していた。
◇
――翌朝。
眠りこけた私の耳元で、穏やかな呼吸音が聞こえる。
左耳がこそばゆくて片目を開けてみるが、まだ辺りは薄暗くてよく見えない。
(日の出もまだじゃない。もうひと眠りしようかしら)
日中の暑さが嘘のように、砂漠の朝晩は空気が冷える。私がルサードの温もりを求めて寝台の上で体を寄せると、突然私の腰のあたりからぐいっと何者かに引き寄せられた。
「ルサード……?」
頬が温かな肌に触れる。しかしルサードの肌にしては、毛がなくて滑らかだ。毛のないところも肌触りがいいものだなんて思いながら、私はルサードの肌に頬をすり寄せる。
「ルサードなら猫に戻ったぞ」
「……あら、そう。もうすぐ朝だものね」
(ん? じゃあ私は誰と喋ってるの?)
一気に目が覚め、私は寝台の上で飛び起きた。
そこは、ハイヤート家の自分の部屋ではなかった。
見慣れない豪華な天蓋、柔らかな敷布、珍しいお香の匂い。
そして私の目の前には、ランプの灯りに照らされた褐色肌のたくましい男が、満面の笑みを湛えて偉そうに寝そべっている。
「きゃあっ! 誰なの⁉」
「ランプの魔人リズワナ。お前はもう昨晩のことを忘れてしまったのか?」
「あっ、ランプの魔人……そうだ、そうでした! 私はランプの魔人リズワナですよ。本物のやつです」
乱れた髪を慌てて整えながらルサードの姿を捜すと、白猫に戻ったルサードは天幕の入口近くで爪をカリカリと研いでいた。
(慌てて焦って、振り回されるのは私だけなのね)
私の恨めしい心の声が届いたのか、ルサードは爪を研ぐのを止め、「にゃあ」と鳴いてこちらに歯を見せた。
昨夜、アーキルが眠った直後のこと。
天幕の外に人の気配を感じた私は、皇子の長剣を拝借して天幕の外に飛び出した。
宴が終わって闇に包まれた、皇子の天幕から少し離れた場所。そこには、見張り役だった騎士たちが何人も倒れていた。辺りには、昨晩アーキルの天幕で焚かれていたものと同じサンダルウッドの香りが漂う。
どうやら第一皇子がここにいることを知って、命を狙いにきた不逞の輩がいるようだ。その刺客は見張りの騎士たちをお香で眠らせ、物陰に身を隠していた。そして天幕から飛び出した私の背中を狙って、突然斬りかかってきたのだ。
刺客は、たった一人。
単独で来たところを見るに、本気でアーキルの命を狙ったわけではないらしい。
私はアーキルの長剣でさっさと刺客をお片付けした後、倒れていた騎士たちの側の木に縄でくくりつけておいた。しばらくして騎士たちが意識を取り戻せば、その時に刺客の始末をどうにかしてくれるだろうと見越して。
ついでに刺客の近くに、アーキルの長剣を放り投げておいた。これで騎士たちは、刺客をやっつけたのはアーキル本人だと勘違いするだろう。
そんな緊迫した事件があったのに、ルサードはすべて私に任せてアーキルと共に寝台でゆっくり休んでいた。『枕代わりの俺が動いたら、せっかく眠ったアーキルが目を覚ますだろう』とかなんとか、とにかく言い訳ばかり。
呆れた私も、ルサードの背中の毛に埋もれてふて寝をしたのだった。
……と、そこまでは記憶しているのだが、いつの間にか私はルサードの背中からずり落ちて、アーキルの隣で熟睡していたらしい。
「男の人の隣で夜を明かすなんて……もう私、お嫁に行けないわ!」
私が絶望して寝台の上で頭を抱えていると、アーキルはいたくご機嫌な様子でハハッと声をあげて笑った。
「なぜ笑うんです?」
「魔人も一丁前に嫁に行くのかと思ってな」
「そっ、そうですよ。魔人には魔人の人生っていうものがあります。これでも一応、私も恋する乙女なんですから!」
「恋する乙女か。それなら、俺の後宮に来ればいい」
「ああ、後宮ですか…………はっ、後宮ッ⁉」
驚いて寝台から転げ落ちそうになった私の腕を掴み、アーキルは私を抱きこむようにして自分の横に寝かせる。
彼のはだけた衣の隙間からは鍛え上げられた褐色の肌が見え隠れし、私は気が動転して顔を背けた。
「やめて! 嫁ぐ前に傷物になりたくないし、私には心に決めた人がいるんです!」
「俺の後宮に入れてやると言っているんだ。もっと喜べ」
「私は愛する相手と結ばれたいんだってば!」
「愛する相手? 魔人の愛する相手とはどんなやつだ? 相手も魔人なのか?」
「それは……何百年も昔の前世の想い人です! 私は今もずっと、生まれ変わった彼を探しているので」
「まさか、人は数百年ごとに生まれ変わるとかいう神話を信じているのか? 魔人のくせにおかしな女だ。何か相手に関する手がかりはあるのか?」
私の頬に手を当てて、アーキルは私の顔を無理矢理自分のほうに向ける。
人の話を真面目に聞く気など微塵もないのだろう。あからさまに私を馬鹿にしたような満足気な笑顔が憎たらしい。
「私の愛した人は、アーキルと違って穏やかで理知的でした」
「ほう。ひどい言われようだ」
「生まれ変わった時に、前世の自分が持っていたものを何か一つは引き継ぐというじゃないですか。だから私は今世でも、彼を見分けられるんじゃないかと思っているんです。きっと彼は今世でも穏やかで優しい性格だと思います。アーキルと違って」
「穏やかで優しい男など、この国にどれだけいると思っているんだ? その分では、愛する相手とやらには出会えそうもないな」
「そんなことありません! 他にも例えば……そうだ! 彼の右胸には獅子の形をした珍しい痣がありました。その痣を持っている人を探せばきっと……」
「獅子の痣だと? これのことか?」
「え?」
アーキルは体を起こし、右半身だけ衣から腕を抜いた。
露わになった彼の褐色の肌は、あちこち傷だらけだ。
(そうだった。アーキルは以前、ナセルと戦って戦地に血の海を作ったという噂があるものね。この傷はその時のものなんだわ)
前世では私も体中を傷だらけにして戦ったものだ。アーキルの体に刻まれた傷の一つ一つが、まるで自分の傷のようにも思えて、私は思わず彼の体に手を伸ばした。
伸ばした私の指の先、彼の右胸には青白い痣。
そっとその痣に触れてなぞってみるが、アーキルの言う通り、確かに獅子の形をしているように見える。
(ナジルと同じ、獅子の痣……)
何か一つは必ず、前世の自分が持っていたものを引き継いで生まれ変わる――神話に記されていた一節を信じるならば、もしや……
「アーキルが彼の生まれ変わりなの?」
「知らん。これは生まれた時からある痣だ。それに前世など覚えているわけがないだろう」
「……そうですよね。彼とあなたは全然違うもの。アーキルとは違って、彼はもっと穏やかで優しかった! それに……」
「騒ぐな。まだ早朝だぞ」
アーキルは私の口を手でふさぎ、反対側の手で私の腕を寝台に押し付ける。
ちょうどその時、私の騒ぐ声を聞きつけたのか、一人の騎士が天幕の外からアーキルを呼んだ。
「アーキル殿下、ご無事でしょうか!」
「……ああ、無事だがどうした?」
「いえ、少し見ていただきたいものがありまして、こちらに来ていただけませんか」
騎士の声がけに、アーキルは気怠そうに立ち上がる。椅子にかけてあった長衣を肩から羽織ると、そのまま天幕の外へ出ていった。
天幕の中には呆然とした私と、ルサードだけが残された。
(……一体どうして? 信じられないけど、あの痣は間違いなくナジルと同じものだった)
アーキルに押し倒された姿勢から体を起こすと、ルサードが私のもとに戻ってきて膝に乗る。
「にゃあぁ! にゃあっ!」
ルサードが言いたいことは分かっている。
騎士がアーキルを呼びに来たのは、天幕の外で木に縛り付けられている刺客を見つけたからに違いない。
身分を隠して狩りに来た先で皇子が刺客に狙われたとあっては、アザリムの一大事だ。アーキルの長剣を刺客の側に置いてきたから、今頃騎士たちは、刺客を倒したのはアーキル自身だと勘違いしているだろう。
アーキルを守れなかった自分たちの無能ぶりを、大いに反省してほしい。主君を守れずして騎士を名乗るなど、許されることではない。
(ああ、でも今の私はそれどころじゃないわ。あの冷徹皇子のアーキルが、ナジル・サーダの生まれ変わりかもしれないんだもの)
期待していたのとは違う、ナジルとの想定外の再会に、混乱して頭が働かない。
にゃあにゃあとうるさいルサードに促されて私は寝台から立ち上がり、天幕の入口から外を覗いてみた。アーキルと騎士たちは、気絶したままの刺客を前にコソコソと何かを話している。
(ほら、あの偉そうな態度。ナジルとは似ても似つかないのに……)
やはり、彼がナジルの生まれ変わりだなんて信じることはできない。
一度頭を冷やして冷静になりたい。一旦ここから逃げてしまおうか。しかし私が急に姿を消したとあれば、お父様の命の保証はない。
(たとえ愛されていなくても、私にとってはたった一人の父親だもの。殺されるのを指をくわえて見ているわけにはいかない)
頭を抱えて悩んでいるうちに、アーキルが騎士たちとの話を終えて、こちらに戻ってきてしまった。
「リズワナ! 最高だ、気に入ったぞ!」
大層ご機嫌な様子で、アーキルは天幕の中に飛びこんでくる。
ルサードと二人で絨毯の上に座りこんでいた私を軽々と抱き上げると、その場でくるくると回って子どものようにはしゃいだ。
「きゃあっ! アーキル、一体何が気に入ったんですか? 目が回りますから下ろして!」
「あれはお前がやったんだろう? 俺を眠らせるための魔法を使っただけでなく、刺客まで返り討ちにしてくれるとはおもしろい!」
アーキルの腕の中にいる私を見て、天幕の入口近くから中を覗いている騎士たちは言葉を失っている。
「皆さんが驚いているじゃないですか、とりあえず放して! 私はアーキルが朝までぐっすり眠れるように、邪魔者を縛っておいただけなので……」
「素晴らしい、気に入った。このままお前をアザリムの都まで連れていく。俺の後宮に入れ。いいな?」
「ええっ⁉ そんな強引な……!」
騎士たちの間で、どよめきが上がる。
もしも許されるのなら、私もそっちのどよめく側に入りたかった。
冷酷無慈悲で有名なアーキル殿下が、見知らぬ女を後宮に入れると宣言しているのだ。私だってどよめきたい。
それなのに私は今、その皇子の腕の中にいる当事者だ。
(これってどう見ても、アーキルが旅先で女を寝所に連れこんでるようにしか見えないわよね。まさか私のことを、ランプの魔人だと思う人はいないだろうし……)
やっとのことでアーキルの腕から下ろしてもらった私の前に、見慣れた男性がひょこっと顔を出した。天幕の入口にずらっと並んでいる騎士たちをかき分けて、天幕の中に入ってくる。
「……失礼します、アーキル殿下。私はここバラシュの商人、バッカール・ハイヤートでございます」
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