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しずかなる嵐
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国語の授業中、ふと先生と目が合った。
「じゃあ沈丁花、さっきの続きから読んで」
「はい」
私は教科書を手に、立ち上がる。
あっという間に最後の行を読み終わると、先生が「はい、座っていいぞ」と言った。
隣の席の鳥塚セントが、コソッと囁く。
「やっぱ、マシロの音読、いいな」
照れくさいのと、複雑な気持ちを隠しながら「ありがとう、セント」と返した。
その日の休み時間は、いつもと違っていた。
爽やかな笑顔を浮かべた長身の男子が、私に向かって右手を差し出してくる。
「やあ、沈丁花くん」
———いや、誰?
私、図書室に行く途中なんですけど。
警戒する私を特に気にする風もなく、男子はニコリと微笑み、言った。
「僕は、宇月ルイ。この十六夜中学校の二年生だ」
二年生の先輩が、何で私に声をかけてくるんだろう。
疑問符を浮かべる私をよそにウガツ先輩は、とてつもない滑舌の良さで自己紹介を始めた。
「好きな科目は音楽と体育。好きな給食は、カタ焼きそば。あのグサグサと固い麺が頬の裏側に突き刺さるのをいかに回避するか、丁寧に丁寧に計算しながら咀嚼するのがとても好きでね。ああ、もちろん刺さったことがある。あれは痛い。とてもね……」
すごい。早口なのにとっても聞き取りやすい。
私の中の〝職業病〟が反応してしまう。
って……感心してる場合じゃないッ!
「あの、先輩。私に何か用ですかっ?」
ウガツ先輩のぱっかり開いた口が「ぐっ」と閉じられた。
「そうだね。単刀直入に言わせてもらおう。一年二組、沈丁花マシロくん。君に、僕の劇団に入ってもらいたいんだ」
「……劇団?」
頭の中で処理するのに、結構な時間を要した。
「え、演劇部ですか?」
「いや、劇団だよ。僕が去年個人的に作った劇団だ」
部活の勧誘じゃなくて、個人的な劇団への勧誘?
そもそもどうして私をその劇団に?
私、これまでウガツ先輩と何か接点、あったっけ。
それ以前に私は演技なんてたいそうなもの、したことがない。
人よりちょっと朗読が好きなだけの、一般人です。
「私には、ムリです。他の人をあたってください」
「まあまあ、そう言わないで……ああ聞いたよ、君の音読。実に素晴らしい」
さっきの国語の時間の音読のことかな。
まあ、窓も開いていたし。
二階にある二年生の教室まで聞こえていても不思議じゃないか。
「あれは、音読じゃない。りっぱな〝朗読〟だ。君の声は、舞台で輝いてこそふさわしい!」
「いや無理です。褒めて頂けるのはとっても嬉しいですけど。でも……」
「とりあえず来てくれないか。見てほしい。見ればわかるさ。劇団の良さが!」
ひらりと優雅に、手の平をこちらへと向けてくるウガツ先輩。
腕を掴まれ、強制的に引っ張られていく。
私は慌てた。
だって私はもう誰かの前で、何かを披露するなんてこと……無理なんだ。
「沈丁花くん。君……」
「はい?」
「まだ、舞台の上に立ちたいんじゃないのかな?」
「え……」
「僕にはわかる。君の朗読にはまだ舞台への想いが捨てきれていない。だから——」
「ややややっぱり私、失礼させて頂きますっ」
私は勢いよく先輩に頭を下げると、身をひるがえし、その場から立ち去ろうとした。
しかし、体がガクンと前後する。
いつのまにか、先輩に腕を掴まれていたのだ。
「放課後だっ」
「はい?」
「放課後、迎えに行くよ。待っていてくれたまえ」
そう言って、ウガツ先輩は嵐のように立ち去っていった。
呆然とその場に立ち尽くしてから、まだまだ先輩の劇団への勧誘は続いていることにようやく気づいた。
「嘘でしょ!」
———何なの、あの〝おかしな先輩〟!
しかも、私の昔のことを知っているみたいだった。
もう金輪際、あの人のペースに乗せられないようにしなきゃ。
今日の放課後は、ダッシュで帰る!
放課後、私はウガツ先輩の姿に警戒しながら教室から出た。
———〝待っていてくれたまえ〟。
なんて言っていたけど……ごめんなさい、先輩。
私、逃げます。ご勘弁くださいっ!
もう私は……あんな気持ちにはなりたくないんです。
「君子危うきに近寄らず、ってね!」
「なに得意げな顔で、渋いことわざつぶやいてんの」
「せ、セントッ?」
いつからいたのか、セントが私の後ろからひょっこりと顔を出す。
「〝君子危うきに近寄らず〟。賢いものは危険なモノには近寄らない、か。勉強が苦手なマシロが、よくこんなことわざを知ってるな。すごいじゃないか」
セントとは保育園の頃からの幼なじみ。
いいやつではあるけれど、こうしてたまに私のことをからかってくるのだ。
「もう、バカにして! 図書館で読み聞かせをやっていた時に『ことわざ絵本』を読んだことがあったの。それをたまたま覚えてただけだよ」
そう。私は以前、図書館で絵本の読み聞かせボランティアをやっていたんだ。
図書館に来た小さな子に、絵本や紙しばいを読むの。
まあ……もう辞めちゃったんだけどね。
「あっ、そういえば……見てたぞ」
「へっ。何を?」
「ウガツ先輩と一緒にいるところだよ。休み時間、声をかけられてたのちょっと聞こえちゃったけど……すごいじゃん。あのウガツ先輩と話してるなんて」
「えっ。ウガツ先輩ってそんなに有名人なの?」
「うわ。お前、マジか」
あからさまに引いた顔をするセントに、私はムッと唇をとがらせた。
「もう。知らないものは、知らないの。そんな言い方ないでしょ」
「悪い悪い……〝劇団ヒミツ基地〟。それが、ウガツ先輩が作った劇団なんだけど……その稽古をする演劇小屋がとにかくすごいんだ!」
そう言ってセントは興奮しながら、ウガツ先輩について教えてくれた。
「見たら、マシロも驚くぞ。とある場所にある空き家を、ウガツ先輩が一人でDIYして舞台を作ったんだってさ」
「ええっ、手作りってこと? それは確かにすごいなあ」
劇団ヒミツ基地。ちょっと見に行ってみたいかも。
「でも、ウガツ先輩ってなんかさ……変わってない? しゃべり方もなんだかわざとらしいというか」
「演劇のためなら、何でもしてしまう人だからな。生粋の演劇モンスターなんだよ」
「も、モンスター? そこまで?」
「マシロ。演技って、何だと思う?」
そんなことを急に聞かれても!
私は、パッと浮かんだ答えをそのまま言う。
「えっと……自分じゃない人を演じること?」
「その通り。だから先輩は〝他人の人生を知ること〟に徹底的にこだわる」
「ええっ! そんなこと、どうやって知るのっ?」
普通に生きていたら、まずはわからないよね。
自分以外の人の人生なんて。
「色んな人に会って、今までの経験談を聞いたり、テレビやネット動画を見まくって、性格や立ち回りを研究しまくっているみたいだ」
「凄すぎる……」
「女性の役をやる時は仕草から話し方まで、女性になりきることもできるらしい。所作の基礎を学ぶために、花道部や茶道部に一時的に入部したこともあるらしいぞ」
うわあ、ストイック!
本物の演技のためなら、底がない人なんだ。
「でもさ……気になってたんだけど、演劇部があるのに、どうしてウガツ先輩は劇団を作ったの?」
「ああ、それは……。まあ、色々理由があるんだろう」
あからさまに気まずそうにする、セント。
複雑な事情でもあるのかな。
「あれ。そういえばセント、美術部は?」
「あ~えっと、今から。マシロがフラフラ歩いてたから、気になって声をかけただけ。ウガツ先輩にからまれ……いや、話しかけられたって聞いてたから」
ちょっと。今、からまれたって言おうとしてたよね。
まあ、正解だけど。
「ありがとう、セント。部活頑張ってね」
「まあ、保育園からのよしみだからな。マシロも気をつけて帰るんだぞ」
緩く手を振り、セントは三階にある美術室への階段を駆け上がっていった。
セントと別れた私は、再びウガツ先輩を警戒しながら昇降口へと向かう。
そんなふうにビクビク歩いていると、ふと思い出す。
初めて人前で物語を読んだ、あの時のこと。
手汗がにじんで。心臓が、バクバク鳴って。
———ねえ、マシロちゃん。どうしたの?
小さい子の心配する声が……。
「待っていたぞ。沈丁花くん」
ハッと我に返る。
ウガツ先輩だ。
昇降口で、私を待ち構えていたらしい。
腕を組み、自信に満ちあふれた満面の笑みだ。
長い足をモデルのようにクロスさせている。
もはやその足に履いているものが上履きに見えない。
どこかのハイブランドの新商品なのではないかと思えるほどの見栄えの良さだ。
「ウガツ先輩。休み時間の時にも言いましたけど、私……」
「勝負しようじゃないか。沈丁花くん」
「は?」
「入団の件、君が首を縦にふらないであろうことが僕には手に取るようにわかる」
わかってるなら諦めてくださいよ。
「だから勝負をしよう。――君の得意な〝朗読〟でね!」
「何でもいい。国語の教科書でも、絵本でも」
そう言って、ウガツ先輩は不敵に微笑んだ。
やっぱりこの人、知ってたんだ。
私が〝絵本の読み聞かせボランティア〟をしていたこと。
———私は、小さな頃から図書館司書だったお母さんに連れられて、毎日のように図書館に通っていた。
そして気がついたら、いつのまにか〝絵本〟の虜になっていたんだ。
図書館の絵本コーナーでは月に二回、保育園や幼稚園、小学校に通う子たちへの読み聞かせの会があって、うちのお母さんもそれに参加していた。
やがて、私が小学五年生になったころのこと。
「マシロも読み聞かせ、来る?」
お母さんが言った。
はじめは、ちょっと恥ずかしかった。
だってさ、本来なら絵本なんてもう卒業してる年齢じゃん。
保育園を卒園したら、絵本も卒業しないといけない。
私は、勝手にそう思ってたんだけど。
でも、絵本は小さい子のものだなんて、私のただの思い込みだったの。
ページを開くたびに、絵本の世界が私の前に広がっていく。
画面いっぱいに広がる絵に、耳障りの心地よい物語。
その一ページにはたくさんの想像と、夢がつまっているんだ。
楽しいに、決まってるよ!
「マシロも読み聞かせ、やってみる?」
ある日お母さんにそう言われ、私は二つ返事でうなずいた。
「じゃあ、来週の日曜日。絵本コーナーでやる読み聞かせ、一冊お願いするね。絵本は……自分で選べる?」
「テーマとか、あるの? 動物とか、くだものとか」
「ないよ。好きな絵本、選んできて」
「好きな本……かあ」
難しかった。
こっちの方がいいのかな。でも、あっちの方がいいのかも。
ああでもない、こうでもないと悩んでいるうちに、読み聞かせの日はあっと言う間にきてしまった。
必死になって選んだ本を、小さい子たちに向けて必死に読んだ。
緊張に緊張が重なり、私はただ文字を追い、ただ物語を読むだけの人になっていた。
それでも、小さい子たちは目をキラキラさせてお話を聞いてくれて。
読み終わったときには、大はしゃぎで「面白かった」と喜んでくれた。
こうして私は、読み聞かせの世界にハマっていった。
でも、そんな大好きだった時間は、あっけなく幕を閉じてしまったんだ……。
私が中学に上がってすぐのことだった。
その日は、大好きな読み聞かせの日。
でも、何だか朝から体調が悪かった。
体温計で熱を測る。いつも通りの平熱。大丈夫だ。
私は万が一のためにマスクをしっかりとつけて、図書館に向かった。
マスクをしてはいるけれど、声を張れば後ろの方にも声が届く。
司書であるお母さんや他の人にも事情を話して、今日はマスクをして読み聞かせをすることを話した。
「わかった。でも読み聞かせが終わったら、すぐに帰りなさいよ」
お母さんが心配してくれるけれど、大袈裟だよ。
熱はないんだし、平気。
今日は自信がある絵本ばかりなんだ。
練習もたくさんした。早く、みんなに読んであげたい。
そう、大丈夫だと思ってた……その時が来るまでは。
絵本コーナーでは、すでにたくさんの子たちが待っていた。
私は急いでみんなの前に座り、たくさんの絵本を見せる。
「今日はたくさん持ってきたよ。どれから聞きたい?」
みんなとわいわい盛り上がりながら、何冊か読み終わった頃のこと。
次の絵本を開き、読み始めると、何やらノドに妙な違和感を感じた。
あれ……声がかすれる。
何だか、おかしい。どうして。
だんだんと、声がうまく出なくなってくる。
そんな。まだまだ、読み聞かせは途中なのに。
「ねえ、マシロちゃん。どうしたの?」
いつも一番前でお話を聞いてくれるリンちゃんが、心配そうに声をかけてくれた。
「ごめんね。大丈夫……」
かすれる途切れ途切れの声で、答えた。
次の行を読もうとするが、声はガサガサ。
いつもの声が出ない。
「マシロちゃん。声が変だよ」
「オオカミさんの声みたい!」
「いや、オニみたいな声だよ!」
これじゃあみんな、ガサガサの声の方が気になって、物語に集中できないよ。
「マシロ」
お母さんが私のそばに来て、耳元で囁いた。
「あんた、やっぱり風邪の引き始めよ。ちゃんと自分の体調を見極めなさい。今日は、もう帰って大人しく寝ていたほうがいいわ。ノドも体も労りなさい」
お母さんのその言葉で、目が覚めたんだ。
私は自分の読み聞かせに自信を持ちすぎて、危うく、みんなに風邪をうつすところだったって。
自分の朗読に酔ってばかりで、みんなのことを見れていなかった。
私は読み聞かせボランティア失格だ。
そう気づいてから、私は図書館に行けなくなってしまった。
こうして私は、自分の読み聞かせボランティア活動に幕を閉じたのだ——
*
思い出せば出すほど、恥ずかしくて消し去りたい過去だ。
未だに、絵本も読み聞かせも好きだけど。
声が出なくなるかもしれないと言う恐怖が、まだ胸の奥にこびりついたままなんだ。
暗い表情の私とは対照的な、朗らかな笑みでウガツ先輩は言った。
「この勝負で〝僕が用意した審査員〟をうならせるような素晴らしい朗読を披露できたら、僕は君の勧誘を諦めることにするよ」
「それって、私にメリットあるんですか?」
「朗読好きの君にとって、挑戦しがいのある勝負だろう?」
人の話をまるで聞かない先輩だ。
まあ勝負に勝てば、ウガツ先輩にからまれなくなるみたいだし。
審査員とか言っていたけれど、小さい子たちの前で読み聞かせをすればいいんだよね。
それなら、これまでやってきたことだもん。
「わかりました。この勝負が終わったら、勧誘を諦めてくれるんですよね」
「もちろん。いい朗読を聞かせてくれたらね」
実は、ちょっとだけ燃えてるんだ。
不本意だけれど、やってみたいと思ってる。
私にとって——久しぶりの舞台!
よーし。
私の朗読でウガツ先輩を「まいった」って言わせてやる~!
「じゃあ沈丁花、さっきの続きから読んで」
「はい」
私は教科書を手に、立ち上がる。
あっという間に最後の行を読み終わると、先生が「はい、座っていいぞ」と言った。
隣の席の鳥塚セントが、コソッと囁く。
「やっぱ、マシロの音読、いいな」
照れくさいのと、複雑な気持ちを隠しながら「ありがとう、セント」と返した。
その日の休み時間は、いつもと違っていた。
爽やかな笑顔を浮かべた長身の男子が、私に向かって右手を差し出してくる。
「やあ、沈丁花くん」
———いや、誰?
私、図書室に行く途中なんですけど。
警戒する私を特に気にする風もなく、男子はニコリと微笑み、言った。
「僕は、宇月ルイ。この十六夜中学校の二年生だ」
二年生の先輩が、何で私に声をかけてくるんだろう。
疑問符を浮かべる私をよそにウガツ先輩は、とてつもない滑舌の良さで自己紹介を始めた。
「好きな科目は音楽と体育。好きな給食は、カタ焼きそば。あのグサグサと固い麺が頬の裏側に突き刺さるのをいかに回避するか、丁寧に丁寧に計算しながら咀嚼するのがとても好きでね。ああ、もちろん刺さったことがある。あれは痛い。とてもね……」
すごい。早口なのにとっても聞き取りやすい。
私の中の〝職業病〟が反応してしまう。
って……感心してる場合じゃないッ!
「あの、先輩。私に何か用ですかっ?」
ウガツ先輩のぱっかり開いた口が「ぐっ」と閉じられた。
「そうだね。単刀直入に言わせてもらおう。一年二組、沈丁花マシロくん。君に、僕の劇団に入ってもらいたいんだ」
「……劇団?」
頭の中で処理するのに、結構な時間を要した。
「え、演劇部ですか?」
「いや、劇団だよ。僕が去年個人的に作った劇団だ」
部活の勧誘じゃなくて、個人的な劇団への勧誘?
そもそもどうして私をその劇団に?
私、これまでウガツ先輩と何か接点、あったっけ。
それ以前に私は演技なんてたいそうなもの、したことがない。
人よりちょっと朗読が好きなだけの、一般人です。
「私には、ムリです。他の人をあたってください」
「まあまあ、そう言わないで……ああ聞いたよ、君の音読。実に素晴らしい」
さっきの国語の時間の音読のことかな。
まあ、窓も開いていたし。
二階にある二年生の教室まで聞こえていても不思議じゃないか。
「あれは、音読じゃない。りっぱな〝朗読〟だ。君の声は、舞台で輝いてこそふさわしい!」
「いや無理です。褒めて頂けるのはとっても嬉しいですけど。でも……」
「とりあえず来てくれないか。見てほしい。見ればわかるさ。劇団の良さが!」
ひらりと優雅に、手の平をこちらへと向けてくるウガツ先輩。
腕を掴まれ、強制的に引っ張られていく。
私は慌てた。
だって私はもう誰かの前で、何かを披露するなんてこと……無理なんだ。
「沈丁花くん。君……」
「はい?」
「まだ、舞台の上に立ちたいんじゃないのかな?」
「え……」
「僕にはわかる。君の朗読にはまだ舞台への想いが捨てきれていない。だから——」
「ややややっぱり私、失礼させて頂きますっ」
私は勢いよく先輩に頭を下げると、身をひるがえし、その場から立ち去ろうとした。
しかし、体がガクンと前後する。
いつのまにか、先輩に腕を掴まれていたのだ。
「放課後だっ」
「はい?」
「放課後、迎えに行くよ。待っていてくれたまえ」
そう言って、ウガツ先輩は嵐のように立ち去っていった。
呆然とその場に立ち尽くしてから、まだまだ先輩の劇団への勧誘は続いていることにようやく気づいた。
「嘘でしょ!」
———何なの、あの〝おかしな先輩〟!
しかも、私の昔のことを知っているみたいだった。
もう金輪際、あの人のペースに乗せられないようにしなきゃ。
今日の放課後は、ダッシュで帰る!
放課後、私はウガツ先輩の姿に警戒しながら教室から出た。
———〝待っていてくれたまえ〟。
なんて言っていたけど……ごめんなさい、先輩。
私、逃げます。ご勘弁くださいっ!
もう私は……あんな気持ちにはなりたくないんです。
「君子危うきに近寄らず、ってね!」
「なに得意げな顔で、渋いことわざつぶやいてんの」
「せ、セントッ?」
いつからいたのか、セントが私の後ろからひょっこりと顔を出す。
「〝君子危うきに近寄らず〟。賢いものは危険なモノには近寄らない、か。勉強が苦手なマシロが、よくこんなことわざを知ってるな。すごいじゃないか」
セントとは保育園の頃からの幼なじみ。
いいやつではあるけれど、こうしてたまに私のことをからかってくるのだ。
「もう、バカにして! 図書館で読み聞かせをやっていた時に『ことわざ絵本』を読んだことがあったの。それをたまたま覚えてただけだよ」
そう。私は以前、図書館で絵本の読み聞かせボランティアをやっていたんだ。
図書館に来た小さな子に、絵本や紙しばいを読むの。
まあ……もう辞めちゃったんだけどね。
「あっ、そういえば……見てたぞ」
「へっ。何を?」
「ウガツ先輩と一緒にいるところだよ。休み時間、声をかけられてたのちょっと聞こえちゃったけど……すごいじゃん。あのウガツ先輩と話してるなんて」
「えっ。ウガツ先輩ってそんなに有名人なの?」
「うわ。お前、マジか」
あからさまに引いた顔をするセントに、私はムッと唇をとがらせた。
「もう。知らないものは、知らないの。そんな言い方ないでしょ」
「悪い悪い……〝劇団ヒミツ基地〟。それが、ウガツ先輩が作った劇団なんだけど……その稽古をする演劇小屋がとにかくすごいんだ!」
そう言ってセントは興奮しながら、ウガツ先輩について教えてくれた。
「見たら、マシロも驚くぞ。とある場所にある空き家を、ウガツ先輩が一人でDIYして舞台を作ったんだってさ」
「ええっ、手作りってこと? それは確かにすごいなあ」
劇団ヒミツ基地。ちょっと見に行ってみたいかも。
「でも、ウガツ先輩ってなんかさ……変わってない? しゃべり方もなんだかわざとらしいというか」
「演劇のためなら、何でもしてしまう人だからな。生粋の演劇モンスターなんだよ」
「も、モンスター? そこまで?」
「マシロ。演技って、何だと思う?」
そんなことを急に聞かれても!
私は、パッと浮かんだ答えをそのまま言う。
「えっと……自分じゃない人を演じること?」
「その通り。だから先輩は〝他人の人生を知ること〟に徹底的にこだわる」
「ええっ! そんなこと、どうやって知るのっ?」
普通に生きていたら、まずはわからないよね。
自分以外の人の人生なんて。
「色んな人に会って、今までの経験談を聞いたり、テレビやネット動画を見まくって、性格や立ち回りを研究しまくっているみたいだ」
「凄すぎる……」
「女性の役をやる時は仕草から話し方まで、女性になりきることもできるらしい。所作の基礎を学ぶために、花道部や茶道部に一時的に入部したこともあるらしいぞ」
うわあ、ストイック!
本物の演技のためなら、底がない人なんだ。
「でもさ……気になってたんだけど、演劇部があるのに、どうしてウガツ先輩は劇団を作ったの?」
「ああ、それは……。まあ、色々理由があるんだろう」
あからさまに気まずそうにする、セント。
複雑な事情でもあるのかな。
「あれ。そういえばセント、美術部は?」
「あ~えっと、今から。マシロがフラフラ歩いてたから、気になって声をかけただけ。ウガツ先輩にからまれ……いや、話しかけられたって聞いてたから」
ちょっと。今、からまれたって言おうとしてたよね。
まあ、正解だけど。
「ありがとう、セント。部活頑張ってね」
「まあ、保育園からのよしみだからな。マシロも気をつけて帰るんだぞ」
緩く手を振り、セントは三階にある美術室への階段を駆け上がっていった。
セントと別れた私は、再びウガツ先輩を警戒しながら昇降口へと向かう。
そんなふうにビクビク歩いていると、ふと思い出す。
初めて人前で物語を読んだ、あの時のこと。
手汗がにじんで。心臓が、バクバク鳴って。
———ねえ、マシロちゃん。どうしたの?
小さい子の心配する声が……。
「待っていたぞ。沈丁花くん」
ハッと我に返る。
ウガツ先輩だ。
昇降口で、私を待ち構えていたらしい。
腕を組み、自信に満ちあふれた満面の笑みだ。
長い足をモデルのようにクロスさせている。
もはやその足に履いているものが上履きに見えない。
どこかのハイブランドの新商品なのではないかと思えるほどの見栄えの良さだ。
「ウガツ先輩。休み時間の時にも言いましたけど、私……」
「勝負しようじゃないか。沈丁花くん」
「は?」
「入団の件、君が首を縦にふらないであろうことが僕には手に取るようにわかる」
わかってるなら諦めてくださいよ。
「だから勝負をしよう。――君の得意な〝朗読〟でね!」
「何でもいい。国語の教科書でも、絵本でも」
そう言って、ウガツ先輩は不敵に微笑んだ。
やっぱりこの人、知ってたんだ。
私が〝絵本の読み聞かせボランティア〟をしていたこと。
———私は、小さな頃から図書館司書だったお母さんに連れられて、毎日のように図書館に通っていた。
そして気がついたら、いつのまにか〝絵本〟の虜になっていたんだ。
図書館の絵本コーナーでは月に二回、保育園や幼稚園、小学校に通う子たちへの読み聞かせの会があって、うちのお母さんもそれに参加していた。
やがて、私が小学五年生になったころのこと。
「マシロも読み聞かせ、来る?」
お母さんが言った。
はじめは、ちょっと恥ずかしかった。
だってさ、本来なら絵本なんてもう卒業してる年齢じゃん。
保育園を卒園したら、絵本も卒業しないといけない。
私は、勝手にそう思ってたんだけど。
でも、絵本は小さい子のものだなんて、私のただの思い込みだったの。
ページを開くたびに、絵本の世界が私の前に広がっていく。
画面いっぱいに広がる絵に、耳障りの心地よい物語。
その一ページにはたくさんの想像と、夢がつまっているんだ。
楽しいに、決まってるよ!
「マシロも読み聞かせ、やってみる?」
ある日お母さんにそう言われ、私は二つ返事でうなずいた。
「じゃあ、来週の日曜日。絵本コーナーでやる読み聞かせ、一冊お願いするね。絵本は……自分で選べる?」
「テーマとか、あるの? 動物とか、くだものとか」
「ないよ。好きな絵本、選んできて」
「好きな本……かあ」
難しかった。
こっちの方がいいのかな。でも、あっちの方がいいのかも。
ああでもない、こうでもないと悩んでいるうちに、読み聞かせの日はあっと言う間にきてしまった。
必死になって選んだ本を、小さい子たちに向けて必死に読んだ。
緊張に緊張が重なり、私はただ文字を追い、ただ物語を読むだけの人になっていた。
それでも、小さい子たちは目をキラキラさせてお話を聞いてくれて。
読み終わったときには、大はしゃぎで「面白かった」と喜んでくれた。
こうして私は、読み聞かせの世界にハマっていった。
でも、そんな大好きだった時間は、あっけなく幕を閉じてしまったんだ……。
私が中学に上がってすぐのことだった。
その日は、大好きな読み聞かせの日。
でも、何だか朝から体調が悪かった。
体温計で熱を測る。いつも通りの平熱。大丈夫だ。
私は万が一のためにマスクをしっかりとつけて、図書館に向かった。
マスクをしてはいるけれど、声を張れば後ろの方にも声が届く。
司書であるお母さんや他の人にも事情を話して、今日はマスクをして読み聞かせをすることを話した。
「わかった。でも読み聞かせが終わったら、すぐに帰りなさいよ」
お母さんが心配してくれるけれど、大袈裟だよ。
熱はないんだし、平気。
今日は自信がある絵本ばかりなんだ。
練習もたくさんした。早く、みんなに読んであげたい。
そう、大丈夫だと思ってた……その時が来るまでは。
絵本コーナーでは、すでにたくさんの子たちが待っていた。
私は急いでみんなの前に座り、たくさんの絵本を見せる。
「今日はたくさん持ってきたよ。どれから聞きたい?」
みんなとわいわい盛り上がりながら、何冊か読み終わった頃のこと。
次の絵本を開き、読み始めると、何やらノドに妙な違和感を感じた。
あれ……声がかすれる。
何だか、おかしい。どうして。
だんだんと、声がうまく出なくなってくる。
そんな。まだまだ、読み聞かせは途中なのに。
「ねえ、マシロちゃん。どうしたの?」
いつも一番前でお話を聞いてくれるリンちゃんが、心配そうに声をかけてくれた。
「ごめんね。大丈夫……」
かすれる途切れ途切れの声で、答えた。
次の行を読もうとするが、声はガサガサ。
いつもの声が出ない。
「マシロちゃん。声が変だよ」
「オオカミさんの声みたい!」
「いや、オニみたいな声だよ!」
これじゃあみんな、ガサガサの声の方が気になって、物語に集中できないよ。
「マシロ」
お母さんが私のそばに来て、耳元で囁いた。
「あんた、やっぱり風邪の引き始めよ。ちゃんと自分の体調を見極めなさい。今日は、もう帰って大人しく寝ていたほうがいいわ。ノドも体も労りなさい」
お母さんのその言葉で、目が覚めたんだ。
私は自分の読み聞かせに自信を持ちすぎて、危うく、みんなに風邪をうつすところだったって。
自分の朗読に酔ってばかりで、みんなのことを見れていなかった。
私は読み聞かせボランティア失格だ。
そう気づいてから、私は図書館に行けなくなってしまった。
こうして私は、自分の読み聞かせボランティア活動に幕を閉じたのだ——
*
思い出せば出すほど、恥ずかしくて消し去りたい過去だ。
未だに、絵本も読み聞かせも好きだけど。
声が出なくなるかもしれないと言う恐怖が、まだ胸の奥にこびりついたままなんだ。
暗い表情の私とは対照的な、朗らかな笑みでウガツ先輩は言った。
「この勝負で〝僕が用意した審査員〟をうならせるような素晴らしい朗読を披露できたら、僕は君の勧誘を諦めることにするよ」
「それって、私にメリットあるんですか?」
「朗読好きの君にとって、挑戦しがいのある勝負だろう?」
人の話をまるで聞かない先輩だ。
まあ勝負に勝てば、ウガツ先輩にからまれなくなるみたいだし。
審査員とか言っていたけれど、小さい子たちの前で読み聞かせをすればいいんだよね。
それなら、これまでやってきたことだもん。
「わかりました。この勝負が終わったら、勧誘を諦めてくれるんですよね」
「もちろん。いい朗読を聞かせてくれたらね」
実は、ちょっとだけ燃えてるんだ。
不本意だけれど、やってみたいと思ってる。
私にとって——久しぶりの舞台!
よーし。
私の朗読でウガツ先輩を「まいった」って言わせてやる~!
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