月夜のモノガタリヒメ

たそかれぼたん生雨(きう)

文字の大きさ
3 / 29

3 不意うち

しおりを挟む
「誰かに気取られると面倒だよ」
 兄が囁いた。
「殿からはその後何もないだろうね?」
 私は黙って頷く――と同時に局の戸ががたりと揺れた。
 兄が目を細め,しどけなき衣を繕いながら立ちあがる。更に私の部屋の奥に身を潜めるのを見届けてから開扉して渡殿を睥睨する。
 灯火に誘われる虫さえ皆無であった。
 屯して談笑したり,行きつ戻りつ歌詠みかわす上達部かんだちめや殿上人も興味が尽きたのか誰一人いない。拍子抜けした兄が閉扉し両袂で虚空後方を払い,すとんと腰をおろせばまた戸が揺さぶられる。
 室外を確かめても人影はない……     
 同じことが幾度か続いた。
 戸を鎖した兄が今度はその場を動かないまま息を殺し,相手の反応を待ち構えた。
 戸が叩かれるなり飛びだす。
「戯れ事はおよしなされ!」
 ――その手が摑んでいるのは幼な子のいたいけな肩である。
「内親王さま……」
 祐子内親王は予期せぬ粗暴な振る舞いに遭い,泣きだしてしまった。夷まがいの乱暴者を部屋の隅に追いやり,内親王を胸に抱き,物語の一節を繰りだす。
 皺くちゃの涙顔が,天稟の怜悧溢れる笑顔に忽ち転じた。
「ねえ,月に帰ったりしないでね。ずっとそばにいて頂戴」
 私を覗きこむ円らな瞳が俄に搔き曇る。
 ふき寄せる一陣の風に灯火が揉み消されたのである。雷鳴が鳴り響き,激しい雨音につつまれる。地を割るような轟音と震動が襲来し,御殿の八方から女房たちの悲鳴があがった。
 喧噪が急激に伝播していく。
 兄がうっすら戸をあければ,裏返った声で情報交換する遣り取りや走り惑う足音がどっと押しいる。
 夜の御殿に落雷があったという。建物の倒壊もあり,多数の宮人が下敷きになっているとか。
「主上と后の御所在も不明らしい……」
 兄が力なく腰をおろす。
ははさまは? 上さまは? どうかなされた?」
 内親王が屈託なく問う。
「兄上――」
 胸騒ぎを抑えられない。
「兄上!――」
「ああ,そうだな――」
と,立ちあがるものの再び座りこむ。
「兄上!」
「ならぬ。俺はそばにおられねばならぬ」
「何を言うのです! 一大事なのですよ!」
「しかし,おまえは――誰が守る?」
「兄上――このようなときにまで不埒な真似に及ぶ閑人はいませんよ。中年変態女にそこまでする価値はありません。早く行ってください!」
「だが……」
 指貫を握りしめたまま動こうとしない。
「恐いのでしょう」
「何だと……」
「厄介事の巻き添えになるのが恐いのです。大の男たる者が情けない。そうした心根だから力勝負の喧嘩で妹に負けていたのです――そうです。今でもいざとなったら私のほうが強いのですよ。自らも,内親王さまも,必ず守ってみせますから」
 兄は分厚い唇を嚙みしめていたが,妹の身体を軽く揺すって玉の弾けるように局を駆けだしていった。
 傍輩や女医博士や大学寮の職員たちに呼びとめられても脇目も振らず弘徽殿に内親王を送りとどけた。ただ,内親王が私の局に帰るのをぐずって許さない。
「昇天してしまうのでしょう! 戻ってこないつもりでしょう!」
 舌足らずの言葉遣いで責めたてる。
「はははは……」
 不意をつかれた――
 御帳台内側から頼通が滑りでて人払いをする。
「我が儘はいけませぬぞ」
 内親王の頭を撫でようとするが,その手が叩き落とされる。
ととさま,嫌い!」
 思わず仰ぎみた私の視線先の,頼通の端整な細面が硬直していく。
「……何ゆえお分かりにならぬのです?」
 頼通が私を見据えたまま内親王の目線におりた。
「よくよく申しあげたではございませぬか。――私はじじさま――爺さまですぞ」
「嫌い,嫌い,父さま嫌い!」
 白い歯を剝きだして反感を露わにする。
「物覚えの悪いお子だ――」
 手足を動かし暴れる内親王を無理やり押さえつける。
「一体誰に似たのだろう。中関白なかのかんぱく家の血が濃いのかね……」
 頼通養女の中宮嫄子は敦康親王あつやすしんのうを実父とする。敦康親王は中関白藤原道隆みちたかの娘,一条天皇皇后定子ていしの所生である。道隆の死後,頼通の姉彰子しょうしが中宮となるに伴い,定子は皇后に移されたのである。定子兄弟の失脚も相俟って中関白家は没落していく。
 内親王が頑として「父さま」という言葉を連呼するので,頼通は小さな身を後方から搔き寄せ,活発に動く口を塞ごうとする。内親王が我が顎に絡みつく指に猛然と嚙みつけば,濃紫の袖を翻しながら高々と掲げられた腕が今,振りおろされる――
 頼通の体が弾け飛び,虚空で開脚したまま仰向けの状態で倒れた。
「あれ勇ましい……」
 紅潮する顔面の憤怒の色が羞恥と驚異のそれに塗りかえられる。
「女人とは思われぬ――猪のごとき凄まじさにございましたな」
 呻吟しつつ半身を起こす頼通の前に,内親王が立ち塞がり両腕を広げた。
「モノガタリヒメは悪くない」
 中流階級の女房風情が関白左大臣に体あたりしてしまったことに気づく――
 平伏そうとする私を押しとどめ,頼通は一首口遊む。それは遥か若き日の月も星も搔き消えた夜半よわ,耳もとで聞いた歌である。
「人とは,ただならぬ仲になれば,うってかわって厚かましく馴れなれしき態度にかわるもの。そうしたさがに実のところ嫌気がさしておるのです。ところがあなたは全く違う。むしろよそよそしくなられて――それを私は物足りなくも寂しくも感じておりました。けれどもこれほど尋常でなく手厳しき仕打ちをなさるとは,お気持ちも緩みつつある気配と受けとめても宜しいのでしょう?」
 耳孔を弄ぶ囁きに驚けば,既に腕をとられている。
「モノガタリヒメを虐めるな!」
 内親王が両拳を交互にうちおろし男の足を責めた。
「無粋はよしなさい。あまり強情が過ぎると,モノガタリヒメを月へお帰し申しますぞ」
「ああぁ,ああぁ~ん!」
 ついに声をあげて泣きはじめた。涙の粒がふきこぼれる。
「人が参りますよ」
 震える声で上申する。
「落雷騒ぎでそれどころではございませぬ」
「不謹慎でございます」
「御安心を――上さまも宮さまも夜の御殿にはいらっしゃいませんでしたから。既に襲芳舎に避難され弦打ちさせておいでです――ですから御安心召されよ」
「誰かに見られましょう。世間に知れては困ります」
「見せてやりましょう。みな疾うに勘づいております――私とあなたとの関係を。子までなしているのだと邪推する者もいる」
 優しげな声色を出したかと思えば,いきなり抱きあげる。
「いっそ誠にするのです!」
「おやめください!――」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。 人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。 防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。 どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

処理中です...