月夜のモノガタリヒメ

たそかれぼたん生雨(きう)

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5 ――盗み聞き――覗き見――

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「まだおられたか……」
 頼通は辟易したありさまで扇を折り畳む。
 時は――中宮嫄子が禖子ばいし内親王を出産した長暦3年8月19日より8日後の暁方である。
「話が尽きませぬで」
 兄が微笑を浮かべて応対する。
「ところで殿におかれましては度々のお運びにて痛みいります。有職故実の諸事につきてでございましょうか。何なりとお尋ねくださいませ」
「……はは,はははは……いやいや構わぬ。通りかかっただけなのです」
 その背を見送りながら姿勢を低めて兄が言う。
「こちらから参上せねばならぬところを恐縮至極にございます。御用の折はお申しつけくださいませ。万事さし置き馳せ参じまする」
 頼通の空笑いが遠ざかるのを待ち,兄は局の戸を鎖す。
「皇子の誕生叶わず,よほど面白くないらしい。憂さ晴らしなら,ほかをあたってもらいたいぜ。しかしながら中年変態女にこれほど執心とは,殿も相当の変わり者だ」
「優美で嫋やかな女人に囲まれておいでだから,物珍しくお感じなのでしょう」
「ならば並の女人のように優美で嫋やかに振る舞えよ。さすれば殿も飽きてくださろうというもの」
「並の女人のようであってみなさい――あの夜も無事では済まなかったわよ」
「あの夜のことは口にするな――」
 そう表情をかたくする。
 落雷後に内裏の焼亡した夜の出来事を,兄は話題にすることを嫌った。話題にしたくない理由があるに違いない……
 頼通から逃れて迷いこんだ殿舎は,天皇と中宮が落雷を退避している襲芳舎であった。雷鳴壺かみなりのつぼとも称されるのは,落雷の折の天皇の避難先にあたっているためである。或いは落雷を受けた庭木の残っているためであるとも伝えられる。
 私の至った時点で既に天皇と中宮の姿はなかった。しかし夥しい数の人々が気絶していた。蓋し彼らの息はなかったように思う。それら屍の連なりのむこうから現れたのが兄と足柄である。むこう側の果てに2人の見たものは何であったのか――語ろうとする者も尋ねようとする者もいない。そして燃え盛る炎が内裏諸共に一切を焼き尽くし,今となっては真相を解き明かすよすがの欠片さえも残らない……
「おい,聞いているのかい」
 兄の顔を寄せている気配を感じる。
「……ちょうどあの頃に頂いた話があっただろう? 随分経つのだから当然先方にはもう北の方がある。だが我が儘は言えないぜ。随分な年齢なのだ。……あのね,おまえのことを今でもたいそう気にしておいでだよ。だから無下な扱いなど決してなさるまい。さる筋から耳にした話だが,三条にある屋敷を収得しようと奔走されているとか。きっとそちらにお迎えになるおつもりなのだ。だとすれば,そこで家政を握る者が正妻格ということになるのだし……」
 橘俊通たちばなのとしみちとの縁談に迷っていた時分,大罪を犯した娘は自らの不浄を恥じて婚姻を諦めた。今更妻帯者に嫁ぎ,北の方より恨みを買って罪業を深めるばかりの嘆かわしい身の振り方ができようはずもない。
「うん,そうだな。所詮おまえには無理だ。三十路の夢幻放浪女に家政を切り盛りする才覚などあるものか。父上がその気になっておられるから一言申しあげておかねばなるまい……聞こえているかい?……眠ってしまった?――ああ何と寝穢いぎたない」
 溜め息が漏れる。
「憚りもなく,こうした場所で寝るかね。中年変態女め――」
 妹を抱きあげて几帳のなかに押しこめる。そしてすぐさま身を翻し,戸口のほうへ近づいていく。
 また訪う人のあるらしい。
「朝駆けにでもお供しましょうか――」
 戸の軋みに潜みながら湿った涼気が忍びこむ。鼻孔を擽る仄かな感覚に意識がとらわれた。庭に群生する紫苑の香りである。
「何だ,殿ではなかったか――申し訳ないが,妹の休んでおりますゆえお話はまたいずれ。かく言う兄も,杞憂の宿直とのい明けにて甚だ疲労しておりまして」
 冗談めかしつつも慎重に防御線を張る。
「あの……テイさま……こちらをお持ちしたのです」
 掠れ声が,外気に中和される室内の気に染み渡る。
「テイさまと姫君さまの――」
 しっ――と兄が鋭い息を吐き,発言を遮った。足柄が詫びる。
「ですが足柄は心配で心配で――私めの申したように朝夕2度の御服用をお守りいただいておられますや――」
「こちらへ!」
 𠮟りつけるような言葉のあと,足音と衣擦れが室外へと移動する。 
 それを追って別の衣擦れと軽やかな足取りも遠ざかる。
 戸が閉まった。
 むくりと起きあがる。そして私は戸ににじり寄り,耳を密着させた……
「頂戴した散剤のおかげで咳嗽も悪寒もとれました。際だった支障や倦怠などもなく至極順調です」
 兄の低い声が辛うじて届く。
「あれにはもとより何の症状もございませぬが,念のため朝晩の食事に手ずから盛っております。本人にはそれと知らせず」
「お二方ともお健やかであらせられるのですね。安堵いたしました。誠にようございました」
「乱用すれば臓物を壊す恐れもある薬と承知しております。さすればお心遣いも此度限りにおとどめくださいませ。御厚情のほど感に堪えませぬ――ではこれにて」
「何ゆえ,さような余所よそしい語り口をなさるのです」
「内覧の御方さま――」
「私めは足柄です!――足柄と呼んでください!」
 高く声を張りあげる。
 足柄は,頼通に寄せられる膨大な文書を内見し,諸々の事務を代行する役目を担っているために世人から「内覧の御方」と称されている。
「足柄と呼んでくだされば宜しいではございませぬか!」
「落ち着かれませ。みなが目覚めてしまいましょう」
「いやです! 足柄とお呼びくださるまで決して黙りませぬ!」
 箍のはずれたように激昂する。
「あなたさまは殿にお仕えしている方なのです。昔の名前でお呼びするなど,殿に対する不敬にあたります。お困らせなさいますな」
「昔の名前ではございませぬ! 今でも足柄です! 一瞬たりとも足柄でなかったときはございませぬ! 何を仰ろうとも私めは足柄です! テイさまだけの足柄なのです!」
 戸外が沈黙に押しつつまれた。足柄の声も兄の声も聞こえない。
 衝動に駆られた。
 駄目よ駄目駄目そんなことしては。でもでもでもでもでもでも――えいっ儘よ! 戸をうっすらあけてみる――
 足柄が魂の抜かれたような顔つきで兄の足もとに崩れ落ちた。背をむける兄が乱暴に足柄の腕を摑んで起きあがらせるなり対屋づたいに廊を移動していく。足柄は頰を赤らめ,なされるがまま抗わない。廊の果てに連なる木階を駆けおり,兄が無造作に手を放てば,しなやかな身体が舞いながら紫苑の苑に沈み,衣の薄色に濃い紫が点々と染め抜かれた。
 私は匍匐して局の際限まで達すると,御簾をわずかに浮かし,対屋裏手を覗き見する。
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