月夜のモノガタリヒメ

たそかれぼたん生雨(きう)

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20 南無阿弥陀仏

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 逃げ惑う人々の紙燭が飛び交う蛍のように交錯した。混沌に巻きこまれつつ,車宿りの後方まで押し流された。目端を過ってはらりと落ちるものがある――木の葉である。闇より濃い影を落とす大樹の傍らに立っていた。
 幹に搔きつき,よじ登る。分岐する枝に手をかけたところで追跡する者に気づく。俊通が追ってくる。
「まあ情けない! すぐに戻って内侍さまをおとめしなさい! 男たる者,逃げては駄目よ!」
「男とて恐いものは恐いのです――」
 人の足もとをちらちら覗き,口答えする。
「どうか,お供させてくださいませ」
「衣のなかを覗いたわね」
 返答はないが,顔色は噓をつけない。
 仕方なく先に行かせ,私が俊通の下に位置し木登りを続行する。
 登りやすい木である。しかし俊通はしばしば危うい状態に陥り,ひどく手間取らせる。人の重みに耐えうるであろう堅固そうな枝に体を凭せるまでに甚だ時間がかかった。自分1人なら更に高みまで行けるであろうに。
 俊通が息を切らせながら偉業を成し遂げたかのような達成感に満ちた顔をする。
「お小さい時分に,木登りされた御経験が? 私は一度もございませぬ」
「そう,私は今でも時々――」
 眼下の内侍が足を滑らせ,転倒する。泥を搔きつつ身を起こした顔面から二つの眼球がどろりと垂れて,泥濘の水溜に落ちた拍子に飛沫を飛ばした。
 悲鳴をあげた従者に,内侍がむきなおるや否や原形をとどめない鼻が捥げ,皮膚の糸をひきながら別の従者の頰に吸着する。頰の異物に恐れ戦き泣き叫ぶ仲間を尻目に散りぢりに逃げ去る従者たちを追撃せんと内侍がよろめきながら立ちあがる――
「何ゆえ逃げる! 逃げるでない!」
「内侍さま!――何卒申し開きをお聞きくださいませ!」
 私は枝に腰かけ,幹を抱いて精一杯に声を張りあげた。
「望んで内侍さまを湯に沈めたのではありませぬ! ああでもせねば自らの命が危うかったゆえ,致し方なかったのでございます! けれども誠に申し訳なくも存じております! 薬師がおるのです! 対馬に隠遁する仙人のごとく名医にございます! かつて内覧の御方さまが火事にて童を救出した際,大火傷を負いましたが,その名医があのとおり雪の肌に戻してくれました! 兄を庇って右腕を賊に切断された折も,その名医が元どおり氷柱の腕を生やしてくれました! 内侍さまも,なおられます!――必ず,なおして御覧にいれます!」
 内侍が静かに木上を見あげていた。その背後に人影が忍び寄る――
「やめて!――内侍さま,お逃げください!」
 叫んだときには既に遅く,太刀が振りおろされていた。ばたりと内侍は倒れた。
「観念せられよ――全て終わったのじゃ――」
 頼宗が虫の息の内侍に近づいた。けっけっけっと内侍は頭を擡げて笑い声をたてたが,ようよう崩れず残留する唇はひどく歪んでいた。
「頼宗さま――」
 横たわる内侍が一つの乳房を両腕で搔きいだく。
「お吸いなされ――上さまも,おまえさまも,頼通さまだって,この乳を銜えさせ,機嫌をとってやりましたなあ――」
 太刀が闇に翻り,大きく痙攣した内侍の右肩から左脇腹にかけて斜交いの線が浮きたった。どす黒いものが飛び散る。
 返り血を浴びた頼宗が太刀を構えなおし,正面を睨み据えた。
「家長の侮辱は断じて許さぬ」
 ほほほほほほおう――内侍の血をふく身体がつりあがるように立った。更に乳房を抱いたまま頼宗に迫ろうとする。両手に摑む肉塊は破裂しそうである。
 頼宗が幾度も太刀を振りおろしたが,一向に内侍は倒れない。
 もはや仏の名号におすがりするしかなかった。南無阿弥陀仏,南無阿弥陀仏――隣からも低い声が連なった。
 頼宗が従者に後始末を指図する。
 両眼をひらく。
 小さな塊を遠巻きに見るばかりの従者たちを,主人が叱りつければ,従者たちは務めを押しつけあって右往左往する。混沌の中心でようやく平静を得た遺骸が悠然と血と泥と闇とに塗れている。
「私はこれにて――」
 麗子が進みでて頼宗に一礼をする。
「おおうっ――ようやってくれた! 次の勾当内侍に推挙しておくゆえな!」
 空へ一瞥を馳せただけで,こちらの存在に気づかない振りをして麗子が足早に去っていく。
「それがしも失礼いたす。権大納言さまのなさることに容喙する気は毛頭ござらぬ」
 成道は一歩二歩と後退し,くるりと背をむけるなり,逃げだした。
 頼宗が号令をかける。立ち所に成道は拘束されてしまった。
「どうか,どうか検非違使の任をお解き召されるな!――職をとられる憂き目におうては自尊の念がもちませぬ!」
「命のとられんとすを憂えるがよい――」
 両手をすりあわす成道を一笑に付し,頼宗は上界を見あげた。
「おまえも検非違使であろう――妹御を伴い,ただちにおりて参れ――さもなくば解任の恥辱を受けようぞ」
「私は元検非違使です!――」
 俊通が即答する。
「既に散位の身にて恥辱を受ける懸念もございませぬ!――」
 そう言ってから,こちらをむいて屈託ない笑みを浮かべる。
「御心配には及びませぬ」
「心配したほうがよくってよ――」
 青瓢箪の上に無職なのであるから。
「誤認しておりました。無口で,御自身のお考えもお伝えにならぬ方だと拝しておりましたのに,違うのですね」
 遠慮される相手には口数も少なくなるし,本心もさらしたりしない。それに――
「誰だって三十路を過ぎれば厚かましくもなるわよ」
 俊通が朗らかに笑った。一方下界からは激怒の声が飛ぶ。
「人の話を聞いておるのか! わしを誰だと思うておる! 関白左大臣の弟権大納言藤原頼宗であるぞ! 即刻おりてこぬなら仲間の息の根をとめるが,よいのだのう!――」
 成道が助けを求めて懇願する。
 私と俊通は捕縛され,連行された頼宗邸にて幽閉された。
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