顔も知らない旦那様に間違えて手紙を送ったら、溺愛が返ってきました

ラム猫

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第一話

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 セシリアが、ハンベルク侯爵家の一員となってから、まる三年が過ぎた。
 結婚式の三日前。夫である侯爵アルフォンス・ハンベルクは、国境を脅かす大規模な戦争に対応するため、前線へと旅立った。それ以来、一度も領地へは帰還していない。セシリアは夫の顔を一度も見たことがない、という状態なのだ。

 セシリアは屋敷で、静かな日々を送っている。侯爵家の人々も、使用人も、彼女を憐れむような目で見ていた。「忘れられた花嫁」「飾りだけの侯爵夫人」——それが、この三年間でセシリアが手に入れた肩書のすべてだ。

 ある日の夜。彼女は親友のソフィアへ手紙を書いていた。唯一の心の吐き出し口、それが親友への手紙だ。

「——ソフィア、聞いてちょうだい。このつまらない日々は、わたくしが石になってしまうのではないかと思うほどよ」

 そう書き始めると、三年の間に募った不満と寂しさが、堰を切ったように溢れ出した。
 


 侯爵様は、わたくしと結婚したことすら覚えていらっしゃるのかしら? 政略結婚だったから元々愛情などは期待していなかったけれど、まさか顔すら見ることもないなんてね。

 彼は稀代の軍略家だとか、英雄だとか、世間では称えられているけれど、わたくしにとってはただの冷たい旦那様よ。稀にわたくしに送られてくる手紙は、いつも彼の側にいらっしゃる別の方からの事務的な報告書ばかり。無事かどうかの知らせは、「侯爵様はご無事です」という簡潔な一言だけ。

 わたくしは、夫の無事をただ祈るだけの飾りの妻。この退屈な生活と、戦争が終わってからももしかしたらわたくしを必要としない彼の姿を想像するだけで、寒気がしてくるわ。

 ああ、ソフィア。わたくし、少しひどいことを言ってしまうわね。彼がこのままわたくしを愛してくれないのなら、いっそ離婚でもしてしまいたい。夫の顔すらも知らないのだから……もともと、彼と会ったこともないのよねぇ。



 セシリアは興奮気味にペンを走らせた後、その悪態に自分で苦笑し、手紙を封筒に収めた。彼女が本音を共有できるのは、ソフィアだけだ。

 翌朝、彼女は手紙を屋敷の郵便箱に入れた。ソフィアに送る郵便箱と侯爵がいる戦線へ送る郵便箱は隣り合わせになっている。
 ぼんやりと立ち去ろうとしたセシリアは、心臓が凍り付くのを感じた。

(待って……今、わたくし、ちゃんと手紙を入れたかしら?)

 慌てて振り返ると、すでに使用人が手紙を集めて持っていくところだった。彼はセシリアが見ていることに気が付き、顔色一つ変えずに恭しく一礼する。

「奥様のお手紙、確かにお送りいたします」
「……ええ、よろしくね」

 確認しようにも、引き留めるのは心苦しい。使用人の後ろ姿を見つめながら、彼女は過去の自分の行為を信じることにした。ソフィアへ送る手紙と侯爵へ送る手紙を、間違えるはずなどない。

(……でも万が一、間違えていたら)

 セシリアは青ざめた。侯爵への愚痴が詰まった、侯爵夫人としてあるまじき内容の手紙が彼本人に届いてしまうなんて。彼に喧嘩を売ってしまうようなことを多々書いている。冗談のつもりで書いた離婚という言葉を真に受けられて離縁してしまったら、実家にも迷惑がかかる……。

 その日から、彼女の心は氷のように冷たくなった。手紙の返信が届くのを、ひやひやしながら待つしかできなかった。



 ◇ ◇



 アシュレイ侯爵は、前線の陣営で淡々と軍略を立てていた。彼は常に冷静沈着で、周囲の人々はそれを心強く思うとともに、彼の表情筋は固まってしまっているのではないかと心配している。

「閣下。お手紙が届いています」

 彼はいつものように机の上を睨んでいたが、部下に声をかけられて顔を上げる。領地からの手紙が多数届いており、執務長からの報告書、物資の請求書、そして政務の進行状況などに目を通す。それらを冷徹な機械のように処理していく。
 その時、彼は書類の束の中に、見慣れない封筒が紛れ込んでいることに気づいた。少し上品な、淡いクリーム色の封筒。

(これは……私的な手紙か?)

 侯爵宛ての私的な手紙が届くことは珍しい。不思議に思いながら、彼はその封筒を手に取った。差出人を見ようとしたが、封筒には記されていない。しかし、侯爵家の事務方からの書類と一緒に紛れ込んできたということは、屋敷内の誰かが書いたもので間違いはないだろう。

 ふと、アシュレイの脳裏に、一度も顔を見たことのない妻、セシリアの存在がよぎった。
 三年前の結婚。それは、ハンベルク侯爵家の地位を固めるための、あくまで政略的なものだった。そして彼女を屋敷に残し、そのまま戦場へ。以来、彼が彼女に送ったことのある手紙は、「事務的な生活費の送金報告」と「自身の無事を知らせる簡潔な報告」のみ。そのどれも、彼が直接手紙を書いたことはない。それは彼女の方も同じようで、彼女から届く手紙も淡々と日常の報告がなされているだけである。

(これは、彼女からの手紙?)

 いや、違うだろう。彼女は自分を必要としていないはずだ、と彼は考える。

 彼女は侯爵夫人という地位を与えられ、安寧な生活を送ることができている。それ以上、彼女は自分に求めていないと、アシュレイは信じ込んでいた。そう信じ込むことで、彼女を一人にしている罪悪感から逃れていたのだ。

 彼は封蝋を破り、封筒から紙を取り出した。それは、優雅な筆跡で書かれた、長い手紙だ。

「親愛なるソフィアへ」

 その文を読んだ時、彼は納得した。

(これは、私宛ではない。誤配だったのか?)

 彼は読むのをやめて部下に手紙を返そうとしたが、彼女が友人にどのようなことを書いているのかという興味から、最初の数行を読んだ。
 そして、彼は背中に氷を当てられたような衝撃を受けた。


 侯爵様は、わたくしと結婚したことすら覚えていらっしゃるのかしら? 政略結婚だったから元々愛情などは期待していなかったけれど、まさか顔すら見ることもないなんてね。彼は稀代の軍略家だとか、英雄だとか、世間では称えられているけれど、わたくしにとってはただの冷たい旦那様よ。


「……冷たい旦那、か」

 アシュレイは、その言葉を反芻した。冷徹な軍人、無感情な戦略家、感情を排した木偶。戦場で彼に与えられてきた称号は数あれど、妻本人から「冷たい旦那」だと言われることは、なかなか心臓を抉りにきている。

 この手紙は、彼女の本音だ。顔も知らない夫への、三年間の孤独と失望に満ちた、純粋な本音。彼は少し躊躇し、心の中で彼女に謝罪してからすべての文に目を通した。



 ……アシュレイは、読み終えると同時に深々と息を吐いた。彼の冷たい青い瞳は激しい感情に揺れている。

 長年感じることのなかった強烈な衝撃と、罪悪感。そして高揚感だった。
 彼の元に届く彼女からの報告書は、すべて形式的で淡々としたものばかりだ。だが、この手紙には、セシリアという生きた女性の感情が満ち溢れている。その感情が、彼の心を温めた。

 彼女は、自分を「冷たい旦那」と書いた。ならば、自分はその評価を変えるために動く必要がある。

(……残念ながら、離婚はしてやれないな)

 アシュレイは、ペンを手に取って新しい紙を用意した。


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