死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

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第23話 番犬の焦燥

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 ギルベルトの平穏は、ここ数日間崩れ去っていた。
 否、物理的な平穏ではない。彼は今も、港町セレンの平和を守る番犬として、エルセリアの不利益になる害虫を影から間引く作業を完璧にこなしている。今朝も、エルセリアの店に変な手紙を投げ込もうとした色ボケの若造を、人知れず路地裏で説得してきたばかりだ。

 問題は、彼にとっての太陽であり、空気であり、神と仰ぐ対象——エルセリアの態度であった。

(……目が、合わない)

 薬屋の裏庭。干し草を整理するエルセリアの背中を、ギルベルトは三メートル後方から凝視していた。普段なら、彼が視線を送れば、彼女はすぐに気づいて「ギル、何か手伝ってくれる?」と花が綻ぶような微笑みを向けてくれる。

 だが、今日はどうだ。彼女は一度も振り返らず、何やらマルタと熱心に耳打ちをしている。それも、彼が近づこうとすると、二人は示し合わせたように口を閉じ、不自然に距離を取るのだ。

「……嫌われた」

 ギルベルトの口から、呪いのような呟きが漏れる。その瞬間、彼の周囲の気温が急激に下がった。植物が微かに凍りつき、近くを飛んでいた蝶が生命の危機を感じたのか軌道を逸らす。

(なぜだ? 昨日のスープの塩加減が気に添わなかったのだろうか。それとも、掃除したゴミの血の香りが残っていたのか。……あるいは、俺の愛が重すぎて、ついにエルセリアが耐えきれなくなったのか!?)

 思考が急速に闇へと加速する。ギルベルトにとって、エルセリアに避けられることは、肺から酸素を抜かれることと同義だ。

「……もしや」

 ふと、最悪の可能性が脳裏をよぎった。

「エルセは……俺に飽きて、新しい犬を探しているのでは……?」

 かつて、王都の騎士団にはエルセリアの美しさに鼻の下を伸ばす無能な男たちが大勢いた。最近、この街でも彼女を慕う若い漁師が増えている。力強く、自分のような陰気な掃除人とは違う、太陽の下で働く男たち。

「許さない。……絶対に、許さない」

 ギルベルトの金色の瞳が、どろりとした執着の色に染まる。彼の脳裏に、かつて何度も描き、そのたびに「エルセリアに嫌われたくない」という理性で踏み止まってきた光景が浮かぶ。

 ——深い地下室。銀の鎖。外の光を一切遮断した、自分と彼女だけの世界。そこに彼女を閉じ込めれば、誰の目も気にせず、彼女は俺だけを見て、俺の手からしか食事を摂らず、俺の言葉だけに耳を傾けるようになる。もう、よそよそしく目を逸らされることもない。新しい犬に怯える必要もない。

(……いっそ、鳥籠の中へ)

 無意識のうちに、ギルベルトの手が懐のナイフに触れる。エルセリアを傷つけないための、最高級の麻酔薬が塗られた刃。

「——何を、恐ろしい顔で自分の世界に浸っているのですか。この狂犬が」

 氷水を浴びせかけるような声が、彼の妄想を叩き割った。いつの間にか背後に立っていたマルタが、冷ややかな視線を向けている。

「仮面女。……エルセリアの様子がおかしい。俺を避けている。お前も共犯だろう」

 ギルベルトの殺気がマルタに向かうが、彼女は眉一つ動かさない。

「お嬢様はお忙しいだけです。……まあ、あなたのその、顔に出すぎる不気味な情念がお嬢様の作業の邪魔になっているのは事実でしょうね」
「嘘だ。……エルセリアは今、俺以外の誰かのために何かを準備している気配がする。……その相手を、今すぐこの世から抹消してくる」

 ギルベルトが影へと溶け込もうとした瞬間、マルタの鋭い一言が彼の足を止めた。

「ならば、自分を殺すことですね。……お嬢様を泣かせたいのなら、どうぞお好きに。せっかくお嬢様が、慣れない手つきで指を傷だらけにしながら、準備をしているというのに」
「……傷……だらけ……?」

 ギルベルトの時が止まった。エルセリアの、あの白く美しい指先が? 俺がこの世で最も尊び、毎日でも口づけを落としたいあの至宝が、傷ついている?

「どこのどいつだ! エルセリアに怪我をさせた不届き者は!! 刃か? 裁縫道具か!? 全てを粉砕して塵にしてやる!!」
「……鏡を見てきなさい、鈍感男が」

 マルタは大きく溜息をつき、エルセリアのいる調合室の方を指差した。

「いいですか。お嬢様は……あなたにサプライズをしたいと、私にまで協力を求めて。あなたが嗅ぎ回るから、作業を隠すのに必死なだけです」
「……は?」

 ギルベルトの脳が、情報を処理できずに完全にフリーズした。

「エルセリアが……俺のために……?」
「ええ。流石に何を作っているかは教えませんが、それはもう、必死に。……それなのに、当の本人は鳥籠がどうの、新しい犬がどうのと。……救いようのない馬鹿ですね」

 ギルベルトは、その場に崩れ落ちた。先ほどまでの禍々しい殺気は霧散し、代わりに全身から「エルセリア大好き」という愛情がが湯気のように立ち上る。

(あぁ……エルセリア。俺、死にたいです。あまりの幸福と、自分の浅ましさへの自責で……)

 彼は調合室の扉を見つめた。
 扉の向こうで、エルセリアが自分のために、一生懸命に手を動かしている。その事実だけで、彼の心臓は爆発せんばかりに脈打つ。

「……鳥籠なんて、いりませんでした」

 ギルベルトは自分の右手をじっと見つめ、小さく笑った。

「お嬢様が俺を想ってくださるこの瞬間。……それこそが、俺を一生縛り付ける、最高に甘美な檻だったんですから」
「相変わらず変態な獣ですね」

 マルタは鼻で笑いながらも、少し優しい目をしていた。
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