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第35話 悩み人達のヤケ酒
しおりを挟む月が中天に掛かる頃。港町セレンの路地裏にある、目立たない酒場の片隅にて。そこでは、昼間の華やかな騒動からは想像もつかない、ひどく沈滞した空気が漂っていた。
「……もう一杯。今度はアルコール度数の高い、喉が焼けるようなやつを」
カインが虚ろな目でグラスを差し出す。その正面では、背筋を正したまま微塵も揺るがないマルタが、琥珀色の蒸留酒をストレートで煽っていた。
「……お代わりを。ボトルごと置いていって構いません」
本来ならば互いの喉笛を狙い合うべき二人は、今、共通の苦労という名の重圧に押し潰され、奇妙な連帯感の中にいた。
「いいですか、カインさん。私の心労の九割は、あのアホ犬です」
マルタがグラスを置き、静かでありながら重い口調で語り始める。
「あの狂犬はお嬢様が『おはよう』と仰るだけで、その一言を記憶する道具を発明しようとする。お嬢様が転びそうになれば、重力が悪いと言って地面をナイフで削り始める。……今日も今日とて、お嬢様が焼いた少し焦げたクッキーを『聖遺物だ』と言って額縁に飾ろうとしていました。不衛生です。速やかに私の胃袋という名のゴミ箱に処分しましたが」
「……贅沢な悩みですね、マルタさん」
カインがグビグビと酒を飲み干し、力なく笑う。
「僕の主を見てくださいよ。あの暴走太陽は今日、宿に戻るなり『エルセリアの視線が三回私の胸筋に止まった。これは、彼女が私の逞しい肉体に抱かれたいという無言の求愛だ。よし、明日からシャツのボタンは三つ外すことにする』と仰ったのですよ?」
「……それは、ただの露出狂ですね」
「そうですよ! しかも、ギルベルトと殿下が喧嘩を始めるたびに、僕は両方の殺気を柳のように受け流しながら、周囲の被害を最小限に食い止めてる。……僕、殺し屋のはずですよ? なんで、暴れ馬と狂犬を宥める調教師みたいなことしてなきゃいけないんですか」
二人は同時に深い溜息をつき、同時に酒を飲み干した。
「……でも、お嬢様は罪作りです」
マルタの瞳が、少しだけ潤んでいる。酒のせいか、あるいは、心からの実感か。
「あの方は、あんなに美しくて尊いのに、自分がどれほど周囲を狂わせているか少しも理解していない。あの狂犬があんな風になったのも、元を正せばお嬢様があまりにも深い慈愛を彼に与えてしまったからです。……愛に飢えていた犬を、お嬢様が抱きしめてしまった。その結果、犬はもう二度と、その腕の中から出たくないという執念の塊になったのです」
「……エルセは、確かにヤバい」
カインが、酒を飲みほした勢いでテーブルに突っ伏した。
「僕だって、最初は仕事のつもりだった。でも、あの人の淹れた茶を飲んで、あの真っ直ぐな瞳に見つめられたら……『ああ、この人を汚す奴は僕が全員殺そう』って思っちまった。……閣下が求婚したとき、実は僕も、ギルベルトと一緒に閣下の背中を刺しそうになったんだ。主君殺しなんて、最低の評価になるってわかってたのにさ」
「あら。あなたもあっち側の素質があるのですね」
「うるさいな。……あんたこそ、エルセのためなら、王宮を爆破して更地にするくらいの準備はしてるんだろ?」
「……。設計図は既に頭の中にありますけれど」
「怖っ!!」
夜が更けるにつれ、二人の愚痴はさらに泥沼化していった。
「お嬢様の隣にふさわしいのは、あのアホ犬ではない。あのバカ王子でもない。……いっそ、私とお嬢様で遠い国に亡命して、二人だけで静かに暮らすのが正解なのです」
「いや、僕がエルセをクレイウスの離宮に隠して、僕が毎日美味しい飯を運ぶのが一番平和だ」
「……カインさん。今、あなたの発言、ギルベルトと全く同じレベルでしたわよ」
「くそっ、もう一杯だ!!」
結局、二人が酒場を後にしたのは、東の空が白み始めた頃だった。瓶数本を空にしながらも、二人の足取りは驚くほどしっかりしている。二人は、底なしの酒豪であった。
「……さて。戻れば、またあの狂犬が『お嬢様が目覚める五分前に枕元で待機する』とか言って騒いでいるでしょうね」
「僕の方も、閣下が『寝癖までいけているだろう?』とか言いながらエルセの店の前に立ってそうだ……。尻拭いが必要になるのなら……殺そう。今度こそ、主を」
「加勢します。……では、また戦場で」
二人の苦労人は互いに一礼し、それぞれの持ち場へと戻っていった。
彼らがどれほど愚痴をこぼそうとも、結局のところ、エルセリアが幸せそうに笑っていれば、すべてを許してしまうことを自覚しながら。
——翌朝。 「マルタ、おはよう! ゆうべは遅かったのね。カインさんも、顔色が少し赤いですよ。大丈夫ですか?」というエルセリアの清らかな挨拶一つで、二人の微かに残る二日酔いとストレスが浄化された。
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