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第59話 逃げ場なき午後の誘惑
しおりを挟むクレイウスの午後は穏やかな黄金色の陽光に包まれている。しかし、エルセリアの心中に吹き荒れる嵐は、一向に収まる気配を見せない。
半壊した寝室の修繕が終わるまで、彼女は王宮の奥まった場所にある回廊で、独りティータイムを過ごしていた——はずだった。
(……どうしましょう。顔が、顔が戻りません……!)
エルセリアは、両手で自分の頬を包み込み、冷やそうと必死だった。昨夜、泥酔した勢いでギルベルトに縋り付き、「大好き」だの「行かないで」だのといった、普段の彼女なら卒倒しかねない甘い言葉を連発したという事実。そして、その後の深い口づけと、朝まで添い寝をされていたという現実。
思い出そうとすればするほど、断片的な記憶が鮮明な映像となって脳裏をよぎる。彼の熱い吐息。 自分を閉じ込めるように強く回された腕。そして、触れ合った唇の、痺れるような柔らかさ。
「……あうぅ……」
エルセリアはテーブルに突っ伏した。そんな彼女の背後に、足音もなく現れた影がある。
「エルセ。お茶のお代わりはいかがですか?」
鼓膜を揺らす、低く、どこまでも心地よい声。エルセリアは弾かれたように跳ね起きた。
「ギ、ギル……!? あ、いつからそこに……」
「エルセが『あうぅ』と、愛らしい鳴き声を漏らした瞬間からずっと控えております」
ギルベルトは、マルタとの乱闘でボロボロになった昨夜の礼装から、いつもの完璧な従者服に着替えていた。だが、その佇まいは以前とは明らかに違っている。かつての彼はエルセリアを崇める忠実な騎士だった。 しかし今の彼から漂うのは、獲物をじっくりと追い詰める飢えた獣の気配だ。
「……お顔が赤いですよ、エルセ。まだ、昨夜のお酒が残っているのでしょうか。それとも——俺にされたことを、詳しく思い出している最中ですか?」
「…………っ!!」
エルセリアは、ティーカップを持つ手が震えるのを隠すため、慌てて視線を逸らした。
「な、何を仰っているのか分かりません! 私は、その、今日のお天気がとっても良いので、少しのぼせているだけです! ええ、そうですわ、砂漠の太陽のせいです!」
「ほう。太陽のせい、ですか」
ギルベルトは、無造作に彼女の椅子の背後に回り込んだ。彼はそのまま身を屈め、エルセリアの耳元、わずか数センチの距離までその端整な顔を近づけた。彼のまとう独特の香りが、エルセリアの鼻腔をくすぐる。
「……エルセ。昨夜、あなたは俺を離さないと仰いました。……俺の腕の中で、あんなに蕩けた顔をして、何度も何度も『もっと深く』と求めてくださったのは、太陽のせいだったと?」
「そ、そんなことまで多分言ってないわ! ギルの嘘つき! 誇張しているのよ!」
「いいえ。俺という男は、エルセの御言葉を一字一句漏らさず心に刻むよう教育されております。……俺への『大好き』も、『ずっとそばにいて』も、すべて事実ですよ」
ギルベルトの長い指先が、エルセリアのうなじに触れたか触れないかの距離で揺れる。エルセリアは、背筋に走るゾクゾクとした震えを抑えることができない。
「……ねえ、エルセ」
彼の囁きは、もはや甘い毒そのものだった。
「昨夜のことは、確かにお酒の力だったかもしれません。……ですが。もし、今のこの状態で、俺があの続きを望んでいると言ったら……、どう答えてくださいますか?」
「……え……」
「昨夜は、あなたの心身を守るために、俺のなけなしの理性が勝利しました。……ですが、今は酒の効力もない。エルセは、素面だ。……拒絶なさるなら、今のうちですよ?」
ギルベルトの手が、エルセリアの肩に置かれる。彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。エルセリアは「逃げなきゃ」と思っているのに、その場に縫い付けられたように動けなかった。
ギルベルトは彼女の反応を楽しむように、ゆっくりと、しかし確実に彼女を追い詰めていく。
「……もしかしたら。……昨夜のことがあんなに気持ちよかったから、実は、素面でも俺に触れられたいと思ってくださっているのでしょうか……?」
「………………ッ!」
エルセリアは、羞恥心で爆発しそうになりながら、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「——も、もういいですわ! ギルの意地悪! ……私は、マルタのところへ行ってきます! ギルはそこで、自分の言動を反省していなさい!」
彼女は、振り返ることなく回廊を駆け抜けていった。その後ろ姿を見送りながら、ギルベルトは一人、唇を指先でなぞり、狂おしいほどに悦びに満ちた笑みを浮かべる。
「反省、ですか。……いいでしょう。次にあなたを捕まえたとき、どうやって逃げられないように愛で尽くすか……。たっぷりと反省して、計画を練っておきますよ、エルセリア」
逃げ出したエルセリアは、自分の鼓動がうるさすぎて、周囲の音が聞こえなかった。
昨夜の続き。もし、今、本当に彼に口づけをされていたら。自分は本当に、彼のことを拒絶できたのだろうか。
そんな問いに対する答えが、自分の中ではっきりと出始めていることに、彼女はまだ、認める勇気を持てずにいた。
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