曇りのち晴れはキャシー日和

mic

文字の大きさ
上 下
41 / 49
第四章 ノンストップ! キャシー号

しおりを挟む
「あのお姉ちゃん、幸せそうな顔をしていたね」軽快に走り出したキャシー号の中、卓也君が足元を見つめながら言った。
「カナさんのことかい?」僕は卓也君の顔をのぞき込んだ。「そう。カナさんは幸せだけど、これからもっと幸せになるようがんばるんだよ。でも、どうしたんだい急に」
 卓也君は僕の問いには答えず、菜々実と僕の顔を順番に見た。
「菜々実ちゃんって、公彦の彼女か?」卓也君が探るような目つきをする。
「こら、人を呼び捨てにするな」僕は、その場駆け足を始めた心臓をごまかすように卓也君をにらんだ。
「彼女だけど、それが何か?」菜々実がしゃしゃり出る。
 くそ。人が答えずにすまそうとしていた返事を、いともあっさりと。
 でも、どういう返事をしようとも、たぶん卓也君の反応は同じだったと思う。なぜなら、もう僕たちのことなど忘れたかのように、じっと窓の外をながめていたからだ。今、彼の心は、まるで幽体離脱のように窓の外に逃げ出している。気になるのは、彼の寂しそうな表情だ。僕は一呼吸置いたあと、卓也君の心を引き戻すことにした。
「話したいことがあれば、遠慮しないで言ったほうがいい。スッキリするから。このキャシー号はそういうことができる場所なんだ」
「動く相談所」立石さんが小さな声でつけ加える。「あるいは、お助け出動隊」
「あなたが一番の相談者でしょ」姉貴がビシッと就職情報誌を指さした。
「姉ちゃん」卓也君が僕の顔を上目遣いに見る。「俺の姉ちゃんが結婚するんだ。家を出て行くんだって」
「あ、そういうことか」菜々実が膝を叩く。「それで、卓也君は寂しいのね。お姉さんのこと、大好きなんだ。でも、お姉さん、さっきのカナさんのように幸せそうな顔をしているでしょ? それを見守ってあげなきゃ」
「姉ちゃんのことは好きだし幸せになってほしいけど」卓也君が窓の外を見る。「でも、やっぱり腹が立つ」
「だから、なんでよ」菜々実がじれったそうに言う。その声に応えるように、卓也君が菜々実の顔を見る。
「チャッピーって、ほんとは姉ちゃんの飼い犬なんだ。だけど、結婚するから飼うことができなくなったんだよ。それで、俺が引き受けたんだ」
「あ、そうだったんだ」菜々実が窓の外に目を向けた。左右に視線を走らせる。「チャッピー、いなくなっちゃったのよね。はやく見つかるといいな」
「姉ちゃん、泣いたんだよ!」突然、卓也君が悔しそうな顔を僕に向けた。「俺と離れることになっても少しも泣かなかったのに、チャッピーと離れることになったとき、泣いたんだ。大声で泣いたんだ」
 卓也君が目を逸らした。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。唇をかみしめた彼は、喉を締めつけるような声を漏らす。「チャッピーなんて、見つからなければいいのに」
「なんだ、そんなことか。バカ野郎だなあ、卓也」修太郎さんが、まるで天気のいい日にスキップするような口調で言った。
 卓也君が、キッと修太郎さんをにらんだ。「なんでバカ野郎なんだよ」
「それがわからないだろ? だから、バカ野郎と言ったのさ」振り向いた修太郎さんが、運転席の背もたれに両手を乗せて、その上にアゴを乗せた。「じゃあ、教えてやろう。姉さんがお前と離れることになっても泣かなかったのは、お前を男と認めたからだよ」
「俺を男と?」卓也君が眉を寄せた。「どういう意味だよ、それ」
「結婚して家族の元を離れるのに、泣かない女なんているかよ。ましてや、かわいい弟と離ればなれになるのに、涙よりも笑顔が優先する女なんていやしないんだよ。静香、お前のときはどうだった?」
「え? それはまあ」姉貴がちょっぴり赤面しながら横を向く。「多少、泣いた、かな」
「大泣きしていたよ」僕は真実を言うことにした。修太郎さんの話の効果を高めるために。卓也君の助けになるために。「ガラにもなくね。あ、鼻水も垂れていたかもしれない」
「なによ、鼻水なんて垂れてないわよ」姉貴が真っ赤な顔をして怒る。「それは、半人前のあんたのことが心配だったからでしょ。ガラにもなく、ってどういうことよ」
「な? わかったか?」修太郎さんが僕と姉貴のほうを手で指し示す。「こんな奇妙な姉弟でも、涙が付きものなんだ。卓也のまともな姉さんなら、なおさらだろう」
 奇妙な姉弟って。僕は修太郎さんの話をフォローしたことを、ちょっぴり後悔する。
「さっきも言ったように、お前との別れを笑って済ませられるなんてことは絶対にないんだよ。姉さんがそう見えたというのなら、それは姉さんが必死の思いで我慢していたんだろうな。お前にもっと強くなってほしいがためにな」
「俺にもっと強くなってほしいため?」卓也君がうわごとのようにつぶやく。「それ、ほんとなの? ほんとに、姉ちゃんは泣きたいのを我慢していたの?」
「ああ間違いないな。嘘だと思うなら、お前の両親に尋ねてみろ。姉さんが結婚して家を出るとき、親の前で泣かなかったか、とな」
 卓也君が、はっとした顔になる。半開きになった唇が乾いている。
「姉さんは、親にとってはいつまでも子供なんだ。だから、甘えられる。甘えられるから、素直に感情をさらけ出して泣くことができるんだ」修太郎さんが微笑んだ。「賭けてもいい。卓也の姉さんも大泣きしたはずだ」
 卓也君が唇を強く噛みしめた。じっと足元を見続ける小さな体は、わずかに震えている。
「チャッピーって、いわば姉さんの子供みたいなもんだろ? 今まで大事に世話をしてきた子供だ。それを手放すんだから、泣いて当然だよ。何度も言うが、お前と離れるとき姉さんが泣かなかったのは、お前のことを一人前と認めたからなんだ。それを認めた上で、お前のことを信頼した上で、お前に大事なチャッピーを託したんだ。そんな姉さんの気持ち、お前ならわかってやれるはずだ」修太郎さんが眉を上げて微笑んだ。「卓也って男は、素直でいいやつだからな」
 卓也君が顔を上げた。その顔がみるみるうちに歪んでくる。やがて、壊れたスピーカーのように、ガアア、ガアアとうなりながら泣き始めた。
「あなたはお姉さんを笑顔で見送ってあげて」菜々実も涙を浮かべながら微笑む。「それだけで気持ちは通じるから」
 卓也君が菜々実に抱きついて泣いた。怪獣のように泣き叫ぶ卓也君を、菜々実がしっかりと抱きしめた。
 しばらくして、卓也君は泣き止んだ。菜々実から離れた卓也君は、恥ずかしそうにそっぽを向きながら菜々実に言う。「ごめん、菜々実ちゃん。でも俺、今のでぜんぶ涙を出し切ったから。ありがと」
「ようし、えらいぞ卓也」修太郎さんが座席の背もたれを叩いた。「小学生の分際で、よく理解できた。お前はそこにいるイケメン高校生よりも理解がはやいかもな」
 ほっといてくれ。人の心に疎いことくらい、自分でもわかっているさ。僕はそっぽを向いた。
「じゃあ、あとはチャッピーが見つかればハッピーエンドですね」立石さんがハンカチで涙を拭きながら言った。いつの間にか、立石さんももらい泣きしていたらしい。
 へえ、けっこう人情味のある人だったんだ。僕は立石さんの意外な一面を見た気がした。
「あら。立石さん、素敵なハンカチをお持ちねえ」昌枝さんが立石さんの持つハンカチを見つめた。「私、ハンカチを集めるのが趣味なの。ちょっと拝見できるかしら? 男の方にしては珍しい黄色いハンカチね」
「いえ、私は真っ白いハンカチしか使いませんけど」立石さんが手元のハンカチに目を向けた。「あ、これ、変色しているのだと思います。おそらく、二年くらい洗っていませんから」
 全員が立石さんから離れようと身を引いた。
 ハンカチを昌枝さんに手渡そうとする立石さんを、昌枝さんが手で制した。「今日のところはいいわ。また今度拝見するわ」
「おい。チンタラやっている場合じゃなさそうだぜ」修太郎さんが笑顔を引っ込めた。キャシー号のリアウインドウから外の様子をうかがう。「まったく、しつこいやつらだな」
 僕は後方に目を向けた。え? まさか。向こうから、見たことのある車が近づいてくる。広誠連合だ。
「ええっ! なんでよお」姉貴が両手で口元をおおった。「しつこすぎない? わざわざ松山まで追ってきたのお?」
「おっと、キャシー号に気づいたようだぜ。急にスピードを上げやがった。とにかく逃げるぞ。揺れるからな、みんなしっかりつかまってろ」
 修太郎さんがキャシー号のタイヤを鳴らしながらスタートさせた。
「おそらく次の便のフェリーに乗ったんだろうな。俺たちが乗ったフェリーを見られたからには、行き先を教えたようなものだからな」
「でも、ここは松山よ、広島じゃないのよ」姉貴が小鳥のように甲高い声で叫ぶ。「治外法権でしょ。あ、彼らには法律なんて関係ないか」
 広誠連合の数台の車は、次第にキャシー号との距離を縮めてくる。このままじゃ、追いつかれてしまう。
「あの、質問があるのですが」立石さんが場違いなほど静かな声を出す。「フェリーに車を乗せた場合、航行中は車の中にいることはできませんよね。そういう規則ですから」
「え? ああ、そうみたいね」姉貴が怪訝な顔をする。「けど、それがなに?」
「いえその、あの人たちも客席に座って自販機の缶コーヒーなんかを飲んだのかと思いまして。陸地で買うよりも高いじゃないかと文句を言いながら」
「はあ? なによそれ」姉貴の顔が次第に険しくなっていく。
「そのあと、デッキに出たりなんかして、やっぱり海は広いなあ、なんて感激することもあるんでしょうか」
「だから、今の状況を考えなさいって!」姉貴が切れた。「もういいから、あなたは投げ出されないようにどこかにつかまって、情報誌だけ見ていなさい。この危機を乗り越えるまで、一切話しかけないで」
 立石さんはしょんぼりした顔で、就職情報誌に目を落とした。
 キャシー号が一方通行の道に突入する。道の両側に駐車している車を、修太郎さんは軽快なハンドルさばきでS字走行しながら避けて走る。駐停車している車が障害となり、広誠連合の車のスピードが落ちた。キャシー号との距離は一定のままだ。
 広誠連合の車は、高速走行に適しているセダンだけれど、我らがキャシー号はワゴン。しかも十人乗りのキャンピング仕様で超デカい。それでも、連中に簡単には追いつかせない修太郎さんの運転テクは、たいしたものだと僕は驚いた。まあ、免停中なのが玉に瑕だけれど。
「面白いや!」卓也君が、追っ手を見ながら興奮している。「映画よりも、ずっと面白いぞ!」
「そして、現実は映画よりもずっとヤバいけどな」修太郎さんが、体ごとハンドルを切る。「庄三爺さん。キャシー号のシート、今度、スポーツドライビング用に交換していいか? このシートじゃ、ちょっとばかしキツいな」
 庄三さんが、いいぞとうなずく。「好きにしてくれ」
「ヤバいことになったな」僕の腕にしっかりとつかまっている菜々実に言った。
「もっとヤバいのは、昌枝さんのほうかも」菜々実が、目で昌枝さんを示した。
 ハードな揺れの中でも平気でお茶を飲んでいる昌枝さんの目が、爛々と輝いている。口元に浮かんだ薄ら笑いがなんとも不気味だ。あ、失礼。
 でも、それを言うなら花ちゃんだって同じかも。この揺れの中で、ミニひまわりにペットボトルの水をあげているのだから。鼻歌交じりで。
 いったい、どんな人種が集まっているんだ、このキャシー号には。まともなのは、僕だけだ。僕だけだと思う。類は友を呼ぶなんて言葉、僕は信じない。
 車の性能の違いが徐々に表れてきたらしく、広誠連合の車との距離が次第に縮まってきた。広誠連合の運転手の顔が判別できるほどだ。ああ、やっぱり暴走族らしい顔つきをしているな、なんて言っている場合じゃない。追いつかれるのは時間の問題だ。
「ああもう、追いつかれちゃうよ」姉貴の声が裏返る。「キャシー号、空を飛べないの?」
「SF映画かよ」修太郎さんがハンドルとアクセルの連携を崩さずに答えた。「あ、後方の敵を攻撃する爆弾なんて積んでいないからな。念のために言っとくぞ」
 そのとき、卓也君がポケットから何かを取り出した。缶詰だ。卓也君はそれをじっとながめる。「これ、チャッピーの大好物なんだけどな。ごめんね、チャッピー」 卓也君は缶詰のフタを開けた。窓を開けて、缶詰を持った手を伸ばす。
「チャッピー爆弾だ。くらえ!」卓也君が缶詰を傾けた。軽く振る。中身が缶からこぼれ、後方へ飛んでいく。
 チャッピー爆弾は、広誠連合の先頭車のフロントガラスに着弾した。肉のチャンクがガラスにしがみつき、肉汁が放射線状に広がった。
 急ブレーキの音が響き、先頭車が急停車する。引き続き急ブレーキの音が四回ほど。幸か不幸か、車同士の接触、衝突する音はしなかった。
「グッドジョブだ、卓也」修太郎がバックミラーを見ながら親指を立てた。
「あれは貸しだからね」卓也君が修太郎さんに言う。「あとで返してよ」
「一週間分の缶詰を約束するよ」と修太郎さん。
「十日分」
「決まりだな」
 通りを抜けたキャシー号は別の道に入った。角を二つばかり曲がり、やっとスピードを落とす。
「やれやれね」姉貴が全身を使ってため息をつく。「地獄の底まで追ってきそうだわ。しつこい男は嫌いよ」
「それ、俺のことか?」修太郎さんが姉貴の顔を見る。
「あたしはあんたよりしつこいわよ」姉貴が悪戯っぽく笑う。「覚悟してなさい」
「あ、次の角を曲がったところで停めてください」立石さんが情報誌から顔を上げる。「コンビニがありますので、そこで」
「面接に行くところ? やるわね、立石さん」姉貴が驚いた顔をする。「あのカーチェイスのさなかに訪問すべき会社を選んでいるなんて。そのプロ根性、見直したわ」
「話しかけずに情報誌だけを見ていなさいと言われましたから」誉められたことが意外だったらしく、立石さんが驚きを露わにする。「あ、面接に行く会社には、さっきの鬼ごっこの最中にアポイントメントを取っておきましたからバッチリです」
「は? あのカーチェイスのさなかに?」姉貴がこぼれ落ちそうな目をする。「全然、気がつかなかったわ。っていうか、よく平気で電話できたわね」
「はあ。でも、先方さんには聞かれました。どこからかけているのですか、急ブレーキの音が聞こえましたが、何かトラブルでも、と」
「そりゃあそうでしょうよ。で、なんて答えたの?」
「ちょっとカーチェイスの最中でして、でも誰もケガはしないと思います、安心してください、と答えておきました」
 姉貴が無言で前を向いた。他のみんなも上を向いたり横を向いたり。さっきまでの夏フェスばりの喧噪とは真逆の静寂が車内を支配する。
「……で、面接に行く会社ってのは、そのコンビニかい?」沈黙にたまりかねたのだろう、修太郎さんが尋ねた。コンビニはもう目の前だ。「花火大会の時間が迫ってきた。そろそろ決めないと、花火に間に合わなくなるぜ」
「面接に行くのは、コンビニの隣りの製麺所です」立石さんが窓の外を指さす。「今度こそ、決めてきます。欲は言いません。寝るところさえあれば、もうぜいたくは言いませんから」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

地上最強ヤンキーの転生先は底辺魔力の下級貴族だった件

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:435

異世界ゆるり紀行 ~子育てしながら冒険者します~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:46,499pt お気に入り:35,276

前世の因縁は断ち切ります~二度目の人生は幸せに~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:89,809pt お気に入り:2,084

王女と騎士の逃走劇

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:32

転生先の異世界で温泉ブームを巻き起こせ!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:411pt お気に入り:358

ニコニココラム「R(リターンズ)」 稀世の「旅」、「趣味」、「世の中のよろず事件」への独り言

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:425pt お気に入り:28

処理中です...